第52話
大変お待たせしました。
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「ランナル・ソレンソン3等衛視、出頭いたしました。」
「ご苦労。座ってくれ。」
地区隊長の執務室には地元の商業ギルドや工芸ギルドから贈られた感謝状や盾が所狭しと飾られ、揺らぐランプの炎が独特の雰囲気を醸し出す。
ヤニ色に染まり切った執務室は、若く嗅覚の過敏なランナルにとって拷問部屋にも等しい刺激に満ち溢れていた。
「調子はどうだ?」
口髭を蓄えた地区隊長の目には甥っ子を見るような温かさが溢れる。
帝国で一般的に衛兵隊と呼ばれる組織は都市の自警団な色合いが強く、任務の幅と色が異なる帝都衛兵隊にしてもその例外ではない。
ただ、一度身内と認識されれば融通の利く他の都市の衛兵隊とは異なり、帝都衛兵隊は身内であろうと容赦なく監獄に叩き込む容赦の無さで知られている。
これは帝都衛兵隊が近衛部隊としての役割を担っているためで、皇室の護衛は勿論、帝都に滞留する貴族の警護も彼らの職掌だった。
「学ぶことは多く、皆には良くしてもらっています。」
「そうか。だが、苦労もしているようだな。その目の痣は昨日は無かった筈だ。」
ただ、ドサ周りが主任務の組織であるために衛兵達の気性は荒く、法術大学で学んだランナルに対する周囲の扱いは決して公平とは言い難いものがあった。
「これは...倉庫の整理中に荷崩れを―――」
言い訳も拙ければそれを練る時間も掛けすぎであり、地区隊長は苦笑いを浮かべた。
「腹芸が下手糞なのは親父譲りか。あいつも嘘が下手糞でよく絞られていたものだ。」
ランナルは衛兵隊の中では名家と言っていいソレンソン家の長子であり、同じく名家のサムエルソン家との縁談が既に決まっている法術大学出身の俊英である。
だが、そんな”坊ちゃん”が僻みややっかみと無縁でいられる程、衛兵隊は”出来た”組織ではない。
「家の名は重いか?」
「それは...。」
地区隊長の問いに、ランナルは言葉に詰まった。
確かに色々と思うところはあったが、衛兵としての仕事には充実を覚えているのは事実である。だが、同期や先輩とやっと付き合い方を見出せて来た今、それを否定するのは余りにも惜しいものがあった。
事あるごとに突っかかってくる連中は確かに鬱陶しかったが、正面から迎え撃って勝ちを収められるだけの技量は法術大学に入る前に身に着けている以上、ランナルにとっては問題とはなっていない。
”話して分からなければ力で以って対処せよ”
敬愛する父からの薫陶を愚直に守り、つい昨晩も手合わせと称して殴りかかってきた者達を返り討ちにしている。
勿論こんな方法が良いとは思えないが、他に解決策を持ち合わせていないランナルにとっては唯一の冴えたやり方だった。
要領の良い親友が大笑いする姿が目に浮かぶ。
「まぁ、それはさて置くとしてだ...銃兵隊に知己がいると聞いたが、事実か?」
「はい。それが何か?」
知己どころか親友だが、最近は忙しくて殆ど連絡を取り合っていない。
夜遅くまで明かりが消えない駐屯地はいつの間にか”不夜城”なる綽名が付いており、激しい訓練の様子が漏れ聞こえてからは衛兵達の間でも話題になっている。
クソが付くほど真面目な親友の事である。恐らくは明け方まで粘って仕事をしている事はランナルには容易に想像が付く。
ランナルの返答に満足したのか、地区隊長はおもむろに口を開いた。
「北地区のはずれにある駐屯地の近辺に、新しい街が出来た事は既に知っているだろう。」
「はい。清潔で治安も良いと聞いています。」
衛兵隊とて手をこまねいている訳ではないが、日々の業務に忙殺される現状ではどうしても限界というものがある。
流入の止まらない流民達は互いに助け合いながらコミュニティーを築いているが、帝都衛兵隊はそれらの全容の把握はおろか住民登録の確認すら出来ていない。
なまじ頭数が多いために頻発する騒ぎと犯罪を取り締まるのはまず不可能で、流民達を街区の一角に押しとどめるので精一杯と言うのが正直なところだった。
「そう。治安が良いのだ。」
それに一石を投じたのが銃兵隊で、予告なしに現れたドワーフ達をその場で全員受け入れると、彼らの為に区画を整理してあっという間に街を作り上げてしまったのである。
街区の設計が優秀だったのか、地価の高い城壁内よりもはるかに治安と衛生環境の良い街並みに仕上がっており、皇子達の初仕事は帝都の人々の羨望と関心を集めていた。
住人となるドワーフ達は年齢性別関係なしに全力で駆り出されていたようだが、彼らにとっては身一つで新天地を開拓するも同義であり、建設に際しては大きな混乱も無かったとランナルは聞いている。
「先日の会議で宰相閣下からお小言を戴いた。頭を下げて教えでも乞えとな。」
恐らくはもっと直接的な叱責だったのだろうか、地区隊長の表情は渋い。
そうでなくとも帝都衛兵隊にとっては色々と気になって仕方がない存在なのだ。
明確な目的があったにしても、こうもあっさりと流民の受け入れを上手くやられてしまうと衛兵隊の立つ瀬が無い。
今までは単純に心強い同胞が出来たと喜ぶ者や、自分たちの職分と食い合うのではないかと警戒する者まで反応は様々だったが、ここ最近は単純な興味よりも畏怖の方が強く思える。
ランナルも柵が無ければ銃兵隊に籍を移していただろう。
「まぁ、今の状況がマシになるならいくらでも頭は下げて構わんのだが、残念ながら今の衛兵隊本部にはかの組織と縁のある者が居らんそうでな。」
「それで自分ですか...。」
地区隊長の言葉にランナルは内心で深い溜息を吐く。
親しいとは言っても互いに一線をしっかりと設けた上での話であり、周囲が見るような無条件の情誼であると楽観できる相手ではない。
公私の切り替えが厳格な上に凝り性なところがあり、それでいてキレると手が付けられない大変面倒くさい人物で、在学時代の綽名は”暴れ竜”である。
何故か炎の海を背負って哄笑する姿が似合う親友は、今頃は何をしているのだろうか。
別にキレやすい訳でもなければ誰かに八つ当たりする訳でもない。ただ、キレた時の矛先が人ではなく己を取り巻く環境であり、自らに押し寄せた理不尽や面倒事を全力で潰しに掛かるだけである。
実際、学外実習で面倒事を押し付けられてブチ切れた時は煮え切らない振る舞いをしていた学部長を面罵し、公爵家の嫡男から主導権を奪ってお飾りにした上でオークの里一つを3日で再建させた。
それが彼にとって”排除すべき要素”だったのだ。選定基準は未だによく分からないが。
親友としてこの上ない信頼がおける人物だが、下心を抱えて近づけば痛い目を見る事は想像に難くない。
「しかし、自分は研修中です。ここを離れる事は―――」
「普通ならな。だからこれは特例だ。」
言葉を遮るように地区隊長が机の上に置かれていた羊皮紙を広げて書面を見せ、ランナルは自らの役割が既に決定されていることを悟った。
「本日付でランナル”3等”衛視の研修を完了とする。」
「了解しました!」
組織としての決定を覆す力はランナルは勿論、地区隊長にも無い。厳正なる秩序に順う事が帝都衛兵隊の掟なのだ。
「大した事はしてやれなかったが、これで明日から本部附の2等衛視だ。幸運を祈る。」
どうせ来年の頭には研修を終える予定であり、秋には婚礼の儀も控えている。
溢れんばかりの好意を寄せてくる許嫁を未だに扱いかねているものの、ランナル自身の道行きは順調そのものだった。
返す返すも実力では無く縁故での出世である事が悔やまれるが、どうせそれを悔いた所で何かが変わるわけでもない。
...”なるようになる”か。悩んでも仕方ない。
「ありがとうございます、隊長殿。」
少しずつ、だが確実に変化は広がっていた。
「やぁ、元気にしていたか?」
「お久しぶりですな、殿下。」
気温が上がっても汗一つかかずに執務をこなしていた部屋の主は、ふらりと現れた来訪者に目じりを緩めた。
宮殿を嫌い、隙を見つけては市井へと逃げ込んでいた悪戯小僧は以前より若干痩せたようにも見えるが、相も変らぬ人の良い笑みを浮かべて戸口に寄りかかっている。
...まぁ、儂の様に肥えられても困るが。
開け放たれた窓から初夏の日差しが入りこみ、ヤニ色に染まった部屋を爽やかな風が撫でた。
「殿下がここにお越しになるとは珍しい。銃兵隊関連ですかな?」
「あぁ、上半期の出納一覧と各事業の進捗報告だ。事務長がさっさと提出しろとせっつくんでな。」
バサリと重たい綴りを机に投げ置くと、セルゲイは机に置かれていた酒瓶を掴んでどっかりとソファーに身を預けた。
礼儀作法を知らぬが如き振る舞いは貴族からの受けが悪いが、平民や亜人種たちには受けが良いらしい。
「これはこれは。お預かりしましょう。」
シェルバコフは苦笑いを浮かべながら綴りに軽く目を通し、相も変わらぬ完成度に舌を巻く。
宰相府の予算管理は年度末締めで半期での出納どころか事業進捗の報告義務すら無い。年度末に手製の小遣い帳じみた代物をでっち上げ、それぞれの組織や役職の長がシェルバコフの元に赴き、簡潔な報告で済ませる程度である。
...几帳面と言うか、真面目と言うか。
目の悪いシェルバコフにとっては非常に見やすくて助かるのだが、書類の見事さ以上にその内容がシェルバコフにとって”見やすい”モノである事が有難い。
斜陽の帝国を支える宰相であるシェルバコフも人並み以上の能力と責任感は持っている。
だがらこそ逃げ出さずに後始末とせめてもの贖いを続けてきた訳だが、それにしたところで良い報告の方が嬉しいものである。
「よくもまぁ見出したものです。この手の”眼”を持つ者は探しても出てくるものではありません。大抵は何処かで腐るか己の才に気付かずに朽ちるものですが...」
そして、ざっと見ただけでも作成者の能力が窺い知れる逸品にシェルバコフは目元を抑えると、彼が表現し得る最大限の賛辞を送った。
...手元に欲しいな。
シェルバコフが抱える官吏達は国家の視点を理解できない、あるいは理解してもその視点を生かす事が出来ない者が大半であり、能力はともかく使いやすいとは言い難い。
勿論、彼らの立ち位置を理解できぬシェルバコフでは無いが、残念ながらそんな悠長なことを言っていられる程帝国は盤石ではないのだ。
一々飼い主にお伺いを立てたり情報を差し出すような真似をされては困るし、いざと言うときに頼りにならないのでは初めから居ない方が予算にも胃にも優しいのが正直なところだった。
「言っておくが貸しはしても譲りはしないぞ。」
「...それは残念。」
シェルバコフは割と本気だったが、セルゲイの言い回しから子供から玩具を取り上げるような情けなさを感じて口を噤む。
「まぁ、殿下が彼に逃げられなければ私から言う事はありますまい。努々愛想を尽かされぬようにお気を付けなされれば宜しいかと。」
腹いせにニヤついていた悪戯小僧を一言で撃沈した老人は、綴りに再び目を落とした。
「それにしても...オークの時は話半分だと思っておりました。よしんば噂通りだとしても、法術士の数を頼った力押しだと。」
いくら現地の勝手を知る者が揃っていようと、わずか3日で里の基盤を構築するなど尋常ではない。
1週間の内3日で状況を把握し、半日で主導権を握ってその場にいる者全てを巻き込み、残る3日で能率と統制を保ちながら目標へ導くなど、とてもではないが人の世を知らぬ若者に出来るとは思えなかった。
現地調査を命じたシェルバコフ自身、報告書をにわかには信じる事が出来ずに聞き返した程である。
「そりゃそうさ。実際に里をこの目で見るまでは俺達もそう思ってたからな。」
報復がてらに秘蔵の逸品を求めてキャビネットを物色していたセルゲイが笑う。
セルゲイが自ら検分に行ってようやく何が起きたのかを”理解”した皇室と宰相府だったが、その時点ではドミトリーの扱いは決まっていなかった。
事態が動いたのは内務尚書が騒乱の為に自領へととんぼ返りし、宮中を徘徊していた犬畜生が居なくなってからの事である。
ただ、事態の進展の速さはシェルバコフの想定をはるかに超えており、対応が後手に回った感は否めなかった。
「お前の目にサムソノフはどう映った?」
「...器用さに目を奪われがちですが、恐らく彼の本領は単なる官吏よりも更に上の立場でしょうな。」
ゲオルギー・ガゼーエヴィチ・シェルバコフが手元の書類から察するに、ドミトリー・パブロヴィチ・サムソノフという人物は非常に視野が広い人物である。
その視野は単なる官吏とは一線を画するものであり、シェルバコフが知る限り、これほどの視点を持つ者は貴族の中にもそうは居ない。
その見識と能力を鑑みるに、帝国にとって得難い人物であると言えるだろう。
「同類の臭いかい?」
「えぇ。実に饐えた臭いですな。相応しい地位に就いた暁にはこれ以上ない活躍を見せてくれるでしょう。」
そして、宰相たる地位にあるシェルバコフにとっては、久しく見た事の無かった同類でもある。
直接言葉を交わした機会は一度だけだが、一目見ただけで同族嫌悪を強烈に煽られたのは本能的に似た者であったからだろう。
どのような教育を施せばこんな人物に育つのか大いに疑問だが、少なくとも能力は並の官吏以上であり、遠からず己を超える事は容易に想像がつく。
...これでようやく引退の可能性が見えて来た。
どうせ皇子達のお気に入りなのだ。適当に経験と実績を積ませた後は、逃げ道を塞いだ上で押し付けてしまえば良い。これ程の真面目な仕事をするならば、文句を言っても逃げずに立ち向かってくれる事だろう。
妻とは早々に別れて子に恵まれなかったシェルバコフには、新たな世代こそが我が子に等しい希望の星なのだ。
託すモノが何処までも汚らしいのはご愛嬌というもの。およそ好意的な印象は皆無だが、体の良い身代わりを見出したシェルバコフの心は明るかった。
「...あまり無茶はしないで下され。殿下に万一の事があれば皇太子殿下は孤独になってしまわれます。」
ただ、気掛かりな事が幾つかある。
一連の不自然なほど早い事態の展開の裏に、シェルバコフは何物かの意図をハッキリと感じ取っていた。
現在の各地の騒動は学生のやんちゃが引き起こせる規模ではない。誰かが煽った事は明確であり、それによって最も利益を得たのは他ならぬ皇室と銃兵隊なのだ。
現に、基幹となる人員からは貴族に繋がる紐が徹底的に排除され、銃兵隊は皇室直下の部隊としての体裁を急速に整えつつある。
時期的に竜種の若造ではなく、少なからぬ騒乱が起きている点からお人好しな皇太子が描いたシナリオとも考えにくい。極めて単純な消去法で出た答えは、目の前で部屋を物色する若者だった。
「無理ねぇ...別に苦ではないぞ?血に濡れようが泥に塗れようが、今更の話だ。」
不意に漏れ出したあまりにも禍々しい言霊に、シェルバコフの背中に汗が滲む。
どうしようもなく不自然で不穏な空気が執務室を重苦しく包み込み、初夏の風も爽やかな日差しも夢幻の如く消え失せた。
「過去の後始末はこの老いぼれの仕事。殿下が御手を穢すが如き真似を為さるべきでは―――」
未知、錯誤、準備不足に無理解、そして慢心。悔恨に彩られた記憶を辿れば失敗の原因など幾らでも湧き出して来る。
今ならば失敗して当然の改革だったと断言出来る。
当時は眩い理念に目を奪われ、足を掬われてからは生き残る事で必死でそれどころでは無かった。 だが、今ならば気付くであろう数々の因子は、思い出す度に耐え難い精神的苦痛と共にシェルバコフを締め上げる。
年老いた彼が己と同じ轍を踏ませまいと望むのは至極自然な事だった。
「くどいぞシェルバコフ。そんな甘い考えだからお前たちは失敗したんだ。あいつらに物事を理解させるには剣を突きつけて、死ぬか従うかの二択を示すだけで良かった。交渉の場など設けるから足を取られたのさ。」
無造作な口調とはかけ離れた冷淡極まりない評価が、シェルバコフの罪悪感を打ち据える。
「やっぱり覚悟だよなぁ...改革を成就させるという断固たる意志を示し、奉ろわぬ者に苛烈な仕置きを以って知らしめなけりゃ駄目さ。領地替えなんて甘い甘い。当主を吊るして家を取り潰す位じゃないとあいつらは気づきもしないぞ。」
キャビネットの扉から覗く目は、今まで見たことが無い酷薄な色を湛えていた。
「そのような事は―――」
「無いと言えるのか?全てを見届けてきた今のお前に。」
言えなかった。例え嘘でも。
「別に責めちゃいないさ。俺みたいな若造でもそれくらいは分かるって話だ。それに、俺達には後が無いんだ。形振り構っていられないんだよ。特に俺はな。」
言い淀んだシェルバコフに鼻を鳴らすと、セルゲイはボソリと呟いた。
「ヴァーシャだ...平和な時代なら名君になるだろうが、このご時世で皇帝になるには優しすぎる。鼻血を見ただけで意識を失うような小心者だぞ?誰かが盾にならないとあいつは持たないだろうさ。」
「殿下!!」
「ならば問うが、今の帝国に心優しき皇帝が出来る事などあると思うか?」
やはり言えなかった。口が裂けても。
経験豊富なシェルバコフの力を以てしても、帝国の緩んだ箍の締め直しは困難を極めている。出血を厭わぬ統制か、あるいは根本的な再構築が必要である事は既に明らかだった。
ただ、シェルバコフとて別に正道に拘っていたわけではない。皇帝が更なる流血を望まなかったが故に正道での対処に終始していたにすぎないのだ。
もっとも、腑抜けてもアレクサンドルが帝国の皇帝である事に変わりはなく、その制約下で宰相が出来る事などたかが知れていたが。
そんな撰も無い考えに浸るシェルバコフに、セルゲイはキャビネットを物色しながら聞き捨てならない問いかけをぶつけてきた。
「必要なのはあいつをあらゆる穢れから守る盾であり、あいつに仇なす全ての者を刈り取る短剣だ。どうだ、俺にうってつけの仕事だろう?」
「殿下!お戯れが過ぎますぞ!そのような事など皇帝陛下は勿論、今は亡き皇后陛下もヴァシリー殿下もお望みになるわけが御座いますまい!」
ものの言い方には限度という物がある。
少なくともシェルバコフにとって、投げ遣りなセルゲイの言葉は看過出来ないものだった。
確かに守れなかった。虫の良い話である事も理解している。
男としての能力を奪われて、時期皇帝の座を下ろされてしまった彼がそういう思考に傾く事は自然な流れではあったが、それでもシェルバコフはそうなって欲しくは無かった。
「だが、望んで無くとも押し付けざるを得ない事があり、望んで無くとも押し付けられる事がある。そうだろう?」
此方の思考を悉く見透かした問いかけがシェルバコフを締め上げる。
幼い頃から物事の本質を鋭く見抜く目を持っていた彼を、それこそ我が子、我が孫の様にシェルバコフは気に掛けてきた。
それだけに、彼がこの様な言葉を平然と放つようになってしまった事が、悔やまれ、それ以上に悲しくてならない。
「...もはや小生にはそれほど多くの時間はありませぬ。もし殿下が道を踏み外してしまわれれば、お救いする事は叶いますまい。」
既に老いを自覚するようになって久しい。
体は既に激しい運動に耐えられない程に衰え、精神も昔のような無理が効かなくなって涙もろくなってきた。
一般的な人間種の平均寿命が60代であるこの国で、50後半のシェルバコフは立派な老人である。老い先短い宰相が皇子達を見守る事の出来る時間は短い。
...何と惨めな事か。
こうなる事は分かっていた筈だった。いつも肝心なところで力が足りず、望まぬ未来を手にしてきたというのに。過去に学ばず過ちを繰り返す己は、最も蔑む愚者そのものだった。
「その必要は無いぞ、シェルバコフ。」
キャビネットからずんぐりとした酒瓶を引っ張り出して立ち上がると、セルゲイは憂いに沈む宰相にいつも通りの笑顔で笑いかけた。
「何が出来るかを俺が考えて俺が決めた。確かに選択肢は少なかったが、それでも納得した上で選んだ事だ。それに、今の俺にはガツンと諫める事が出来る部下が居るんでな。」
...困ったお方だ。
昔から聡い子供だったが、最近は老人を虐める腕に磨きがかかっていよいよ手が付けられなくなってきた。
「お前は親父を支えてやってくれ。ヴァーシャは俺が引き受ける...と言う訳でこれ貰っていくぞ。」
秘蔵の一本を持ち出されても、シェルバコフにはそれを恨めし気に見送るのが精一杯だった。
「ウラソフ。」
「御身の傍に。」
静まり返った廊下を歩いていたセルゲイがその名を呟くと、影から黒衣に身を包んだ男が音も無く姿を現した。
「サムソノフに人を付けろ。可能なら直接渡りを付けて構わない。」
跪いている上にフードを被っているためにその貌は窺い知れないが、覗く肌は北方系長耳族のそれよりも更に白く、内側からの突っ張りは長命種特有の長い耳を持っている事が分かる。
大柄な人々が多い帝国でも目立つほどの長身を滑らかに鞣した革鎧で包み、生気の無い肌と相反する力強さは見る者の印象の混濁を誘う。
「...承知いたしました。」
決して響く声ではない。雑踏に紛れれば溶け込んでしまいそうな無個性な声が、尚更に奇妙な印象の薄さを際立たせる
「何だ、不満か?」
「不満などございませぬ。ただ、かの御仁は底が知れぬ方故、日陰者の我らが言葉を交わせるかどうか...。」
相も変わらず跪いたままの男が小さく首を振り、セルゲイは頭を掻いた。
「不安ならば嘘偽りなく接すれば良い。全てを知ればあの竜は必ずお前たちの価値を理解するだろう...俺と同じように。」
少なくともセルゲイが知る限り己と同じ地平を見ているのは宰相と弟、そしてあの竜種だけである。
万が一逃げられれば皇室にとって致命傷となりかねないため、セルゲイは何が何でもこちら側に繋ぎ止める事を心に決めていた。
幸い、かの竜は聡明で義理堅い。セルゲイにとっては物理的な破壊力を勘案しなければ非常にやりやすい相手である。
切り捨てる事を厭うならば、縁こそがかの竜を縛る鎖となる。
であるならばより多く、より深い縁をこちら側で結ばせれば良いだけの事。
「人選は任せる。だが、くれぐれも彼が”我ら兄弟の友”である事を忘れるな。」
「御意。」
男が簡潔な返事と共に陰の中へと沈んで行くのを見送り、セルゲイは深い溜息を吐いた。
...悪いなドミトリー。俺が死ぬまで付き合ってもらうぞ。
人払いの術式が切れたのか、廊下に人の気配が戻り始めた。
出会った時から面妖な術式を使う連中だったが、最近は彼らの異能が頼もしい。それだけそちら側に踏み込んでいる事の証左でもあるが、汚れ仕事の元締めたらんとするセルゲイには至極どうでも良かった。
己が何をなすべきかが定まっているならば、迷う理由は無い。
ヴァシリーが詰める執務室へと歩いていたセルゲイは、ふと思い立って足を止めた。
「久しぶりに親父の顔でも拝んでおくか。」
腑抜けた父親はいつも通り庭で鳥に餌を撒いている事だろう。穢れきってしまう前に、自由の残り香を楽しんでも罰は当たるまい。
宰相から分捕った一品を片手にくるりと向きを変え、セルゲイは自身が心の底から蔑んできた我が家へと歩き出した。
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