敵将、黒田長政。
はじめに謝っておきます。
福島正則ファンのみなさん、ごめんなさい。
これでも愛嬌のある人物として描いたつもりなのですが、損な役回りです……。
では、少しだけ用語の説明を。要らなければ飛ばしてください。
・太閤 …… 関白の職を子息に譲った者の称。ここでは豊臣秀吉。
・殿下 …… 摂政・関白・将軍の職に就く人物の敬称。ここでは豊臣秀吉(前関白)のこと。「太閤殿下」のように接尾辞としても用いられる。
・内府 …… 内大臣のこと。ここでは徳川家康。
では、本編へ。
豊臣秀吉が、この世を去った。
「清須どの ーー」
前田利家もこの世を去った。
「清須どの ーー」
大納言前田利家は、秀吉の世継ぎ豊臣秀頼の後見だった。
彼の死により、天下の均衡が急激に崩れていく。ーー
「聴こえてますか、清須どの」
「ん?」
角張った顔が振り返る。
「ああ、やっと」
「はっきり喋らんか、吉兵衛」
清須侍従福島正則の声に、黒田甲斐守長政は両の耳を抑える。
「ああもう、でかいのは顔だけで充分ですよ」
「な、なんだと、こらっ」
正則は顔を真っ赤にして吠えるが、その興奮が大方自分のせいではないということを長政は知っていた。
「ねえ、清須どの。本当にやります?」
「な……、何をいまさら。第一、お前が言い出したことじゃねえか」
「ま、そうなんだけど」
愛想よく細めた目の奥で、長政は相手の心を観察していた。
「そんなに強張らないで、肩の力を抜いてください。清須どのが先頭に立てば、ついて来ない人はいないですよ。主計頭どのもいますし」
「虎之助か……」
加藤主計頭清正は、正則とともに豊臣家の天下のために戦ってきた武断派武将として知られる一方、石田治部少輔三成と同様、官僚としての顔も持ち合わせていた。
「大丈夫ですって。主計頭どのも治部少輔に讒言されたって言ってましたし、人一倍憎んでますから。ま、俺もですけど」
「うむ……」
長政は、相手の顔色が徐々に落ち着いていくのを見ていた。そしてこれは間違いなく自分の手柄なのだと、密かに悦に入っていた。
「安心しました?」
「うむ」
「良かった」
少しの間静謐な空気がただよったが、正則はすぐさま、
「んがあ!」
虎のように唸った。長政は慌てて両耳を覆う。
「わしは、不安だなどとは一言も言っとらんぞっ」
***
慶長四年(1599)閏三月三日、大納言前田利家の訃報を聞いた七人の武将 ーー 福島正則、加藤清正、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、蜂須賀家政、藤堂高虎 ーー は、石田治部少輔三成を亡き者にしようと、三千の兵を率いて大坂の石田屋敷へ向かった。しかし、この計略は事前に三成の耳へと入り、彼は襲撃をかわすべく伏見へと逃げた。
両者の調停を名乗り出た内大臣徳川家康は、三成にこの騒乱の責任を問い、彼を政権中枢から遠ざけ、天下の権をおのれの恣にするにいたった。
そして翌慶長五年(1600)、美濃国関ヶ原にて、家康・三成の両者は合戦におよび、敗れた三成は京六条河原で処刑された。天下は完全に、徳川のものとなった。
***
慶長五年九月、近江国大津、徳川家康陣所。ーー
音もなくそそぐ霧雨が、敗将の身体を冷やしていた。華奢な胴体はさらに痩せ細り、瞼はかすかに震えていた。
胃が痛い……。
ふと目を開けると、一人の敵将が立っていた。
「清須……」
四角い顔の猛将は、意地悪くにやりと笑うなり、彼を打った。倒れた身体を足蹴にして吠えた。
「馬鹿め。貴様は太閤殿下に媚びへつらい、戦の才もないくせしてでかい顔をしおってからに。殿下亡き後は徳川内府どのを嫉み、理不尽な戦を起こしてこのざまだ。どうだ治部少輔、ぐうの音も出まい」
三成はゆっくりと顔を上げ、言った。
「お前に話すことはない。気が済んだら帰れ」
彼の冷たい迫力に、相手はたじろいだ。
「治部少輔……」
「早く帰れ。気が済まぬなら、俺の首を取っていけ」
さらりと、三成は相手をあしらった。
***
三成は蹄の音を聴いた。目を開けると、一人の敵将が馬を降りるところだった。
「甲斐守……」
「聞きましたよ、治部少輔。相変わらずの傲慢さで、清須どのを追い払ったそうですね」
「……好きに言え」
「俺がやり返してやるからついて来いって言ったんですけど、あの人もう、治部少輔の顔は見たくないっていうんですよ。怖いんですかってからかったら、真っ赤になって怒鳴りだすんだから、もうやってらんない」
ため息を吐こうとして、三成は咳き込んだ。身体が震えている。
「寒いんですか? ま、そりゃそうか」
相手はそう言って羽織を脱ぐと、敗将の背を包んだ。
「……」
「あったかいですか。……それとも、ぞっとします? ……ね、ぐうの音も出ないでしょう……?」
三成は顔を伏せ、凍えた鼻先を羽織りへと押しつけた。
しばらくして、相手が立ち上がった。
「待て、悪党」
「悪党だなんて、相変わらずの厚顔ですね」
「お前は随一の悪党だ。清須ら諸将を操って、徳川内府に味方させた。そうしておいて、何食わぬ顔で俺の前に現れ、話をしている」
「……」
「ぐうの音も出ないか」
三成の言葉に、相手は肩をすくめて笑った。
「愚かなだけの人間より、お前みたいな悪党のほうが愛着が持てる」
「そこがあなたの、残念なところですよ」
「人の心は、わからないもんだ……」
安心してください、治部少輔。あなたのことはわかってますから。
そしてそれは、俺だけじゃなくて……
かの大悪党、徳川内府様も、ね。
- 了 -