杭のワルツ
――そして、彼は彼女の胸に力強く杭を突き刺した。
そう書かれていた。
まだ、彼女の胸に杭が刺さるよりも前に。まだ彼が雨の中を歩き出すよりも前に。まだ森の奥の屋敷が、百年ぶりに客を迎えるため、腐った蝶番を震わせるよりも前に。
その一文だけが、濡れていない紙片に黒く浮かんでいた。
彼はそれを破り捨てようとした。だが、紙は破れなかった。火にかざしても燃えず、川に沈めても濡れず、月のない夜に土へ埋めても、次の晩には必ず黒いコートの内ポケットへ戻っていた。
だから彼は、もう読まないことにした。
読まなければ、結末は結末にならない。そう思いたかった。
その夜は、冬が息を殺して地上に降りてきたような晩だった。雨は雪に変わり損ねたまま、冷たい針となって森を叩いている。裸の枝は風に擦れ合い、誰かが歯を鳴らしているような音を立てた。
そんな夜に、彼は森を歩いていた。傘はない。必要もなかった。肌を打つ雨は冷たいはずなのに、彼の身体は寒さを忘れて久しい。白い息も出ない。胸の奥にあるものは、もう人間の心臓ではなかった。
黒いロングコートの裾を雨に引きずりながら、彼は古い屋敷を見上げた。
かつて舞踏会の灯りが絶えなかった館。馬車の車輪が白砂利を鳴らし、貴婦人たちの笑い声が夜ごと薔薇園を越えて森へ流れた場所。いまは、窓硝子の半分が割れ、蔦が壁を這い、屋根の尖塔には梟さえ巣を作らない。
けれど、歌だけは残っていた。
誰もいないはずの奥から、女の歌声が聞こえてくる。細く、甘く、古い傷口を撫でるような声だった。
彼は胸に手を当てた。鼓動はない。代わりに、黒い血が静かに巡っている。その音は、遠い舞曲に似ていた。
玄関の扉は、彼が触れる前に開いた。
招かれる客。
あるいは、結末に呼び戻された登場人物。
屋敷の中は、暗かった。だが彼には見えた。朽ちた絨毯に染み込んだ古い血。壁に掛けられた肖像画。絵の中の紳士たちは皆、胸に白木の杭を抱いていた。目だけがこちらを追っている。
彼は足を止めなかった。
長い廊下を進むたび、昔の音が甦る。グラスの触れ合う音。絹の裾が床を滑る音。女たちの笑い声。男たちの囁き。誰かが愛を誓い、誰かが死を忘れ、誰かが永遠という言葉を信じた夜の残響。
そのすべてを、彼は知っていた。
百年前、彼もここで踊った。人間だった。まだ寒さを寒いと思えた。春を待つことができた。朝になれば眠り、昼になれば目覚め、夕暮れには明日を考えた。
限りある時間の中にいた。
それがどれほど幸福だったのか、失ってから知った。
奥の扉の前で、彼は立ち止まった。
歌が止んだ。
代わりに、部屋の中から女の笑い声がした。
「開けないの?」
彼は答えず、扉を押した。
甘い香りが溢れ出す。薔薇と酒と、死んだ果実の匂い。暖炉には火が入っていないのに、部屋の中だけが異様に暖かい。壁には金の燭台が並び、蝋燭が一本もないまま青白い火を揺らしていた。
部屋の中央には、女がいた。
夜そのものを縫い上げたような黒いドレス。胸元には深紅の宝石。真珠のような肌。濡れた薔薇の花弁のような唇。
エリゼ。
その名を、彼は百年ぶりに心の中で呼んだ。声にはしなかった。名を呼べば、また昔の自分に戻ってしまいそうだったから。
「遅かったのね、アベル」
彼女は彼の名を呼んだ。
その声だけで、壁の肖像画が一斉に微笑んだ。
「百年よ。女を待たせるには長すぎるわ」
「私を戻せ」
彼の声は低かった。氷の下を流れる川のように、静かで、冷たい。
「戻す?」
エリゼは小首を傾げた。童女のように無邪気で、悪魔のように優雅だった。
「何に? 人間に? 老いに? 病に? 墓穴に?」
「限りあるものに」
その言葉に、エリゼは笑みを消した。
ほんの一瞬だけ。
彼女の顔から美しさが剥がれ、その下にある古い疲労が見えた。永遠に飽きた者だけが持つ、底のない退屈。だが次の瞬間には、また完璧な微笑が戻っていた。
「私は貴方に美を与えたわ。朽ちない身体を、飢えない夜を、誰からも奪われない時間を」
「私の時間を奪った」
「違うわ。終わりを取り除いてあげたの」
彼女は立ち上がった。
ドレスの裾が床を滑る。雨の音に混じって、どこからかワルツが聞こえはじめた。古い蓄音機の針が、存在しない円盤をなぞっているような音だった。
「踊りましょう、アベル。話はそれから」
「断る」
「昔は、私の手を取ってくれた」
「昔の私は死んだ」
「嘘」
エリゼは笑った。
そして、彼の胸に指先を置いた。
「死んでいないわ。ここにいる。貴方はまだ、私を憎むふりをして、私の声を聞きにきた。私を殺すためではなく、私に名前を呼ばれるために」
彼は彼女の手首を掴んだ。
折ろうと思えば折れた。首を刎ねようと思えば刎ねられた。だが、エリゼは怯えなかった。
その余裕が、彼にはわかっていた。
彼女は死なない。
少なくとも、ただ首を刎ねただけでは。胸を杭で貫いただけでは。
それをした男たちの肖像画が、この館にはいくつも飾られている。
「紙片を見たのでしょう?」
エリゼが囁いた。
彼の指がわずかに動いた。
黒いコートの内側。そこには、破れず、濡れず、燃えない紙片が入っている。
「――そして、彼は彼女の胸に力強く杭を突き刺した」
彼女は楽しそうに、その一文を口にした。
「素敵な結末でしょう? 愛と殺意は、いつも同じ形をしている。男は女を殺しに来る。女は男に殺される。けれど、幕が下りれば、また最初から。そうして夜は続くの」
壁の肖像画が、かすかに揺れた。
絵の中の男たちが、胸に抱いた杭を見下ろしている。誇らしげな顔もあれば、泣いている顔もある。怒りに歪んだ顔も、恍惚に濡れた顔もあった。
彼らは皆、ここへ来たのだ。
エリゼを愛し、呪い、永遠から逃れるために。
そして、同じ一文へ辿り着いた。
「杭を刺した者はどうなる」
彼が尋ねると、エリゼは答えずに手を差し出した。
「一曲だけ」
「答えろ」
「踊りながら」
彼は彼女を見た。
雨が窓を叩く。雷鳴が遠くで唸る。部屋の青白い火が、まるで観客の拍手のように揺れた。
やがて彼は、彼女の手を取った。
ワルツが始まった。
エリゼの身体は羽のように軽かった。百年前と同じだった。彼女は彼の肩に手を置き、彼は彼女の腰を支え、二人は壊れかけた床の上を滑る。
すると部屋が変わった。
朽ちた壁紙は金に戻り、割れた窓は磨かれた硝子となり、天井から巨大なシャンデリアが降りた。人々の笑い声が満ちる。花の香り。葡萄酒。絹の衣擦れ。
彼は人間だった。
若く、愚かで、寒がりで、明日が来ると信じていた。
エリゼはその晩、彼に林檎を差し出した。赤く、甘く、果肉から血の匂いがする林檎。
――食べれば、ずっと美しいままでいられるわ。
――食べれば、ずっと私と踊れるわ。
彼は食べなかった。
少なくとも、自分ではそう記憶していた。
だが記憶の中の自分は笑っていた。エリゼの指に導かれ、赤い果実へ唇を寄せていた。自分の意思だったのか。彼女の魔性だったのか。いまとなっては、どちらでも同じだった。
目覚めたとき、彼は人間ではなくなっていた。
父は死に、友は老い、妹は子を産み、その子もまた土に還った。彼だけが、美しいまま、若いまま、夜の中に置き去りにされた。
「杭を刺した者は、私の一部になる」
エリゼが耳元で囁いた。
ワルツは止まらない。
「怒りも、愛も、後悔も、全部この館に残る。だから私は寂しくない。貴方も寂しくなくなるわ」
「私を額縁に入れるつもりか」
「いいえ」
彼女は微笑んだ。
「貴方だけは、胸に入れてあげる」
その瞬間、彼は見た。
エリゼの胸元。深紅の宝石だと思っていたものの奥で、何かが脈打っている。
心臓。
だがそれは、彼女のものではなかった。
懐かしい音がした。人間の頃、眠る前に自分の内側で聞いていた、柔らかく弱い鼓動。寒さに震え、恐怖に早まり、恋に乱れた、あの音。
「返せ」
彼の声は震えていた。怒りではなく、悲しみで。
「私の心臓を」
エリゼの笑みが、初めて歪んだ。
ワルツが途切れた。
豪奢な幻は一瞬で剥がれ落ち、部屋はまた廃屋の暗がりに戻る。
「だって、貴方が捨てたのよ」
「違う」
「永久を選んだでしょう?」
「違う」
「私を選んだでしょう?」
「違う」
彼はエリゼの手を離した。
そして、黒いコートの内側から白木の杭を抜いた。
それは新しい木ではなかった。百年前、彼のために用意された棺の板から削り出したものだった。彼が人間として埋められるはずだった棺。使われることなく、屋敷の地下に隠されていた、彼の終わりの残骸。
杭には、震える手で刻んだ文字があった。
アベル。
彼の名。
彼女に呼ばれるための名ではなく、自分で自分に返すための名。
「やめて」
エリゼが一歩退いた。
初めてだった。彼女が恐怖を見せたのは。
「それを刺せば、私は死ぬわ」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「貴女は死なない。死ぬのは、私の中に残っていた永遠だ」
彼は一歩進んだ。
エリゼは後ずさる。ドレスの裾が破れ、白い足が床の埃を踏んだ。
「アベル、お願い。ねえ、考えて。心臓を返せば、貴方は人間に戻る。でも、人間は死ぬのよ。寒さで震えるのよ。病で苦しむのよ。誰かを残して、誰かに残されるのよ」
「それが欲しかった」
「なぜ?」
エリゼの声が細くなった。
「なぜ、私では駄目なの?」
その問いだけは、百年前の少女のようだった。
彼は答えられなかった。
彼女を愛していなかったわけではない。憎しみだけで百年を歩けるほど、彼の夜は単純ではなかった。愛していたからこそ許せなかった。許せなかったからこそ、忘れられなかった。
「私は貴女と終わりたかった」
彼は言った。
「永遠に続きたかったんじゃない」
エリゼの顔から、微笑が消えた。
次の雷鳴と同時に、彼女は獣の速さで彼へ飛びかかった。白い指先が爪へ変わり、薔薇の唇から牙が覗いた。だが彼は避けなかった。
爪が彼の頬を裂く。黒血が散る。
彼はそのまま、彼女を抱きとめた。
まるで最後のダンスのように。
エリゼが息を呑んだ。
彼の手に握られた杭が、彼女の胸の前で止まっていた。
「愛していたわ」
彼女が言った。
「知っている」
「愛しているわ」
「それも知っている」
「なら、やめて」
「だから、終わらせる」
彼は彼女の背を強く抱いた。逃がさないためではない。震えていたからだ。彼女が。あるいは彼自身が。
そして、百年前から紙片に書かれていた結末が、ついに現実に追いついた。
――そして、彼は彼女の胸に力強く杭を突き刺した。
殺すためではなかった。
返してもらうためだった。
白木の杭が深紅の宝石を砕き、その奥に隠されていた心臓を貫いた。
音がした。
硝子の割れる音でも、肉の裂ける音でもない。長い長い夜に、ようやく句点が打たれる音だった。
エリゼの口から悲鳴が漏れた。美しい声ではなかった。年老いた獣のような、孤独な子どものような声だった。壁の肖像画が次々と裂け、額縁の中の男たちが灰になって崩れていく。青白い火が消え、ワルツが止まった。
彼の胸の奥で、何かが跳ねた。
一度。
二度。
三度。
それは弱く、不規則で、今にも止まりそうだった。
けれど、確かに鼓動だった。
彼は膝をついた。
寒かった。
雨に濡れた服が肌に張りつき、裂けた頬が痛み、喉の奥から白い息がこぼれた。
百年ぶりの寒さだった。
エリゼは彼の腕の中で崩れていった。美しい肌が薄い灰になり、黒いドレスが花弁のように散る。最後に残ったのは、少女のような顔だった。百年前、林檎を差し出す前の、まだ永遠を呪いとも知らなかった顔。
「ねえ、アベル」
消えかけた唇が動いた。
「終わりは、怖くない?」
彼はしばらく考えた。
そして、微笑んだ。
「怖い」
エリゼの目が見開かれた。
「だが、それでいい」
彼女は泣いたのかもしれない。
灰になった頬に、雨の滴がひとつ落ちた。屋敷の天井はいつの間にか崩れ、冬の夜空が覗いていた。雲の切れ間から、白い月がこちらを見ている。もう嗤ってはいなかった。
エリゼは完全に灰になった。
彼の腕の中には、砕けた宝石と、名を刻まれた白木の杭だけが残った。
彼は立ち上がった。
足元がふらついた。強すぎる身体ではなくなっていた。闇を見る目も、血を求める牙も、少しずつ遠ざかっていく。代わりに、心臓が痛いほど鳴っている。
終わりへ向かって。
一秒ずつ。
確かに。
屋敷を出ると、雨は止んでいた。
森の向こうが、わずかに白んでいる。夜明けが来る。かつては恐れていた光。焼かれると思って避けてきた朝。
彼はコートの内ポケットに手を入れた。
あの紙片があった。
濡れず、燃えず、破れなかったはずの紙は、今は雨を吸って柔らかくなっていた。そこにはまだ、あの一文が残っている。
――そして、彼は彼女の胸に力強く杭を突き刺した。
だが、その下に新しい文字が滲んでいた。
誰の筆跡でもない。
震えた、人間の手で書かれたような文字だった。
――そして、彼はようやく、自分の終わりを取り戻した。
彼は紙片を握りしめた。
今度は簡単に破れた。
細かな紙屑が朝の風に散っていく。
指先がかじかんで痛い。濡れた靴の中が冷たい。頬の傷が疼く。空腹を覚え、疲労を覚え、息をするたび胸が苦しい。
そのすべてが、彼には懐かしかった。
森の向こうから、最初の朝日が差した。
彼は目を細めた。焼けることはなかった。
ただ、眩しかった。
ひどく、眩しかった。
彼は笑った。百年ぶりに、牙のない口で。




