良い人でも人は殺せる
聞いてご覧よ。
「良い人」なんて言われたら、早々諦めた方が良いね。
*
平日だったのが、せめてもの救いだったかもしれない。
ハイウェイオアシスの少し先で、事故が起きた。
車の通りは多いが、流れは悪くない地点での出来事だった。
無理に追い越しをしようとした後続車が、前方の軽自動車に接触したのが原因だ。
軽自動車は衝撃でタイヤを焦がしながら蛇行し、中央分離帯に衝突。
突然の事故に、次に来た車が突っ込んで、更に後続車がそれに続いてしまった。
おまけに、それを避けようとした車まで、ハンドル操作を誤って遮音壁にぶつかった。
いずれかの車からオイルが漏れて、四台の車が大きな炎に呑まれ、結果道が塞がれる事となった。
凄惨な光景を前に、道を塞がれてしまった他の通行者たちは、通行止め手前のハイウェイオアシスに群がった。
さぁ、ハイウェイオアシスは一時的に人でごった返し、哀悼と苛立ちで溢れている。
この話に相応しい舞台が、出来上がったというワケだ。
*
閉鎖された空間というのは、大なり小なり、連帯感を生むのだろうか。
同じニュースを持っているもの、大いに影響しているのかも知れない。
初見同士が情報を酌み交わしては、時間を潰し、時計を気にしている。
喫煙スペースには愛煙家たちが群がって、もくもくと煙を立ててはまんじりとしない気持ちを吐き出していた。
仕事での利用者が多いのだろう、スーツ姿や作業着姿のむさ苦しい群れの中に、小奇麗な女が鮮やかなフラミンゴの様に一人、細長いタバコの煙を吐いている。
ツンとしていそうな印象とは裏腹に、垂れ目で優し気な目元の女だった。
若くはなさそうだ。
けれど、それが良い方に転がっている類で、思わず眺めていたくなる、そんな女だった。
普段と違う周囲との連帯感に背を押されでもしたのか、如何にもトラック野郎という風情の男が「ここどうぞ」などと言って椅子を譲っている。
女は柔らかく笑んでそれを断り、煙草の火を消すとフードコートへと消えて行った。
フードコートは座席の争奪戦で、ごった返していた。
女は溜め息を吐いて、空きが無いか辺りを見渡していた。
すると、窓際のカウンターテーブル、その隅っこの方で、わざわざこちらを振り返り、手を振る若い男が一人いた。
初め、連れ合いにでも合図を出しているのだろうと思ったが、若い男は女に微笑んで、手を振っているのだった。
『ワタシ?』
と、女は口を動かして、細い指で自分を指差した。
若い男は、うん、と頷いてしきりと手招きした。彼と壁の間に一つ、席が空いていた。
―――あら、良い人ね。
女は思って、先ほどトラック野郎の下心を無下にしてしまった事もあるし、と若い男の方へヒールを鳴らして歩いて行った。
*
やぁ、大変な事になりましたね。と、若い男が言った。
僕はセイジって言います。と、頼んでもいないのに自己紹介をするので、女は苦笑を上手にはにかみ顔に変えて笑った。
この若者も、センセーショナルな事件に「巻き込まれた」連帯感で、気持ちが浮足立っているのだろう。やけに親し気だ。
「席、ありがとうございます。助かりました。―――疲れていたので」
「いえいえ。話し相手が欲しかったので。……美人でしたし」
「え、ありがとうございます……」
女は今度こそ苦笑した。
男は良い人そうだったので、こちらの戸惑いやら壁やらをそれで察するだろう、と思ったのだ。
「あ、ひょっとして困ってます?」
「いえ、そんな事はないですよ」
「良かった。席って限りがあるでしょう? こんな事故が起こってしまって……ですからね、僕はそろそろ行かなくちゃなりません」
「そうね。他の待っている人達にも悪いですしね」
女はせいせいしてそう言って、珈琲を啜った。
―――早く席を立たないかしら?
彼女は誰かに席を譲るなんて頭、毛頭無かった。
「でもね、ええと―――お名前は? 僕はセイジです」
それはさっき聞いた。
女はついつい吹き出した。
吹き出してしまうと不思議なもので、少しだけ気が緩む。
本当の名前何て言う必要は無い。
満足するなら、適当に……。
「ヒロコです」
「ヒロコさん、良い名前ですね」
ヒロコは肩を竦める。
どうやら、へんてこなお喋り男に捕まってしまったらしかった。
しょうがない、立ちんぼはイヤだし、なにより暇だ。
そう思って、彼女は珈琲の黒色を眺めた。
カップを揺すれば、湯気と一緒に、良い香りが立ち上る。
*
いやぁ、良い名前だ、と繰り返されて、ヒロコは珈琲からセイジへ目を向ける。
「ありがとうございます。セイジさんは……良い人ね」
「いやいや、僕は良い人ではありません」
「あらそう? その方がモテるって思ってるのかしら?」
セイジは「ハハハ」と笑った。
結構大きな声で笑ったので、ヒロコは思わず周囲を気にしたが、相変わらずごった返しているフードコートで彼女達を気にする者など誰もいない。
なのでヒロコも曖昧に微笑んだ。
「僕がモテると思いますか?」
ヒロコはそう言われて初めて、セイジをチラッと品定めしてみる。
人の良さそうな、優しそうな……そして若い。
顔の造形なんて、それ程不味く無ければ「若い」というだけでヒロコにとっては魅力的に見えた。
「私みたいなオバサンよりかはね」
「ヒロコさんは若いじゃない」
「ありがとう、そう見えるだけなの」
「僕は見えるものだけ信じます」
「見えないものの威力は凄いわよ」
「幾つなんですか?」
率直な質問過ぎて、ついつい答えてやりたくなる。
―――なにかを期待されてもつまらない。
―――期待される前に。
ヒロコはセイジの耳を片手で覆い、唇を近づけた。
セイジは彼女の急な接近に一瞬身を固くしたが、すぐに蕩ける様に笑って、ヒロコの囁き声に耳を寄せた。
「え、本当ですか?」
「ほら、驚いた」
ヒロコは「してやったり」と、「さもありなん」の間で微笑んでいる様な、拗ねている様な顔をする。
セイジはヒロコの顔をまじまじと見て、
「見えないな~」
「隠してるの」
「巧く隠しますね」
正直な若者だ。
目くじらを立てる事も無いだろう、とヒロコは思った。
なので、残り少なくなった珈琲を啜りながら、合間に微笑む。
―――ああ、微笑んでばかり。疲れて来た。
―――微笑むのって、疲れるのよね。
「ありがとう」
「隠すとね、」
セイジがこちらに身体を向けて、頬杖を突いて切り出した。
ヒロコは、カウンターテーブルの向かいに張られた、窓ガラスの向こうを眺める。
夕闇が迫っている。
事故現場は片付いただろうか?
ここから見える筈もなかったが、地点と思われる場所からは、赤い散光灯の光が強くなったり弱くなったりしながら夕闇をせわしく照らしているのが見えた。
そろそろ片道くらいは開くのかも知れない。
誘導を待ち切れずに、出口付近に車が縦列し始めている。
―――そうか、車で待てば良かった……。
少なからず自分も動転していたのだ、と思うと、ヒロコは「ふん?」と言って、セイジと同じように彼に身体を向けて、頬杖を突いた。
セイジは優しい過去を見る人の様に、目を細めている。
「隠すと、自分が晒されている様な、そんな感じになりませんか」
「化粧がうまくいけば、晒したくなるわね」
「内面的な話です」
ヒロコは肩を竦める。
「内面的な話」を、ヒロコは楽しんだ事も、その機会すら一度も無かったから。
「自分がね、じっとこちらを見ている事って、そういう感覚って、覚えた事無いですか」
「なに、オカルトな話?」
ヒロコは厭そうなそぶりを隠さなかった。
なので、セイジはそれ以上踏み込んで来なかった。
「……若干そうかもです」
「じゃあ、このハイウェイのオカルト話をしてあげる」
「わぁ、好きです。そういうの」
犬みたい、とヒロコは心の中で頬んで、チラッと唇を舐めた。
若いヤツの『内面的な話』なんて、ヒロコはまっぴらご免だった。
そんなモノ、一年も経てば平気で覆したがるに決まってる。
だってそういうヤツは、成長するのが大好きだから。
それなのにしたり顔で酔った様に語られるのなんか、反吐が出る。
だったら、混ぜっ返してやる。飛び切りくだらない話で。
「この先でね、急カーブがあるの」
「ああ、ありますね。うん。あります」
「あるカップルがいました」
「……ヒロコさん、『お話』が下手でしょう?」
「いいの。聴きなさい」
「はい」
「こほん。それでね、車を高速でぶっとばしながら、車内でナニしてたと思う?」
「オカルトっぽくないなぁ……」
セイジがニヤついてそう言った。
ヒロコは綺麗に口紅を引いた唇を、歪めて目を微笑ませる。そうすると、薄っすら目尻に皺が出来る位に彼女は歳を重ねていた。
向かい合う窓ガラスに、ヒロコはコッソリそれを見つける。
外の明暗はいよいよ、窓ガラスと向かい合うものの姿を映し始めた。
―――本当に、嘘みたいに上手く出来てる。
ヒロコは目の前に透けて映る自分にニヤリとする。
たまに、自分の外見を、自分でも信じられない。
―――神様、ありがとう。
口調も嘘。反応も嘘。表に出しているもの、全て作り物の、ヒロコ。
でも、彼女はそれで良い。それが良い。そうしていたい。
そして、その気持ちに意味なんて無い。
「僕、なんか結末が分かって来ました」
「そう?」
「急カーブで、噛み千切っちゃう?」
想像がヒロコの話と食い違っていないか、少し心配そうに、でも、挑戦する様に、セイジが答えた。
ヒロコは「ふふふ」と笑って、彼を安心させる。
「そうそう、事故ってね、カノジョはカレシの大事なアレを咥えたまま、フロントガラスを突き破って道路に放り出されて即死」
「カレシは?」
「カレシはね、病院までもったのよ」
「でも、アレ無しじゃあなぁ……」
「そう思ったかどうかは分らないけれど、カレシも死んじゃった」
「可哀想ですね」
ふん? と、ヒロコは彼の哀愁心に付き合う素振りを見せなかった。
ハイウェイでシートベルトもつけずに馬鹿な事しているから、悪いのだ。と、ヒロコは思う。
「それからよ、若い男が一人であのカーブの前に差し掛かるとね、いつの間にか女が助手席に乗っているの」
「ま、まさか……」
「女はね、道路に放り出された時に、彼の大事なアレを失くしちゃったのよ」
「取られちゃう?」
「ンフフ、獲られちゃう。どう? 怖いデショ?」
「せめて、途中で良い思いは……」
ヒロコは肩を竦めた。
そこまで考えていなかった。
「……出会ったら、お願いしてみたら?」
「出来れば出会いたくないけれど、そうしてみようかな。僕のなんかで、彼女が浮かばれるなら」
「優しい。良い人ね」
「いや、良い人じゃないですよ」
「悪い人なら、そうやって否定しない」
セイジはちょっと首を傾げてヒロコに、
「良い人ですね?」
ヒロコはニッコリ笑った。
「ありがとう。……ホラね?」
セイジは、微笑んだ。眩しそうに、ヒロコを見る。
ヒロコは、そういう視線に慣れている。だから、なんとも思わない。
「それにしても、身体の一部を失くしたまま葬られるのも、可愛そうだ。カレシの方もカーブの辺りをウロウロしているのかも知れませんね」
「事故現場の処理を舐めては駄目よ。肉片まできちんと集めるそうだから、男のアレは見つかって、カレシと一緒にお棺に入っているに決まってる」
「……だと良いです。でも、隠されていたら?」
意外な質問に、ヒロコは首を傾げる。
「誰が隠すっていうの?」
「ええと……今の話とは少しだけ切り離して……死んだ時、バラバラにされたとして、一部を何処かに隠されてしまったら……」
ずっと探し続ける事になるのかなって。
「だとしたら、可愛そうだ……って、僕は思うんです」
「……そう、優しいのね」
ヒロコには言葉が見つからない。
話が突飛過ぎて、付いていけない。
彼女は「もしも」話で楽しんだり、問答をするのを億劫に思うタイプだった。
だから繰り返す。「優しいのね」。
良い人ね。
セイジが口を開いた。
「でも、ヒロコさんは別の人を選ぶ。何度だって」
*
ハイウェイオアシスの出口周辺に起きていた渋滞が流れ出した。
赤いテールランプが、道標の様に出口へ並び、点いては消え、また、点いては消え……。
ヒロコはそれを眺めながら、ぼんやりしていた。
もう、隣の席にセイジはいなかった。
目の前に映るガラスには、自分一人。
セイジの最後の声を思い出す。
―――このカウンターテーブルの、荷物置きです。
ヒロコはガラスに映る自分を見つめながらそっと、カウンターテーブルの下に作り付けられた一枚板の荷物置きに、身をかがめて手を滑らせる。小さな、冷たい、固い何かが指先に触れた。
*
ヒロコは、セイジなんて男は知らない。
会った事も、見た事も。
ヒロコは、凄惨な事故現場の残骸の横を、前の車に習ってノロノロと通り過ぎる。
誰だって酷いものは見たくない。ヒロコだって。
なのでそちらを見ない様に前を見ていると、視線を感じた。
気になってそちらを見ると、事故現場で作業する男達とは明らかに異質な様子で、セイジが立っていた。
大事なものを、失ってしまった。そんな寂しそうな顔で。
「良いのよ。良い人ね」
ヒロコは諦めた様に微笑んで、セイジに片手を上げた。
薬指にはめたエンゲージリングのダイヤモンドが、赤い光をキラキラ反射する。
この素敵なダイヤモンドを誰がくれたのか、ヒロコはもう忘れてしまった。
―――ただ、あんまり立派なダイヤモンドだったから。
事故現場を過ぎると、車線が複数に戻って、皆スピードに乗る。
ヒロコもアクセルを踏む。
それから、ラジオをつける。
『〇〇高速、下り車線で起きた玉つき事故の被害者に指名手配中の…………』
『七年前、結婚間近の女性を…………二人に面識は無く、一方的に…………遺体はバラバラで発見され…………』
ヒロコは苦笑いの舌打ちをして、煙草を咥えた。
窓を開けると、風が煙を吹き飛ばして行く。
「良いのよ、良いのよ。ロクな生き方じゃ、なかったんだからサ」
アクセルを強く踏む。
ハイウェイの急カーブを曲がるのだ。きっと、気分が良いだろう。
ダイヤモンドが、なんてキレイなんだろう!!
「ホントにホントに、良い人ね」
ヒロコは思い切りハンドルを切った。
オレンジ色の街燈が立ち並ぶハイウェイで、急カーブを曲がっていた車が一台、フッと消えて、この話はこれでお終い。
誰も寄り付かない席ってたまにありませんか。
なんとなく、座るのをスルーしてしまったり、「あ、あんな所に空席が」みたいな。
本編とは少しずれた話ですが、そんな『席』の話をしていて思いつきました。