蝉が息絶える日
青空教室だ。
彼女と授業をしているといつだってそう思った。ひたすらに広がる青い天井の下にポツリ、と小さな二人。もちろん僕が生徒で彼女が先生に決まっている。
彼女のほうがよっぽど博識だし、成績も優秀だったし、何より歳が一つ上だ。大学生になってからの知識量は勉強次第では年功序列でなくなるとは言われているけれど、そもそも僕と彼女では地力が違い過ぎる。僕がせいぜいプラトンならば、彼女はソクラテスなのだろう。師より優れた弟子などいない。
「私達はなぜ生きているのだろうか」
教科書もノートもない古ぼけたベンチで、僕は姿勢を崩すことなく彼女の問いに耳を傾けている。対照的に彼女は、僕が座っているのよりも少しだけ綺麗なベンチに脚を組んで深々と腰を掛けている。胸がふんぞり返っている様子はどことなく偉そうに見えるけれど、それほど嫌な気持ちはしない。これが慣れというものなのだろうか。
「僕は死にたくないから生きています。先輩はどうなんですか?」
逆にこちらから問いかける。今日の授業は「人はなぜ生きるのか」というテーマだ。抽象的で不安定で哲学的な、唯一無二と呼べる答えが見つからない問題だ。
そんな問いをたった二つしか変わらない僕に投げかける彼女はいったい僕をどうしたいんだろう。
「私は君とは正反対の意見だね。死ぬために生きている」
彼女の答えはいつだって斜め。僕の心に真っ直ぐと切り込んだことは一度たりともない。厨二じみていて、大概は下らない。けれどそれ以上に説得力に満ちていて反論ができない。
理屈として筋が通っていると思ってしまうのはもはや洗脳されているだけなのかもしれないけれど、彼女の答えはいつだって妙に的を射ている節があると感じざるを得なかった。屁理屈と切り捨ててしまえばそれで終わりだろうけれど、それも理屈であることに変わりはない。
「死ぬために生きる、ですか。先輩は死にたいんですか?」
「それは語弊があるな。もしも死にたいのであればとっくにここにいないと思うぞ」
「矛盾してませんか?死ぬために生きているのに、死にたいわけではないっておかしくないですか?」
「君こそ自分の言動に違和感を覚えないのか?目的と欲求を混同してはいけないよ。私の最終的な到達点は死ぬこと、ただそれだけのことだ。死にたいからそこを目指すわけではないし、そこを目指すから死にたいわけでもない。君が思っているほど私はこの世界に悲観的ではないぞ」
風にたなびく髪を整えながら先輩は言う。多少僕を見下しているのはいつものことだ。その姿はいつも凛としていて、真っ直ぐで、綺麗だ。
その容姿がきっと、僕に彼女の正しさを教えているのだと思う。そう思うと、不思議と自分が間違っている存在だと感じてしまいそうになる。
「もっとも、こんな世界で悲観的になるな、なんてほうが無茶だろうがね」
か細く笑う。それは自分に向けてだろうか、あるいはこの世界に向けてだろうか。どちらにせよ先輩が自嘲していることには変わりなかった。
「先輩」
「これは失敬」
少しだけ表情に動揺を見せる。困ったように首筋を掻くと彼女は僕から目を背けた。
気まずい沈黙が流れる。それほど距離もないはずの僕等の間には大きな溝があるように見えた。
僕等の間では、この世界のことについて触れてはいけない暗黙的なルールがある。この授業紛いの雑談中にせよ、それ以外の時間にせよ、絶対に踏み込んではならない話題だ。それを話すことは無駄でしかない。
ただ僕等が傷ついてしまうだけのことを、自ら行ってはいけない。自分を大切にできない人間は何も大切にできないことを、僕は知っている。
「失言だったな。申し訳ない」
「いえ…」
いや、多分このルールは僕が勝手につくって勝手に彼女をその枠にねじ込んでいるだけだ。そうでもしないと先輩はきっと…。
「話が逸れてしまったな。つまるところ、私は死ぬために生きている。でも死にたいなんて思ってはいない。死ぬことは私にとってだけじゃなく、人間みんなにとっての到達点だ。誰だっていつかは死ぬだろう?」
「それは自然に迎える結末なだけであって、先輩の目的そのものではないんじゃないですか?」
「そんなことはないさ。生きるという行為は死へと向かう行為と同義だからね。いつかは途切れるレールの上を今はただ走っているだけのことだ。そのレールは唐突に途切れることもあるだろうし、予定していた場所まで走り切ることだってあるだろう。どちらの結果に出会うにしても、やはりそれは死ぬために生きていたと言えるとは思わないかい?」
難しい質問だ。彼女はしばしばこんな問いを投げかけてくる。一貫とした答えがない、どう答えても正解となり得る問題。まさに哲学のそれだ。
正直この類の問題を考えるのは苦手だ。案の定大学入試では国語が天敵となったのを今でも覚えている。
自分なりの解、という言葉がどうも僕の思考には適合しないのだ。答えはいつだって統一されているべきものだと思う。みんなが納得して、揺るがない。それが答えの正しい姿だと僕は考えている。
そういう思考になってしまうのは極端に国語蔑視主義であるからではない。あるいは極端に数学至上主義であるからでもない。そういう思考をするように育ってきたのだ。今さら変えようのない、僕自身のパーソナリティの一部となってしまっている。
「僕にはとうてい理解できません。自然な結末はそれとして、先輩の目的はまたそれとして、としか捉えられません。先輩の理屈で辿るなら、人間みんなが死ぬことを目的に生きていることになる。少なくとも、僕は死にたくないから生きている。だったら先輩の言い分は既に正しくないことになると思います」
それゆえに、僕は彼女の意見をいつだって否定する。僕に共感されないことが何よりも強く、万人に共感されないことを物語っている。誰もが納得する結論を導くことができなければ、彼女はきっと…。
きっと、誰にも愛されない。
「君が死にたくないから生きているとして、じゃあ問うが、君の目的は死なないことかい?もしそうだとしたらその目的は必ず叶うことはないだろう。なぜなら私達はいつか死ぬのだから。達することのできないことを掲げて、それを目的だと呼ぶのは明らかにおかしいだろう。ならば君が掲げていたものは最初から君の目的ではなかったと言える。誰しもが無意識的に持っている目的こそが、死、なんだよ。君も然り、ね」
僕がしようとしていることは、悪魔の証明と同じなのだろう。この世にいるすべての人達が、首を縦に振るような結論を、導かなければいけないと思っている。
そんなのは希望論でしかなくて、どんな意見にも必ず反駁は生じる。ヒーローは敵がいるからヒーローになることができるんだ。悪がいなければ正義を主張することはできない。
そんなことは解っている。まして相手が彼女だ。一般論に当てはめようとするのはほとんど不可能に違いない。
彼女は形の合わない歯車だ。
どこのパーツに組み込もうとしても合わない。僕が固有性を苦手とするなら、彼女は共通性を苦手とするんだろう。そんな僕等だから馬もロバも合ったものじゃない。
「目的はゴールじゃない。僕達は目的を果たすからゴールするわけじゃない。死ぬことはゴールであっても目的ではないのだ思う。生きることの目的すべてが死ぬことに通じているのだったら、僕ははじめから目的を持って生きていない。いつか必ず死ぬということは忘れてはいけないと思うけれど、誰もが死を想って生きているなら、人間の存在価値なんてはじめからあったものじゃない」
伝えたい言葉を、伝わってほしい言葉を、伝わるように伝えることはひどく難しい。だから、できるだけ多くの言葉で補って話すことが大切なのだと思う。
そうしないと、行き場を失くした言葉はいつの日か消えてしまう。消えてしまった言葉は二度と救うことができない。そうやって後悔するのは嫌なんだ。
それだけは、絶対に嫌なんだ。
まくし立てるように言葉を並べてからハッとする。つい熱くなってしまった。そう思ったときには先輩がすでに口を開いていた。
「君は感情的になると敬語を忘れるきらいがあるね。それから早口にもなるな」
彼女は至って冷静に言葉を返した。じ、と見つめる目が僕を捕らえて逃がさない。
「す、すみませんでした…」
「いやいや、気にすることはないさ。今までもそうだったんだから、謝られても今更だよ」
彼女はカラカラ、と笑った。わずかに屈託のある笑いだった。
「いつだって君は私と意見が合うことはないね。ああ、べつに私の価値観を押しつけるつもりなんて毛頭ないから、その点は気にする必要はないよ。私には君の言うことが理解しかねるがね」
根本的に僕と彼女は似ているのだろう。彼女の放つ主張に「確かに」と首を縦に振りたくなるのも、自分が多少の劣等感を抱いているのも、僕と彼女が似ているからに違いない。僕等の思想や価値観に大きな差異はないはずだ。
それでも、僕は僕自身を保つために、彼女を否定しなければいけない。
僕は偽善者だ。
心のどこかで彼女を救いたいと思っていながらも、その実自分自身の存在証明のために彼女の意見に共感をしない。
一周回ってそれは彼女のためになっているのかもしれないけれど、本質的には保身のための行為に過ぎない。それをあたかも孤独な一人の女性が、未来永劫、孤独とならないように自分が手伝ってあげているような振る舞いをしているのは、僕が悪だからだ。彼女はたった一人の正義でなければいけない。
たとえ矛盾にまみれていても、僕は彼女を否定し続ける。
「いつもよりもずいぶんと長くなってしまったね。そろそろ切り上げるとしようか」
「今日もずいぶんな難題でしたよ」
「何を言ってるんだ。哲学の持つ問いがすべからく難題なのは周知だろう」
「いや、それはそうですけど」
そんなことは解ってる。若干の嫌気を含んだうえでの言葉だったはずなのに、彼女には届いていないようだった。僕は思っていた通りの量の二酸化炭素を空気中に放つ。
「ため息は幸せを逃がす、なんてよく言われるがため息なんぞに幸せ具合を決めて欲しくないものだと私は思う」
「奇遇ですね。その意見に関しては僕もまったくの同意です」
古ぼけたベンチから立ち上がり僕は言った。もう少し座っていたそうにしていた彼女も、気怠さを隠すことなく立ち上がった。
「次はどこを目指しましょうか」
今はもう跡形もない大学の正門を背にして問いかける。彼女は僕よりもはるかに多くの二酸化炭素を吐き出すと、空になっているペットボトルを僕に見せた。
「コンビニかスーパーかがあれば寄りたい。中心部であれば建物はある程度残っているだろうし、人もいるだろうが…如何せん遠いな」
国立とはいえ、地方にある田舎丸出しの大学だった。そのせいで中心街まで行くにはかなりの時間を要する。被害の及んでいない場所を探すにしても手段はすべて徒歩だ。体力を消耗しないためにも、なんとか近場で水分を確保したい。
「どうして…」
遠くへと目を向けた彼女はぽつり、と呟いた。その視線はかつて大学のあった場所、あるいはその後ろにそびえる山々へ向いていた。
「当たり前、とはどうしてこうも簡単に無くなるんだろうな…」
消えそうなほど小さな声だった。それ以上に、彼女の心からの叫びだった。その答えは見つからないまま空へと溶けてゆく。
「私は、どうして…」
「先輩」
言葉を遮る。ごく短い単語だったけれど、怒気がこもっていたのがはっきりと分かった。日常的に僕が怒るということはあまりない。だからこそ彼女の身体もビクリ、と跳ねたのだろう。彼女は僕をほんの刹那ふ、と見つめるとすぐに申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「すまない。今日はずいぶん気が滅入っているみたいだ」
彼女が自虐的なのは案外いつものことだ。けれどそれはあくまで自嘲的な笑いを含んでいるものだ。今日の彼女は心の底から悲しんでいるように見える。
「僕は先輩の味方ですよ」
す、と手を差し出す。優しく微笑んだ彼女は「ありがとう」と言った。僕の手は握らなかった。
キリストがこの世に生を受けてから2250年。荒廃した日本で僕等は今日も、当てもなく歩いてゆく。そんな世界でいつか死ぬことになるのなら、僕は隣に立つ女性のために死のうと思った。
それがきっと、僕にとっての正しい選択であり、後悔しないための方法だ。