第48話
暑い日が続きますね(東北人並感)
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「書記官オースカル・デニーキン以下3名、本日付で銃兵隊に配属となりました。我ら一同全力で殿下の...」
「おうおう、ご苦労さん。その辺に座ってくれ。」
机で書類に目を通していたセルゲイは顔を上げて一同を見据えると、デニーキンの挨拶をぶった切って告げた。
開け放たれた窓からは柔らかな風と共に木槌や木挽きの音が絶え間なく吹き込み、磨き上げられたマホガニーの机が抜けるような空模様を映している。
常ならば薄暗い筈の室内は、外の天気も相まって蒼く涼しい光に満たされていた。
「椅子は足りているだろう?それと、今みたいな堅苦しい言葉遣いは式典以外では不要だ。」
「はぁ...では、お言葉に甘えて。」
噂通りの豪放磊落さに、デニーキンを始めとする宰相府からの出向組はすっかり緊張の糸を断ち切られてしまった。
宰相府から派遣された人員は辞退した1名を除く4名である。
書記官 オースカル・デニーキン(人間種)
同 ユーシ・ハータイネン(北方系長耳族)
録字官 アンナ・ドーリナ(南方系長耳族)
同 アンドレイ・グレゴロビッチ(人間種)
現皇帝アレクサンドルによって定められた官等制度は、爵位の有無に関係なく現場における官吏の立場を保証するべく制定された。
そして、この制度下における録字官は官等制における一般官吏を指し、書記官は録字官を纏める係長に相当する。
なお、年功序列で組織を構成するには各種族の寿命が違いすぎるため、昇進は能力を基準とした人事審査によって決定されるように定められている。
短命でも優秀ならば高みに挑む機会が与えられているという点において、帝国で一般的な長命種の勤続50年制約を更に発展させた非常に先進的な制度と言えた。
もっとも、貴族出身の官吏相手に面と向かって”お前の能力は昇進させるに値しない”と言い切れる度胸を持つ者はごく稀で、昇進制度も官等も何かにつけて貴族勢力との衝突要因となってしまう事の方が多い。
他の新制度と同様、親玉が妖怪である宰相府以外では正常に機能しているとは言い難いのが実情だった。
「後1週間くらいは掛かると見ていたんだが、シェルバコフの爺さんもまだまだ元気らしいな。結構結構。」
セルゲイの悪戯っぽい笑みを浮かべた顔が妙に青く、デニーキンは違和感を覚えた。
「あの...殿下、お体の具合が宜しくないのではありませんか?」
「具合?少しばかり肌が荒れたが...あぁ、この肌か。腫れも引いてきたからもう塗り薬は要らんと言ったんだが...やはり目立つか?」
外からの光と微妙に緑がかった軟膏のせいか、セルゲイの額から頬、特に首筋にかけてが日焼けしたジャガイモのような色合いになっていた。
「恐れながら、人前に出るには些か問題があるかと。ちなみに、その原因とは...」
「悪化のきっかけはドワーフだ。だが以前から兆候があったから王宮の外の環境に慣れていなかったんだろう。要は俺は”育ちが悪すぎた”って事だな。」
「はぁ...。」
”痩せた子牛みたいなものだ”と笑うセルゲイを前に、デニーキンは訊いて後悔し、臣下として返しに困る言葉が出てきて更に後悔した。
気になった事をそのまま口にしてしまうのは昔からの彼の悪い癖である。
宰相府に勤務しているデニーキンは文句なしに裕福であるにもかかわらず、30代に至って未だに家庭を持っていないのはそれが原因だった。
「座らせておいてなんだが、俺の口から語るよりも実際に見た方が早い。要は慣れだ。言っておくがここの事務長は癖が強いぞ。頑張ってくれ。」
ひっそりと自己嫌悪に沈むデニーキンを後目に、セルゲイはそう告げると机に置かれていた小さなベルを手に取った。
「お前とそこの大きいのは人間種だからそこまで酷くは無いと信じたいが、エルフの二人は特に注意して接してくれ。ドワーフはこれからの銃兵隊の要ともなる存在だ。出来そうにないのならすぐに申し出るように。」
「「はっ!」」
名指しされた北方系と南方系の長耳族が、身長に比して短い背筋を伸ばして答える。
長命種は他者との交流に難があるものが多く、同族同士でも言葉のナイフによる斬り合いは日常茶飯事である。
特にエルフとドワーフは口の悪さのベクトルが悪い意味でぴったり噛み合ってしまうため、何かにつけていざこざを引き起こす事は良く知られていた。
「俺からは以上だ。詳細はアデリーナとドミトリーに聞いてくれ。」
「承知しました。」
セルゲイの言葉に合わせてデニーキン達は一斉に立ち上がり、深く一礼をする。
”見境のない癇癪持ちや、些事を流せない馬鹿から貴様らが身を守るための数少ない盾だ”
正式な任官前に幾度も繰り返された練習に顔を見せた宰相はそう宣ったが、果たしてその言葉通りデニーキン達を導いてくれている。
二度とやりたくはないが、その意味を知ってから初めて感謝の心を抱くのは実家も職場も変わらない。
「殿下、お呼びですか?」
「アデリーナ、彼らをドミトリーと共に案内してやれ。後は任せる。」
ノックの後に姿を現した幼女モドキに頷いて指示を出すと、セルゲイは手元の書類に意識を戻してしまった。
「承知しました。では皆さん、此方へどうぞ。」
デニーキン達はアデリーナの誘導の元、セルゲイの執務室を後にした。
「おっと、これは失礼しました。」
サムソノフ事務長が詰めていたのは駐屯地から少し離れた天幕の中だった。
事務長と言う肩書に胡坐をかかず、術式も扱える何でも屋として要所要所の作業と指揮を行っているらしい。
首に土汚れの付いた手拭いを掛け、上着は脱いで身に付けているのはズボンとシャツだけという出で立ちは、デニーキンの抱く管理職のイメージからかけ離れたものだったのは言うまでもない。
訪れた時は丁度休憩中だったらしいのだが、地面に書かれた文字を見るに読み書きを教えていたのだろう。彼の周囲にはドワーフの子供たちが集まっており、不安そうにデニーキン達を見上げていた。
「皆、この次はまた明日だ。いいね?」
「「はーい。」」
事務長がそう告げると、ドワーフの子供たちはデニーキン達から逃げるように天幕から出て行った。
「アデリーナ、見送りがてらにボリスの所にある手引書を4冊持って来てくれ。」
「はい!」
デニーキンが事務長の声に釣られて同じ方向を見ると、ドワーフの小柄さも相まって遠近感が狂いそうになるほどうず高く建材が積み上げられていた。ドワーフが来てから1週間しか経って居ない筈だが、恐ろしい程に仕事が早い。
例えセルゲイが的確な指示を出しても、実務を掌るのはこの竜種の青年である。
口さがない官吏の間では馬鹿な貴族の尻に火を着けたと評判だが、駆けて行く子供たちを心配そうに見送る姿は、何処にでも居る面倒見の良い若者にしか見えない。
見た目通りの人物ではないことを理解したデニーキンは、改めて気を引き締めた。
「お見苦しい所失礼しました。自分は銃兵隊の事務長を務めさせて頂いておりますドミトリー・パブロヴィチ・サムソノフと申します。本日は良くお越しくださいました。」
そう言って事務長が頭を下げると、頭に生えた禍々しい角がデニーキンの目に映る。滑らかな鱗に覆われた太く長い尻尾や、鋭く縦割れした瞳孔は市井ではまず見る事は叶わない物である。
…竜種か。直接目にするのは初めてだな。
「...宰相府より派遣されたオースカル・デニーキン、書記官です。よろしく。」
そして、固いやり取りを禁じたセルゲイ皇子の言葉とは裏腹に物腰は低い。身なりも服こそ乱れていたが、不潔さを感じさせない爽やかさがある。
あるいは天幕の周囲に立ち込める生木の香りがそう錯覚させるのかもしれないが。
「書記官、ユーシ・ハータイネン。」
「録字官のアンナ・ドーリナ。」
「同じく録字官、アンドレイ・グレゴロビッチ。」
「どうにも人手不足でして。皆さんの合流を心待ちにしていました。」
デニーキンの後ろに控えていた同僚たちが名乗り出て握手を交わすと、サムソノフ事務長はそう言って笑った。
...あくまでも謙遜か。この頭の中で何処まで図を引いているのやら。
バケモノ相手が終わったと思ったら今度は怪物の相手である。そう考えるだけでデニーキンの胃がキュッと締まる。
「宰相閣下より貴官宛に信書を預かっています。」
「拝見します。粗末な椅子ですが、どうぞお掛け下さい。」
封筒を受け取り、丸太を輪切りにした簡素な椅子に官吏たちが腰かけるのを見てから、サムソノフ事務長は爪で封を切った。
「成程、確かに承知しました。」
手紙を読み終えたドミトリーは内心で舌を巻いた。
移住手続きの早さにも驚いたが、何よりも宰相府から派遣されたのは将来的に必要になるであろう人材ばかりだった。
各地の直轄領で徴税官を歴任してきた財務畑のデニーキン。契約術式に造詣が深く法務の経験豊かなユーシ。地方上がりのアンドレイは市井の情報に明るく、アンナは街道管理などを通して通商関係に深い理解と知識を持つ。
官吏であるという前提だけでも涙が出る程有り難いが、それぞれの専門分野が更なる歓喜の涙を誘う。
...これは知っているな。あるいは同じような計画を温めていたか。
どちらにしても非常に心強い支援である事は言うまでも無い。
将来的には直轄領での統治政策の試験などを検討している皇子達にとって、現場を知る官吏ほど貴重な者は無いのだ。
貴族の色が付いていないのは防諜と妨害工作を考えれば非常に得点の高い配慮と言えた。
「宰相閣下は何処まで見通しておられるのか…底が知れないですね。」
ドミトリーが手紙を畳んで鞄に仕舞いながらそう呟くと、エルフの男がしみじみとした表情で同意を示す。
「偶にああいう化け物になるから短命種は怖いんだよ。歳ばかり食った長命種じゃ太刀打ちできないからな。」
「おい、ユーシ!」
上司に対する敬意の欠片も無い言葉に人間種の大男が注意を促すが、ドミトリーはそれを手で制して告げた。
「構いませんよ、事実ですから。ただ、発言する”場所”には気を付けてください。失言で身を滅ぼされては困ります。」
「へいへい。」
「すみません。こいつ、こういう奴で...」
...このエルフ、よく官吏としてやって来れたもんだな。
ユーシと呼ばれた北方系長耳族の男は4人の中で最も背が低く、性根を現すが如くへの字に曲がった口と値踏みをするような目線のせいで金髪碧眼の整った容姿は台無しである。
一方のアンドレイは体格に恵まれたドミトリーよりも更に頭一つ高く、灰色の髪に大きな鼻と伸びた眉毛に隠され気味な小振りな目が落ち着いた印象を与えている。お世辞にも美男子とは言い難く、体格からは想像もつかない程に高い声がそれに拍車をかけていた。
容姿の対照的な二人だが、キツいやり取りをしているにもかかわらず不思議と険悪な空気が無い。やり取りを見守る残りの二人もそれを当然であるが如く扱っているあたり、職場ではそういう立ち位置だったのかも知れない。
「事務長、我々は宰相府の中で”浮いた”存在です。過度な期待はしないで頂きたいのですが。」
「見ての通りハータイネンは口も性格も悪すぎるし、グレゴロビッチはヘタレ。デニーキンは肝心な時に一言多いし私は...」
「文句なしの阿婆擦れだな。」
「あ゛!?」
ドスの利いた声と共に足元で鈍い音が響き、ハータイネンが蹲って震えた。
艶やかな黒髪と浅黒い張りのある肌を持つ彼女は文句なしの美人ではあったが、見た目ほどの麗しい性格ではないらしい。
その方が人間味があって好ましいのだが、少なくともあの分厚い木靴で蹴り付けられるのは勘弁願いたいところである。
「銃兵隊は長い物に巻かれる組織ではありません。むしろ長く伸びて巻き込んで行く組織です。浮いている方が好都合ですよ。」
「しかし、自分達の様なはみ出し者で良いのですか?」
どうにもデニーキンと言う官吏には自信、あるいは仕事を通した充実の経験が不足しているらしい。
書記官と言う地位は決して彼の年齢相応に高いものとは言い難く、彼のどこか頼りなさそうな仕草が評価に悪影響を与えて来たのだろう。
故に、ドミトリーは断言した。
「宰相閣下の要望に此方が示した条件はただ一つ。”仕事ができる事”です。皆さんは宰相閣下の目に叶う人材であると判断しています。」
「それは...貴方も?」
「勿論、自分も”まとも”ではありません。」
...あんたら以上にな。
それは良い笑顔を浮かべて答えたドミトリーに、アンナは言葉を詰まらせた。
前世における”最期”が余りにも酷過ぎたため、ドミトリーの自己評価はデニーキンのそれとは比べ物にならない程に低い。
正直なところ政に携わる事すら恐れ多いのだが、それ以外に取り立てて得意な事も無いのもまた事実だった。
...とどのつまり俺にはそれしかない訳だ。相も変わらず度し難い。
「一緒に働けば分かりますよ。今だって皮を被っていますから。その様子では気付いているのでは?」
「それは...お見通しでしたか...。」
収まりの悪いこげ茶色の髪を掻きまわし、デニーキンは苦笑いを浮かべる。30代であるにもかかわらず、容姿も仕草も長命種と見紛うばかりに若々しい。
...もしかしたら長命種の血が入っているかもしれないな。
長い歴史の中でそういった事例が皆無だった訳ではない。恩師であるゴロバノフも長耳族と人間の混血だった。
残念ながら、幸せの結晶が幸せになる事は非常に難しいのが現実であるが。
双方が思考の海に身を投じてドミトリーとデニーキンのやり取りに暫しの休息が訪れると、アンドレイがふと問いかけて来た。
「事務長殿、なぜ我々にそこまで丁寧な口調を使われるのですか?」
官吏たちの視線を一斉に浴びたドミトリーは、ここで初めて歓迎の笑顔以外の表情を浮かべた。
「何かご不満でも?」
よくよく考えれば当たり前だが、敬語が出来ようがマナーが身についていようが、魂の下品さは転生しても変わらない。ドミトリーは、それを許容する世界なのかどうか未だに確証が持てずにいた。
以前、コロバノフ相手に切った啖呵は非常に危険な賭けであり、今後繰り返すべきではない狼藉であったとドミトリーは断じている。
少なくとも、先達には相応の態度と敬意をもって接するべきなのだ。相応しい人材である限りにおいて。
「ならばその配慮はどうかご無用に願います。年下の上司に使われることが耐えられない官吏は宰相府には居ません。我々もはみ出し者ながら宰相閣下の薫陶の元、既に下らぬ拘りと決別しております。」
アンドレイの後を継いだデニーキンがそう述べると、他の3人が頷いてドミトリーを見た。
もし、長命種と言う存在がもたらした良い点を挙げよと問われたら、年功序列という概念を成立”させなかった”点であるとドミトリーは自信を持って挙げる事が出来る。
長命であるが故に、長きに渡り奉職したが故に力を持つ事は帝国では不可能に近い。実力による裏付けが無ければ周囲から認められないのだ。
言い換えれば、この世界は無為を重ねた者に対して何処までも厳しい。耳どころか体中が痛くなる話である。
「...分かりました。皆さんがそれで宜しければ。」
ドミトリーがそう言って頷くと、4人の肩から心なしか力が抜けた。彼らも彼らで距離を測りかねていたらしい。
...少しばかり悪い事をしてしまったな。
自身の他人行儀な態度を心の内で反省するドミトリーの視界の隅に、事務室から資料を抱えて戻ってきたアデリーナが目に入る。
...さて、教材も届いた。始めるか。
心の内で頷くと、ドミトリーは”いつもの”太々しい笑顔でデニーキン達に向けた。
「では、さっさと説明を済ませてしまいましょう。いつまでも此処でだべっている訳ににもいきませんから。」
「ただいま戻りました...まだ飲んでいなかったのですか?」
ドミトリーが執務室に顔を出した時、セルゲイはこれ以上ない顰め面で薬酒を睨み付けていた。
朝一番に処方された筈だが、昼前にドミトリーが見た時と変わらぬ量がそっくりそのまま小瓶の中に残っている。
その鮮やかな緑色は前世の清涼飲料水のそれに匹敵する毒々しさを放っており、そういった”つくりもの”の飲料に親しむ機会のないこの世界においては、誰の目にも見た目通りの邪悪な毒杯にしか見えない代物だった。
「あぁ、ドミトリーか。お前も一杯どうだ?」
「では、その薬酒以外でお願いします。」
心底残念そうな表情を浮かべたセルゲイが何処からともなく酒瓶とマグを取り出すと、ドミトリーは執務室に無造作に置かれた椅子に腰を下ろした。
「その様子じゃぁ及第点って所か。」
「えぇ。宰相閣下は殿下に熱い期待を寄せていらっしゃるようで。今も事務室で勉強会を開いてますよ。熱心な事です。」
ドミトリーは敢えて”どちら”の殿下であるかは明言しない。だが、実務面での責任者であるセルゲイがその対象に含まれている事は言うまでもない事実だった。
「それは何よりだが、年寄りの期待はいつだって過大だよなぁ...本当に面倒なこった。ま、貰えるもんは有り難く頂くけどな。」
本人に自覚は無いようだが、ここ最近セルゲイの口調がドワーフ色に染まりつつある。元々砕けた口調を使っていた彼にとって、ドワーフの古風で荒々しい言葉遣いは親和性が高かったらしい。
貴種として相応しいかはともかく、親しみやすさに関しては文句なしと言える。
「まぁ、長命種の様にいつまで経っても生きている訳ではありませんからね。幸せな最期を迎えて貰うまでの辛抱です...あぁ、いい香りだ。」
「幸せな最期ねぇ...どんな最期が良いか、今度会った時に聞いておくか。」
酒精をかぎながらドミトリーがそう告げると、セルゲイがじっとマグの薬酒を見つめながらそう呟いた。
「それはそうと、宰相閣下は殿下の計画をご存じなのですか?」
「あ?あぁ。ヴァーシャを通して伝わっている筈だ。」
帝国における愛称は多種多様だが、大体は名前の一文字をもじった物が大半を占める。ヴァシリーの頭文字をもじったヴァーシャもその一つだが、ドミトリーの知る限りその規則性は無いに等しい。
響きだけなら女性の名前とあまり変わらない点から見るに、太郎をたーくん、あるいはたーちゃん等と呼ぶのに近いという事は何となく察してはいたが。
例えその呼び方を知っていても、相手を愛称で呼ぶにはそれなりの親しさが必要となる。
「...なるほど。此方の内情と計画を見抜いたような人選だったのですが、そういう理由ならば納得ですね。」
「伝え忘れていたか。」
”悪いな”と呟きながらセルゲイが頭を掻く。相変わらず手を掛けた薬酒で満たされたマグが口に運ばれる気配は無い。
「ただ、いずれも領地経営向きの人材です。宰相閣下は少しばかり”急ぐ”事を望んでいるかもしれません。それならそうと面と向かって言ってもらえれば楽なんですが...」
年寄りはせっかちで、奥手なくせに自己主張が激しい。おまけに、要りもしない気を遣って余計に若手の反感を買ってしまうのが常である。中身が年寄りであるドミトリーが言うのだから間違いない。
皆に慕われる年寄りは素養と長い修練を積んだ相当な人格者でなければ、その高みに至る事は出来ないのだ。
若くなって気付く年老いた己の偏屈さは、時に耐えがたい苦痛となってドミトリーの自尊心を蝕む。
「まぁ、平民主体の王家直轄部隊の編成は煩い貴族共が居ない今だからこそ出来る芸当だ。既成事実を固めておきたいんだろうさ。皇室が自由戦力を持つだけでも貴族にとっては圧力になるからな。」
現時点における銃兵隊の基幹人員は亜人種だが、帝国に暮らす人間種が戦えない訳では無い。救国の英雄として名高い”鎚聖”アリスタルフは多くの亜人種を引き連れて戦ったが、彼自身は従軍経験を持つ衛兵上がりの人間種だった。
加えて、帝国内の貴族が抱える私兵は大半が人間種だが、その全てが騎士あるいは従士として代々その職に就いてきた者に大半が占められており、領民を動員する事は稀である。
大多数を占める農民は文盲であり、それらを統率するのは生易しいものでは無いからである。
セルゲイ曰く、進め、止まれ、下がれの3つ以外はその場の勢いでどうにかするのが指揮官の腕の見せ所らしい。
果たしてドミトリーがその見せ場に気付くことができるか、甚だ疑問であるが。
そんな統率水準では当然の如く脆い上、戦地での滾りを発散する術を知らない彼らがする事は一つしかない。国内治安の維持が貴族達の主任務となりつつある帝国で、そのような蛮行をされては名誉どころの話ではなかった。
結局、皆がそれに気づくまでに流れた血と負債は全て皇室に押し付けられる事となり、現在の苦境に繋がっている。
「そんなに急がずとも理由など幾らでも後付け出来そうな物ですが...。」
「自分が死ぬ前に目途を付けたいんだろうさ。爺さんは元気だが必ずしも健康ではない。こないだもまた足が痛いと転げまわって騒いでいたからな。」
貴腐病と呼ばれる病―――いわゆる痛風だが、シェルバコフはかれこれ6度も発作に襲われており、既に杖無しで歩き回るのは難しい状態であるとの事である。
自覚のあるなしにかかわらず、彼がはやる気持ちに駆られていても不思議ではない。
...計画通りの猶予があるとは限らない、か。
「既成事実ですか...困りましたね。今が一番重要な時期なのですが。」
「あぁ...ったく、ままならないもんだよ。」
戦力増強の当てがあり、兵士の給料の遅配に悩む事も無い銃兵隊だが、求められるものが余りにも早急かつ過大に思えて仕方が無い。
やむを得ない事であるとはいえ、ずぶの素人に任せて良い仕事ではない筈である。
「ドミトリー、計画を繰り上げよう。これ以上待つとどうにも面倒な事になる気がする。夏には任務に耐えられるように仕上げられるか?魔獣、可能なら匪賊を蹴散らしておきたい。」
「かなりの駆け足になりますが、出来なくは無いかと。ベルジン商会にはお世話になりっぱなしですね。」
分隊毎の集団行動はある程度形になっていたが、セルゲイは全身を湿疹に襲われてそれどころでは無く、ドミトリーは居住区の開発に時間を奪われた結果、全体での訓練は先送りにされたままとなっていた。入用な施設や制度に意識を取られていたことは否めない。
...ドワーフ達には悪いが、ここから先は自分たちで何とかしてもらうしかない。”種まき”はいったん打ち切りだな。
心の中でパトリクソンに詫びを入れ、ドミトリーはマグに視線を落として思案する。
「集団行動の訓練、射撃訓練、指揮系統の確立ですね。補給体制は残念ながら片手間での整備で妥協する他ありません。」
元砲兵のドミトリーにとって、補給をおろそかにすることは恐怖以外の何物でもないが、それを許さない現実の前に抗うすべは無い。
「やむを得ないだろう。弾と...火薬だったか?それらの必要な物資の備蓄を続けながら供給体制を整えて回す。当面はそれで凌ぐ事になる。」
決定事項としてセルゲイがそう宣言すると、ドミトリーは懐に入れていた手帳を取り出してメモを取る。
「期日は夏至まで、近隣の魔獣及び匪賊の討伐が可能な水準を目標、と。戦闘手段はどうします?」
「不問だ。成果を挙げればそれでいい。銃を使ってくれれば文句なしだが、そこまで高望みはしない。出来るか?」
「お任せ下さい。でっち上げて見せましょう。」
セルゲイの問いに、ドミトリーは不敵に笑って答えた。
失敗し、祖国が致命傷を追えばそれは即ち己の破滅である。一蓮托生にされたのは痛恨の極みだが、かと言って座して滅びを受け入れる程ドミトリーはお人よしでは無い。
抗うにせよ、引っ掻き回すにせよ、状況の主導権をいつでも握れるように備える必要があった。
...される側よりはする側の方が選べるだけマシと言うもの。強いられるのは好みでは無い。
色々と思考が黒ずみ始めたドミトリーの内心を知ってか知らずか、抑揚に頷いたセルゲイはマグを掲げて宣言する。
「権利に相応しき義務を。」
「権利に相応しき義務を。」
セルゲイの口癖となりつつある文言に、ドミトリーも応えてマグを掲げる。
「お゛う゛ぇぇぇぇえぇ!!」
―――執務室は野太く聞き苦しい嗚咽に満たされた。
ご意見、ご感想等お待ちしています。




