包まれて、消えて征く
結局のところ、僕等は一時間ほど歩いて中央の市街地へと来た。体力をあまり消耗したくない、という僕の願いは予想通り叶わず、スーパーが見える頃には両脚がかなり疲労していた。いくら高校時代に運動をしていたとはいえ、さすがにこれだけの距離を徒歩で移動するのはきつかった。今さらになって部活を引退してしまったことが悔やまれた。
「少し休憩するか?」
僕がこれだけ疲れているにも関わらず、彼女は何食わぬ顔で僕の様子を窺ってきた。特に何かスポーツをしていたという話を聞いたこともなかったけれど、今の彼女を見る限りではきっと運動はできるほうに違いない。疲れている様子をまったくと言っていいほどに感じない。運動をしていた僕が、仮に運動をしていなかった彼女よりも苦しげにしているのであれば情けない話だ。
「いえ、もう目の前にスーパー見えてるので、大丈夫ですよ」
虚勢なのは見え透いていただろう。それでも僕の中の本能が、ここは負けてはいけないと囁いていた。男としてのプライドなのか、単に劣等感を抱くことが嫌なのか、自分でもよく分からなかった。
スーパーでは客がちらほらと見えていた。それでも両手の指で数え切れるほどの人数だ。平日の夕方という時間で人がこれだけ少ないのは、田舎の地域だからという理由だけではないのは解っている。
先日僕等を襲った『神の断罪』と呼ばれる超大規模災害のせいだった。
平成、という元号が使われていた時代から200余年。日本の人口はおよそ2億人となっていた。減少すると言われていた人口は数度のベビーブームを経て増加の方向へ戻っていたのだった。先進国としてもさらに成長をしていこうとしていた最中、それは突然起こった。
西暦2250年、7月の22日。多分、全国的には夏休みの始まりを告げる終業式がある日だ。天災は容赦なく僕等を襲った。
人口は90%近くが死んでしまった。いや、死んだと言うよりは消えたと言うほうが正しいかもしれない。死体も何も残らなかった。跡形もなく、綺麗に消え去ってしまった。
あまりに不可解すぎる話だ。唐突に人間が消えるなんてずいぶん神隠しじみている。けれど不思議と恐怖はなかった。自分が消えるかもしれない、なんて心配もなかった。
多分それは僕が一定の悲観主義者で、大学に進学したにも関わらず茫々たる日々を送っていたからだろう。自分の身がどうなってしまおうが、あまり気にならないのかもしれない。
実を言うと僕は『神の断罪』が起こったにもかかわらずなぜ僕が生きているのか、事実を知っている。直接的に知ったわけでもないし、風の噂を聞いたわけでもなかった。ただ、それが絶対だということを僕は分かっていた。
おそらく、政府もこの事実を知っている。
先輩から離れていくことなんて容易いことだ。それでも僕がそうしないのは、真実を知っているからなのかもしれない。残酷な現実がそこにあることを、彼女が知らないということに、僕は怖れているのかもしれない。
「飲み物、何がいいだろうか。私がとってこようと思うのだが」
無意識のうちに、僕はスーパー前の縁石に腰を下ろしていた。僕は僕が思っているよりもずっと疲れていたのかもしれない。そう感じた瞬間にドッ、と倦怠感が全身に覆い被さってきた。
思わず空を仰ぐ。夕方の橙色と入り混じったできそこないの青が、僕を見下ろして笑っているように見えた。
「じゃあ、ご好意に甘えることにします。2リットルの水があればそれがベストですね。もしくはお茶。糖質も摂取できるようにカフェオレかなんかがあればそれもお願いしたいです」
「ずいぶんと注文の多い客だな、君は」
「生憎、どこかのお優しい方がとってきてくれると言うものですから、つい」
「その方に誠心誠意の感謝を伝えることを勧めるよ」
誰かのことのように言い捨てると彼女は店内へと入っていった。後ろ姿を見送り再び不揃いな空を仰ぐ。
世界は空みたいなものだと思う。クルクルと色を変える。その時々によって正しい色があって、そうじゃないものは排除される。晴れの日にネズミ色は空を染めないし、雨の日に澄んだ青色はお役御免だ。日の暮れたときの輝かしい橙色はほんのわずかな時間しか顔を出さないし、闇をもたらす黒は冷たいけれど確かに世界を眠らせる。
僕等の生きるこの世界にもきっと、同じように色が存在していて様々にその表情を変えているに違いない。
今の世界は、いったいどんな色を見せているのだろうか。
見ていて清々しい気持ちになる色ではないと思う。すべてが廃れてしまって、目に映るもののすべてが哀しい世界に赤や黄は不相応だ。そのせいでなおさら今仰いでいる景色が不釣り合いに見えて、消しゴムで無かったことにしてしまいたいと思った。
汚れることは怖い。染まることは、もっと怖い。僕は空を見上げるたびにそう思わざるを得なかった。
「水が最後の一本だったよ。あとはカフェオレは無かったから、代わりにミルクコーヒーの1リットルパックにしておいた。小腹が空いたときのために、カロリーメイトも一応」
「僕が頼んだ以上の結果を出してくるあたり、さすが先輩です」
「褒めてもらえて光栄だ。これからも君の期待以上の結果を出せるように努めるよ」
本心で言っているのか冗談で言っているのかは分からなかった。彼女はモナ・リザのように笑った。
「なんか、ご機嫌ですね」
「そう見えるかい?」
「はい、とても」
「君にそう見えているということは、きっとそうなんだろうね」
妙な言い方だった。まるで僕が彼女の感情を決めつけているかのような、そんな口調だった。
「君の体力が回復次第、戻るとしようか。私も少しだけ休憩するとしよう」
彼女もまた、同じように僕の隣に腰をかけると空を仰いだ。曖昧だった青は確かな群青色に染まりつつあった。
「空は、いつだって裏切る」
長くなりそうだった沈黙を破って彼女は言った。視線はまだ上へ向いている。
「もし人間の性格で例えるとするなら、気分屋だな。ご機嫌かと思えば急に泣き出すこともあるし、あるいは怒り出すこともある。私達がいくらなだめたところで変わりはしない。まるで赤ん坊だな」
吐き捨てるように言うと彼女は空へ嘲笑を浮かべた。空を見下したまま彼女は言葉を繋ぐ。
「君はどう思う?気分屋な彼と上手に付き合っていくにはどうすることが最善だろうか?」
彼女は僕に問いかける。
彼女は決して空についての話をしているわけではない。仮にそういう人間と出会って、人間関係を築いていかなければいけないとなったときに、僕ならどうするかを問うているのだ。
きっと今の話からそんなことが尋ねられていたなんて、普通なら思いもしないだろう。
けれど、これが彼女なのだ。ほかでもない、澪莉という一人の人間で、解読困難な問いを無造作に投げかけてくるのである。僕が彼女の問いを理解できるのはある程度の付き合いがあるからだろう。ひょっとしたら、僕は僕自身が普通ではなくなっていることに気がついていないだけかもしれない。
「自分が空に合わせた振る舞いをしていくことでしょう。言わずもがな。強い日が差していれば可能な限り涼しい恰好をして、雨が地面を叩いていたなら傘をひらく。そうすればほかに問題が起きることもない。少し自分が我慢してコトが済むなら、そうするべきだと思います」
また随分なキレイゴトを吐いてしまったものだ。それができれば苦労はしないはずなのに、またこうして理想論を述べている自分が下らない。自分を偽り続けていることが当たり前になってしまった今の僕には、理想でさえも現実になるように思えた。
「君ならそれができるのかもしれないが、私には難しい。自分以外を優先して振る舞うのは、自分自身に嘘を吐いているようなものだ。空が泣いていても、自分自身が泣きたいときだってあるだろう」
「堪えるんですよ。どれだけ自分の感情に身を任せたくても、態度として示してしまえばそれだけで関係はこじれる。二度と相容れなくなる。だから僕等は、自分を偽ってでも空を見上げなければいけない。誰しも自分のままで生きていくことなんてできないんですよ」
ああ、胸糞悪い。どこまでも虚構の、何もかもが嘘の、一般論。それを唱えるべきでない自分を、それを唱えなければならない自分を、矛盾めいているとみんなは笑うに違いない。
それでも僕は、ほかの誰でもない僕だけのために矛盾し続ける。彼女のためだと答えるのは簡単だけれど、偽善に大した価値なんてない。ただの自己満足だ。そんな欲求をさらり、と満たしたいと思ったら使えばいい。言い方を変えれば、そう思わない限り偽善なんて用いるべきではない。
自分の言葉で話すことができなくなってしまった僕は、果たして悪だろうか。
「じゃあ、君は嘘を吐くことを正しいと思うかい?」
だからこの問いにも首を縦に振る。もちろん、そんなこと思っているはずがない。優しい嘘、なんて言葉があるけれど、そんなの正しく見えるだけで嘘に変わりはない。一流の料理人が調理したゴキブリみたいなものだ。どれだけ美味しそうな香りを放っていてもゴキブリであることに変わりはない。
けれど、彼女の前では僕は、そんなゴキブリでも食べる人間でなければいけない。
「嘘を吐くにしても理由はあります。それが相手のためになることだってあるんです。すべてが悪い嘘で満たされているわけではないですよ」
彼女は僕を蔑むような視線を向けた。その眼を見ても、もう何も感じない。
きっと僕は、手遅れなほどに嘘を吐き続けていたのだろう。
「じゃあ問うが、」
少しの嫌悪感を可視化して彼女は言う。
「君は、私にも嘘を吐くことができるのかい?」
恐れが入り混じった、黒い瞳。
今度は鋭利な刃物のように、その眼は僕の心へ深く、長く、突き刺さった。
今更なのに。
言葉には不思議な力が宿っている。言霊というものは古くから伝承されてきている概念の一つだ。そんな非科学的なものがあるかどうかなんて証明不可能だろうし、あったとしても納得できるようなものではないだろう。
それでも人が言葉を聞いて感情を動かされるのには、科学だけで証明することのできない何かがあるからなのだろう。そうじゃなければ哲学なんてものはとうに無くなっている。
だから僕は、彼女の言葉に傷つくし、自分を誤魔化し続けていることの愚かさに怒りを覚える。それでも演じなければいけない自分の役目に辟易とする。
「僕は先輩に嘘を吐いたことなんてありませんよ。必要があればいくらでも吐きますけど」
「私自身は、君に嘘を吐かれたことはきっとないだろうと信じている。ただ、嘘を吐かれることはやはり不快なものだから、あらかじめ私に言ってくれるとありがたい」
「それは嘘の意味あるんですかね」
音速の罪悪感が僕を追いかけてくる。逃げることも隠れることもしない僕は、それに惨殺されてしまう。けれどそれも必然な気がして、僕は蝕まれてゆく身体を俯瞰していた。
「だって、君が虚妄でいることが、私はたまらなく悲しいんだ。それが何かのため、誰かのためだったとしても、君がきみじゃなくなる理由にはならないだろう」
それは違う。
僕はただ、ぼくだけのために、自分を偽っているんだ。
「君がきみじゃないままなら、私もわたしじゃなくていい。そう思うけれど、私にはそれができない。どうすれば自分が自分でなくなるのか分からない。なのに、君がきみじゃないことは痛いくらいに解るんだ」
次から次へと零れ落ちる、望まない言葉のカケラ。
今の僕にとっては、彼女が澪莉先輩ではない。
彼女らしく、ない。
自分らしさ、ってなんだろう。自分が自分であることを証明する方法ってなんだろう。ふとそんなことが頭によぎる。ずいぶんと彼女に感化されてしまっているようだった。僕自身も変わりつつあるのかもしれない。
それはきっと、彼女も、
「ぼくは自分で望んで今の僕を選んでいるんです。それで先輩が悲しむ必要なんて、どこにもありませんよ」
「私の感情を決めるのは私だ。君に私の感情を決めつける権利なんてない」
怒気のこもった口調で彼女はそう言った。彼女がこうも感情を表に出すのは珍しかった。
「それを言ってしまえば、先輩にだって、僕がどうあるべきかを決めつける権利なんてないじゃないですか」
たとえ今の僕がぼくじゃなくても。
「繰り返しになりますけど、ぼくは自分で望んで今の僕を選んでる。それを見ていると悲しくなるから、だから元の僕になってくれなんて、そんなのは独りよがりな主張の押しつけだ」
もし、先輩の望むぼくになれるのだとしたら、それは先輩が僕の前からいなくなったときだけだ。
そんな日が来ないことを、僕は願っている。
「でも、」
らしくない彼女は言葉を続ける。
「それでも私には、苦しそうにしている君が見るに堪えない。自分のことみたいに悲しくて、哀しいんだ」
僕は悪だろうか。
愚問だと思う。その答えを知っているのは僕だけなのに、無意味な自問を続けては永続的な時間稼ぎ。答えの前に立ち止まっては、また振り出しに戻ってしまう。
この世界と、いつまでたってもおんなじだ。
「僕は…」
吐き出そうとした言葉を飲み込む。
「少しだけ、時間をください」
濁った水が浄化されていくようだった。虚構を剣と盾にした僕の、どちらも用いなかった言葉。
あまりいい気持ちはしなかった。このままだと彼女がいなくなってしまいそうで、僕はただ怖ろしかった。
長い間顔を見せていなかったありのままの言葉は、思いの外かつての姿と変わりなかった。
彼女は薄く微笑む。いつまででも待つよ、と彼女は応えた。
仮初めの言葉を手放そうとしている僕は、少しずつ、夜の帳に飲み込まれていた。