第2話 水盆の巫女 上
翌朝、ドミトリーはいつもよりも少し早く目が覚めた。
「今日は父さんと神殿に行くんだった。」
ベットから出て家の外にある井戸で顔を洗っていると一番上の姉のエレーナが来た。
竜種の特徴である角がナイトキャップを突き破っている。
「おはよう、レーナ姉さん。 また角出てるよ。」
「おはようジーマ。 角は気にしないで。どうしても出てくるんだもの。」
億劫そうに頭を手を伸ばし、エレーナはため息をついた。
ドミトリーはあまり身なりを気にしていない。
着慣れた服とは着慣れた靴。髪と顔を少しきれいにするよう心掛けるだけだ。
長姉の角で穴の開いたキャップを見て、大人しく角用のサックをつければいいのにと思う。
竜種の角は寝具を痛めやすいので寝るときに角に皮のサックをかぶせる。
姉たち曰く『見た目が冒涜的』との事で、二人の姉だけは頑なにサックを拒んでいる。
ドミトリーが物心つく頃、年相応に身なりに気を配る娘たちを母は優しく見守っていた。
しかし度重なるシーツをはじめとする寝具の破損に業を煮やしたのだろう。現在、母は姉たち繕いものをさせている。
「イーマ姉さんは?」
次姉の姿が見えない。
「イーマはトイレ。」
聞かなくてもよかった。
返す言葉が思い浮かばず、あいまいな相槌を打ってそのままドミトリーは井戸を後にした。
寝間着姿のまま花壇で朝食用のハーブを摘んでいると、顔洗いを済ませた次姉のイーマ姉さんが来た。
「おはよージーマ。 昨日、お父さんと何話してたの?」
朝露で手をぬらしながら振り向く
「おはようイーマ姉さん。 僕の日記の話。 あと、なんか今日神殿に行くって言ってた。」
ハーブを摘む手は止めない。
「神殿? じゃぁ途中で何か買ってきてよ。」
瑞々しいハーブのお茶がドミトリーは大好きである。
「父さんに頼んでよ。」
日記帳に小遣いを注いでいるドミトリーには姉に貢ぐ金はない。 答えは一つだ。
卵とパンとシカ肉の燻製の朝食を済ませ、食後に皆でハーブティーを飲む。
「マーシャ、今日はジーマを連れて神殿に行ってくる。」
父がパイプを燻らせながら事もなげに告げる。
「ジーマの守護洗礼はまだまだでしょ? 顔合わせには早すぎない?」
父は約束通り夢の事を母に内緒にしてくれていた。内心ドミトリーは安心する。
「最近仕事も忙しい。少し早いが時間がある時に顔合わせぐらいはしておこうと思ってな。レーマもイーマも顔合わせは済んで洗礼待ちだし、余裕があるうちに準備はしておきたいんだ。」
パーヴェルは別に嘘はついていない。
もちろん全てを伝えてはいないが、モノがモノである。ジーマの夢の件はしっかりと確認してから妻には告げるべきだと考えていた。
「神殿に行くならお土産買ってきてよ!」
「私も何か買ってきてほしいな。」
姉たちのおねだりに苦笑いしながら約束をする父を見て、自分も何か買ってもらえるかもしれないとジーマは心を躍らせた。
それからすぐに身支度を整えて家を出た。
家は街から少し離れているため、早めに出ないと帰りが遅くなるのだ。
乗合馬車に乗って街へ向かう間、二人はお互い何も話さなかった。
父と二人で街を歩く。
ドミトリーは今更ながら父と街を歩くのは初めてであると気づいた。
「父さんと街を歩くのは初めてだ。」
繋いだ手は大きく暖かい。
「そういえばそうだな。 でもこれからはジーマがいい子にすれば何度だって来れるようになるさ。」
パーヴェルとしては、職務上なかなか時間が取れないため、息子の相手を出来ないことを残念に思いながら過ごしていた。
負い目というほどではないが、巫女の見解次第では今の仕事を辞めてでも息子に教えなければならないかもしれない。
竜種だけに限らず亜人種はその出自と能力故に望まぬ争いに巻き込まれやすい。
パーヴェルの親友もそうだった。
せめてドミトリーが自分で自分を守れるように鍛える必要がある。
パーヴェルが務める高等法術士の職はもうじき定年を迎える。あと3年ほどで再契約か離職かを選ぶことになる。
それを待ってからでも遅くないと思っていたが、あの日記に記された夢の記述はパーヴェルの楽観的な予想を吹き飛ばした。
どこの神かは知らないが、まず間違いなく何らかの『加護』を授かっている。
神々は気に入ったものに加護を与え己の手駒として遊んできた。
そして、加護の力に振り回された者をパーヴェルは何人も見てきた。
パーヴェルにとって、神々は気まぐれに世界を引っ掻き回す何処までも面倒な存在でしかない。
昨日からはその面倒さにさらに拍車がかかっている。
「...増えていくとも。」
良いことも、悪いことも。劇的に。
幸いにも、神殿への道はドミトリーにとって非常に刺激的であり、隣を歩く父親が内心の葛藤を隠し切れず、何とも形容しがたい表情をしているのに気づくことはなかった。
道を歩く多種多様な人々や、にぎやかな市場。普段家に籠りがちなドミトリーにとって皆眩しく鮮やかで新鮮である。
サムソノフ親子の目指す神殿は土産物屋や商店が立ち並ぶ通りの先、街の中心少し離れた丘の上にある。
神殿の前の広場は休日のため人でごった返していた。
収入や能力に違いはあってもそれぞれの信仰心を尊重する姿勢は亜人種共通で、そこらへんになぜか融通の利かない人間種からは理解できないものらしい。
この町の神殿はこの地域に住む殆どの亜人種の守護神の祭壇が揃っているため、老若男女、種族を問わず休日には盛大な人だかりとなる。
数少ない例外が竜種だが。
神々をまつる祭壇にはさまざまな果物や贄の獣が捧げられ、その場で神殿の巫女たちによって振舞われている。目に見える形での富の分配こそが亜人たちの神殿の伝統である。
その様子にドミトリーは朝食をしっかり食べたにもかかわらずジワリと胃がもだえるのを感じた。
だが隣を歩く父は広場の喧騒に目をくれず、そのまま広場を通り抜けて奥の神殿へと進んでいく。
ドミトリーもはぐれぬように父についていった。
神殿の中は周囲の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
天井は大きなドームで壁には神々の彫像が並び、大広間の中央には光が柱のように差し込んでいる。
蝋燭の類しかないのにも関わらず、不思議と暗くはなかった。
入り口から奥に進むにつれ神殿内の幻想的な雰囲気に思わず足が止まる。
立ち止まり、天井の石造りのドームを見上げたドミトリーは、主神の向かって左側に刻まれた、水盆に腰かける女神のレリーフからなぜか目を離せなかった。
パーヴェルは大広間の隅、壁際の椅子に座る巫女に声をかける。
目的の人物は無防備に舟をこいでいた。
後ろでまとめた日陰でもわかる美しい金髪。
人の持ち得ぬ長い耳と美貌。
丈の長い装束越しにも主張する均整の取れた豊かな肢体。
昔馴染みは立場こそ変わっていたが、昔と全く変わらない風貌でそこにいた。
「起きろ阿婆擦れ。話がある。」
神殿の管理者である長耳族の女性は、懐かしい声とこれまた実に懐かしい呼びかけに瞬間的に覚醒した。
水盆の女神のレリーフをじっと静かに見つめ、何か大切なことを思い出しそうだったドミトリーは、荘厳な場に突然轟いた下品極まりない罵声に腰を抜かした。