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 湯上りで火照った体をタオル一枚で隠しながら家の中を駆けまわる女がいる。

 だが妹だ。


 濡れそぼった毛先から雫が垂れ、血色が浮き出た生々しい肌を滑り落ちる。

 だが妹だ。


 滑り落ちた水滴が第二次性徴を終えた中学生の健康的な胸のふくらみに到達する。


「お母さん、私の下着どこー?」


 体躯の輪郭を隠すタオルは天女の羽衣のように、家屋を旋風する風に靡く。


「えー知らないわよ。お兄ちゃんに聞きなさい。扇風機の前にいるでしょ」


 テーブルの向こう側でセミロングの髪の毛が振り回された。キメ細かい黒艶はリビングの照光を鏡のように反射する。

 振り向いた天女と俺の視線が交わった。


「お兄ちゃん、私の下着どこ?」


 俺はソファから立ちあがり、尻の下に敷いていた無地のブラジャーとパンティーを手渡した。


「温めておきました」


 世界中を探したってここまで愛おしい人はいない。しかもこの感情の源泉は恋愛ではなく家族愛だ。

 純粋と無垢の極致の愛の対象になりうる絶対条件。


 それは妹だ。


 下着を受け取った妹のさなかはその場で着替え始めた。


「夏なのに下着あたためられてもなあ……。お腹冷えるわけじゃないし」

「下着は一番体に近い場所にあるんだから留意しないと」

「でも体との設置面積は下着よりTシャツの方が大きいんだよ。

 あ、違った。私は座高が低いから足の方が長いんだ。円筒の面積は……」


 有坂一家の兄妹のご説明。

 兄は文系、妹は理系予備軍だった。


「うん。ズボンの方が設置面積は大きい。体が大きくなるとおっぱいの膨らんだ分だけ対面積は大きくなるから、今のところはだけど」

「さなかのプロポーションはいくつになっても黄金比を保たれるって古事記にも書いてある」


 話をそらしながら、扇風機の電源を落とした。下着一枚のさなかが風邪をひくかもしれない。


「いいから服を着ろよ」

「うん。あーそうだ。後で宿題手伝ってよお兄ちゃん」


 さなかが甘えた声を出すが、厳しく言わないとダメだ。


「自分で解かなきゃだめだ。

 いくらさなかが世界で一番可愛くって中学校の勉強ぐらいできなくたってお兄ちゃんが養ってあげるとしても課された宿題くらいは自分でやらないと」

「でも、中学生の宿題を私がやるよりも高校生のお兄ちゃんがやった方が早いと思わない?

 これは立派な分業だよ」

「分業っていうなら、俺が宿題をやっている間にさなかは何をしてるんだ?」

「お兄ちゃんの肩でも揉んであげる」


 すぐさま筆箱を部屋から取ってリビングに戻ってきた。


 その間にさなかは着替えをすましていた。下着に大きいTシャツをゆるいハーフパンツのパジャマスタイル。ハーフパンツになりたい。


「一問につき一時間」


 交渉開始。


「高い。一問につき三分」


 交渉終了。


「答えじゃなくて、答えまでのヒントだけだからな」

「それでいいよ」


 渡された国語の評論文がプリントされた用紙に、書き込みを入れていく。問題文を見て答えになりそうな文章に波線、先生が大事だと言いそうな箇所に傍線を引く。


 問題が六題ほどに対して十本ほどの線を引いた。時間は計測しなかったけれど、きっと十分も経っていない。

 でも約束は約束だ。


「終わったぞ。さあ、揉んでもらおうか」

「はいはい。座って」


 ソファに座る。背もたれから少しだけ体を浮かしていると、肩に手が置かれた。

 ぐりぐりと、非力さがうかがえるマッサージ師が気分良く尋ねてくる。


「お客さん、痛いところありますかー?」

「妹が可愛すぎて胸が痛い」

「お客さん、イタイところありますねー」


 軽口に応えながら、ひな人形ぐらい美しいさなかの小さな手は勝手知ったりと腕の付け根から首元までを移動しながら俺の肩を揉み解した。


「ん、もういいよ」

「まだ五分しか経ってないよ?」

「今度は俺がやってやる」

「やった」


 ソファから俺が立つと、入れ替わって小さな声でさなかが「やった」と言いながらソファに座った。

 華奢な肩を強く揉む。文芸部に所属している俺の力では、頑張っても妹の肩は壊せない。


「あー気持ちいい。お兄ちゃん一生マッサージしててよ」

「いいぞ」

「やっぱいいや」

「遠慮するな」


 一生、妹の肩に触っていいなんて。合法的に妹専属のマッサージ師になりたい。


「私ももういいよ」


 五分ほどして、名残惜しくも妹の肩から手を放した。髪に触れるとまだ濡れていた。


「じゃあ部屋に行くね」

「その前に髪の毛だけ乾かして行けよ。風邪ひくから」

「はいはい」


 面倒くさそうにさなかは言うが、そういう日常の些細な気遣いが大事なんだ。

 ソファから元気に飛び上がったさなかはリビングからの去り際、「それとさあ」と扇風機をつけようとする俺の方を振り向いた。


「それとさあ、お兄ちゃんはそろそろ妹離れした方がいいよ」


 扉が音を立てて閉められた。

 ギリシャ神話にでてくる怪物ゴーゴンに体を石にされたかのように、妹のその言葉は俺を驚かすには十分だった。



    ――――



「……というわけなんだ」


 翌日。第二文芸部の部室がある高校の図書室の隅の机で、俺は同じ卓を囲む男メンツに昨日のことを話した。


「妹が妹離れを推奨してくる。これは組織の陰謀に違いない」

「厨二病乙」


 対面に座るゲルチンが呆れた様子を見せながらも突っ込みを入れてくれた。フジヤマは話の初っ端に「勝ち組シスコンめ地獄に落ちろ……」と呟いてからは耳を捨てて自作小説に魂をくべていた。


「つうか妹ちゃん、さなかちゃんだっけ? もう中学生だし普通じゃねえの。

 つうか中学生の妹がタオル一枚で部屋の中を駆けまわっている時点で妄想を疑うレベル」

「タオル一枚妹タオル一枚妹タオル一枚妹……」


 耳は捨ててなかったらしい。邪念に取りつかれてて若干怖い。


「世の妹がどうであれ、我が有坂家の妹はそういう女神なんだ」

「つうか何。一樹は妹と結婚したいの?」

「まさか。妹と結婚したいわけがないだろ」

「法律的に考えて?」

「常識的に考えてだ」


 俺は妹を愛していると説明をする度に、口を酸っぱくして言っている。


「愛していることに間違いはないけれど、付き合いたいとは思わない」


 好きだけれど、それは家族に向ける愛情だ。度が過ぎてると周りからは言われることも稀によくあるが、まあ、誤差だろう。


「妹の下着を触ってるくせに……」

「温めていただけだよ」

「変態乙」


 こいつらが茶化すせいで話が進まない。


「俺が相談したいのは、どうして妹が妹離れしろなんて言い出した理由だ」


 フジヤマはロリっ娘の衣服をひん剝く作業に心血を注ぐ物語に戻り、ゲルチンは俺の相談にため息をつきながらも乗ってくれた。今日の進捗が芳しくないのかもしれない。


「でもよお、普通に考えてみーよ。妹が妹離れしろって、つまり優しく遠回りにちょっと距離感考えてよお兄ちゃん! ってことじゃね」


 ピッチを高くしたゲルチンの声は、図書室を一瞬だけ森閑とさせた。


「ゲルチン……声真似キモイ……」

「うっせえ! とにかくだ、そういうことだろ。

 お前ら兄妹の距離感って同棲したカップルみたいだし、聞いててリア充破滅しろって思うし」


 距離感、か。


 ゲルチンやフジヤマとは高校の部活仲間で、創作小説の場においてはライバルでも仲間でもある。それをどんな距離感で表せばいいのか、俺にはわからなかった。


 さなかとはどうだろうか。


 小さい頃から同じ家に暮らす間柄。兄妹の仲はそんなに悪くないと思う。けれど、ゲルチンが言う同棲したカップルみたいだというのは近すぎる。妹との距離は、確かに肩もみをしあうくらいに物理的には近いけれども、ゼロ距離ではない。


「ちょっとは妹と離れてみればいいんじゃね? 妹も思春期なんだろうし。ほら、あれだよ。生理だったんだよきっと」

「妹は生理もこないしウンコもしない!」

「同じ家にいる妹にどんな幻想を抱いてるんだよ……」

「そうだ! 妹という存在――いいやすべからくロリ娘は初潮を迎えない!」


 フジヤマの唐突な宣言は、図書室を一瞬だけ震撼させた。





「まあなんでもいいけど。あ、そうだ。そういえばお前らさあ、映画のチケット買わねえか?」


 妹の相談を流されて渋々と自作小説に筆を走らせていたが、どうにも身に入らなかった。暇つぶしに三題噺でもやろうかと適当なワードを他の卓から頂戴しようかと思っていたら、ゲルチンが声をあげた。


「映画のチケット? ゲルチンが映画なんて珍しい。ラノベ以外に興味あるのが珍しい」

「映画には興味ない。けど映画の前売り特典に興味があって、二枚買ったんだよ」


 なんでも、ゲルチンが好きなラノベ原作が実写化劇場版になったらしい。

 けれども実写化なんて三次元に興味はなく、ついでに可愛いだけでヒロインを演じるモデル女優とあらすじから臭う原作改変と原作じゃなくてアニメ版のイメージを取り込んでいることが気に入らなかったそうな。


「でも原作者書き下ろしのアフターストーリーが前売り券に特典としてついてくるんだよ。そうなったら意地でもファンとしては買うしかないだろ。たとえ映画は見なくとも」

「頑なだな……。後で前売り券よりその特典小説だけネットで買った方が安そうだけど」

「転売ヤーには死を……」


 フジオカが怒りを滾らせた目でそう言った。そういえば前に詐欺られたって騒いでたっけ。ゲルチンも同意見らしく強く頷いた。

 俺はネット販売とか利用しないからわからないが、転売ヤーはよほど嫌われているらしい。


「ふーん……ん? なんで二枚なんだ? 保存用か?」


 前売り券は千円ほどだろうか。大人なら軽々しく買えても、主食ラノ人間にとっては二食分だ。

 俺の質問に、ゲルチンは苦々しい顔で答えた。


「……特典小説は、前売り券のカップルセットについてくるんだ」

「オタクを殺す商法……許すまじ」


 フジヤマもドス黒いオーラを発していた。

 でもたしかに、実写化とは言えラノベ原作にその売り方は版権会社が鬼だな。


「ネットでも炎上済み……」

「そんな炎上してる映画のチケットが二枚あるんだ。一樹かフジ、買わないか?」


 進められるが、買わない。

 第一、カップルチケットなんて使う相手いるわけがない。


「そんな相手がいたら放課後に自作小説かいてない……」


 フジヤマが正論過ぎてフォローも反論も不必要だった。

「でも、一樹は違う……」

「は?」

「え? 何、お前彼女が出来たのか? 不埒な野郎め!」

「誤解だ免罪だ因果律の逆転だ!」


 問答無用と俺を切り刻もうとシャープペンを振り回すゲルチン。フジヤマに目を向けると、一言、


「妹」


 とだけ言った。


「あー」


 と、図書室のそこかしこから納得の声が聞こえた。



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