第2話 水盆の巫女 中
加護の確認にやってきたパーヴェルとドミトリー。
ドミトリーがレリーフに見とれる中、パーヴェルは旧知である神殿の巫女に親しみを込めて声をかけた。
「起きろ阿婆擦れ。話がある。」
荘厳な神殿の中に轟く罵声。
盛大にビクついたドミトリーは、意味のよく解らない下品極まりない反響の中、心の底から残念な気持ちに包まれた。
あと少しで、とても大切な何かを思い出せそうだったのに。あの女神の持つ水盆をどこかで見た気がして仕方がない。どこで見たのかが思い出せない。夢の中で見たような、この目でどこかで見たような。
あと少し!あと少しで思い出せそうだったのに!
ドミトリーは文句の一つでも言いたくなり周囲を見渡したが、探すまでもなく大切な時間を色々と台無しにしてくれた罵声の主はすぐに見つかった。
大広間の隅で盛大に顔を引き攣らせた長耳族の巫女が父と何かを言い合っている。立派な装束は偉い人なのだろうか。
物凄い美人だが、何かこう...雰囲気が残念な感じの人だ。
「ジーマ、こっちにおいで。」
近寄って大丈夫なのだろうか。
ドミトリーは不安を隠せず、警戒しながら二人の元へ向かう。
阿婆擦れことノルスキア教区神官長ソニヤ・エクロースは、ノルスキアよりもさらに北のソルミスの出身であり、
貞操観念の厳格な長耳族では珍しいそういった意味での博愛主義者として有名だった彼女だが、溢れんばかりの愛ゆえに何かと騒動を起こしすぎたために現在は神殿の巫女に就いている。
「久しぶりに来たから何かと思えば子育ての教育の悩み? 子供のいない私への当て付けかしら?」
「貴様への当て付けならば家族全員を連れて盛大にやるさ。だが今回はこの子の事で相談をしに来た。」
そういうとパーヴェルは何かを探して歩いて行った。
自分の父親と、この長耳族の女性との関係性がいまいちつかめないドミトリーだったが、昨日話した巫女がこの女性であることは判った。 残念ながら、先ほどの罵声でドミトリーが抱いていた神殿の巫女に抱いていたイメージは既に期待とともに吹き飛ばされてしまったが。
言葉を選んで言うならば、物凄い美人だけどなんか汚い。
「えっと、はじめまして。 ドミトリーと言います。」
「私は、この神殿の巫女頭を務めるソニヤ・エクロース。 初めまして。」
ちょうどパーヴェルが壁際から椅子を二脚持ってきたので、ソニヤとサムソノフ親子は向き合うような形で椅子に座る。
「さて、この子の事だ。顔合わせなら貴様の手を煩わせることもなかったが、私には判断がつかない。」
何をとは言わない。
しかし、ソニヤは察しはついた。
『加護持ち』か否か。パーヴェルの気にかけている点はそこだろう。
『加護』がなければ良いが、あるならばそれに応じた対応が必要になる。 相応の備えをしなければ悪意有るものに付け込まれ、最悪の場合命を落とすことになりかねない。
かつての恋人の様に。
「なるほどね。解ったわ。 ただし、ちゃんと金は払ってもらうわよ。」
神殿暮らしの巫女でも霞を食って生きている訳では無いのだ。
確認用の術式陣の準備をしながらソニヤは訝しんだ。
ドミトリーからはパーヴェルが言うような加護持ちの気配が感じられない。
彼女のかつての恋人であった男は素人目でもわかるようなオーラというか独特の雰囲気があった。
だが、ドミトリーはどう見ても控えめな男の子でしかない。
神々はそのいずれも強烈な個性を持ち、『加護』を授かった者には神々の性格的な影響があるか、あるいは似た様な性格のものに『加護』が与えられることが多い。
ではドミトリー。
ソニヤは術式用の陣を組み終わり、ドミトリーはその中心に立たされている。
不安なのだろう。落ち着きなく術式陣を見まわしてしている。
「よし、できた。」
ソニヤは陣を書き終わり、最後に陣の縁に髪を一本添えた。
すると陣の円周が光を放ち床に広がり、そのまま壁を伝い天井のレリーフへ線が輝きながら伸びてゆく。
主神の右隣、水盆に腰かける女神の像に光が結ばれた。
「アルストライアの...加護...」
ソニヤが呟く。
アルストライア。法と秩序を司る女神。
そしてソニヤの祀る主神である。
だがソニヤは、彼女が『加護』を授けた事など今まで聞いたことが無かった。
やっぱりあの水盆に腰かける女神と何か縁があったんだ。
光に包まれながらドミトリーは、自分の考えが間違っていなかったことを心の底から嬉しく思った。
レリーフを見たときに感じたあの懐かしさは勘違いなどではなかったのだ!
ドミトリーが水盆の女神との縁をかみしめると、『加護』を明らかにした術式がその役目を終え、あたりを照らしあげていた光急速に消えていった。
「水盆の女神の『加護』か。」
パーヴェルが戸惑いながら言葉を漏らす。
「説明が足りないんじゃないの? さぁ吐きなさい。」
舞い上がるドミトリーを横目にソニヤはパーヴェルへ昏い笑顔を向ける。
目が笑っていない。
パーヴェルはそれをあえて無視して続ける。
「『加護』を持っているかもしれないから確認しに来た。それだけだ。さて、金を下ろしに行ってくる。」
父親は息子に面倒を押し付けて逃げに転じた。
「父さん、どこに行くの?」
「お金を下ろしてくる。ここで待っていなさい。」
そう言うとパーヴェルは神殿を出て行った。
巫女頭のセニヤがドミトリーを呼んだ。
「ドミトリー、おいでなさい。いくつか確認する事があるの。」
セニヤはドミトリーを連れて神殿の広間を出て開けた内庭へと向かった。
「ドミトリー、私はあなたがさっき見ていた水盆の女神、彼女を祀る巫女なの。」
「水盆の女神?」
サムソノフ家には神々に関する本はなかったため、ドミトリーは神々やその神話には詳しくなかった。
「そう。法と秩序を司る女神、アルストライア。 魔術の母よ。」
神々の事について知識のないドミトリーは、その女神が漠然ととんでもなく偉いんだろうとしか思えなかった。
なぜか脳裏にやつれた表情をしているイメージが浮かんだが。
話しているうちに内庭に着く。
遠くに喧騒が聞こえるが、ここもまた不思議と静かな場所だった。
「着いたわ。早速始めるわね。」
彼女はそう言うと装束の腕を捲り、動きやすくした。白い腕が光にあたって眩しい。
「あなたには魔術の女神の加護がある。」
そう言うと彼女はその右手の掌に火の玉を浮かべ、中央にある岩にその火の玉を投げつけた。
岩は一瞬爆炎に包まれ、炎が消えると真黒に焦げ付いていた。
熱気を孕んだ風が二人に吹き付ける。
彼女が前に手を払うと風が巻き起こり熱風は霧散した。
「すごい...」
生まれて初めて見た魔術。
ドミトリーにとって火はかまどやランプの中にあるものだった。何より大人以外触ってはいけないと、両親からきつく戒められていた。
ソニヤはドミトリーの様子を見て、つかみは良さそうだと安堵した。
魔術は剣や槍といった武器よりもその素質に左右される。だが、一番重要なのは興味を持つかどうかだった。この様子ならば問題ないだろう。
「そして、簡単なものだけど今見せたのが魔術。 この世界のもう一つのルール。 何かを作ったり壊したりできるの。あなたはこれを誰よりも得意になれる力がある。」
「誰よりも...得意になれる...」
腕っぷしにまったく自信がないドミトリーにとって、魔術は彼の心の底にある何かを目覚めさせた。
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