第46話
大変お待たせしました。 最新話です。
7/11 話数及び誤字誤植を修正しました。
7/21 誤字修正しました。
「「乾杯!」」
帝都の市場からほど近い飯屋で、掛け声とともに若い竜種と人間種が大きな陶製のマグをぶつけ合う音が響き渡った。
大切な商売道具を荒々しく扱う客に、店主が複雑そうな表情を浮かべる。
「ぷはぁ!」
「あぁ!」
「「うまい!」」
だが、期せずして揃った賞賛の言葉が耳に入ると、店主は人知れず表情を和らげた。料理に対する評価ではないものの、提供する商品に対する高評価は店主の目の良さを間接的ながら賞賛と受け取れるからである。
真昼間から身なりの良い若者が一日早い週末を謳歌する。実に退廃的な光景がそこにはあった。
この飯屋、マスル亭はドミトリーが卒業してからずっと贔屓にしている飯屋だが、今日は同伴者がいる。
「昼から大酒!素晴らしいな!帝国万歳!」
「ネストル、あまり急ぐと取り置き達が寂しがるぞ。」
ドミトリーはそう言って食卓に並ぶ酒瓶を撫でた。
今日の相伴はネストル・ミハイロヴィチ・イロフスキー。ドミトリーの法術大学における同期にして悪友である。
ちなみに、どちらかというと得意先や同僚と表現した方がしっくりくるため、彼はドミトリーの中ではベックマンやランナル達とはまた異なるカテゴリーに属している。
親友とは利権の対立も腹の探り合いもしない間柄の友人を指す。少なくともドミトリーはそう考えていた。
「まさか!まだまだこれからさ...」
卒業後も手紙を通じて連絡を取り合っていたのだが、今までは双方共に忙しかったために時間が合わなかった。だが今回、互いの仕事がある程度落ち着いたこともあり、飯を共にする運びとなったのである。
「それは何より。そろそろ悪だくみをしたくなってきたところだったからな。」
法術大学で身に着けたはずのテーブルマナーは何処へやら。ドミトリーの言葉にヒッヒッヒと下衆な笑いで返すと、ネストルは手にしたライ麦パンにありったけのジャムを塗りつけた。
だが、その場の空気が落ち込むまでには、さほど時間はかからなかった。
「とは言ったものの...最近は景気が悪いし、廻船すら安心できない。本当に商売あがったりさ。この状況で商売を始めるのは流石に無理だ。」
「だろうな。帝都内ですら安心できない状況だ。俺も仕事がらみの外出でえらい目にあった。まずろくな事にならないだろうさ。」
指に着いたジャムを舐めながらネストルがぼやくと、ドミトリーも遣る瀬無い表情で愚痴る。
週末とは言ってもまだ平日。薄暗く閑散とした店内にドミトリー達以外の姿は無く、口を閉ざせば調理を終えた店主がマグを磨く音だけが響く。
磨く音もどこか気落ちした切なさを纏っているのは気のせいではない。
「やってられないよ...ちっとも楽しくない。」
ぐったりと背もたれに身を預け天井を眺めながら、ネストルがそう吐き捨てた。
彼の実家であるイロフスキー家は代々材木商を営んでおり、帝都にも店を構える所謂”大店”である。
そのシェアは独占的なものでこそ無いが、帝国内における実績と規模は業界内でも突出しており、ネストルはその経営者一族であるイロフスキー家の三男坊だった。
「俺自身は兄貴達の予備みたいなものだし、仕事も好きにやらせて貰ってるんだけどな...」
ちなみに、銃兵隊に志願した者たちの大半も次男や三男である。家を守るとはそういう事なのだ。人権という発想が存在しないため、生まれによる予備やら代わりという役割が容赦なく押し付けられ、不要と判断されれば自立を強いられる。
「”現場に立てばこそ見えるものもある”か。」
炊事の残り香に酒精が混じるフロアで、ドミトリーがマグに酒瓶を傾けながら呟く。取り置きの酒は決して良いものでは無いが、物価の上昇に伴い値段だけは中々のものとなっている。
蒸留酒の類いが無いのが残念ではあるが、帝国において酒は飲用水を兼ねているためにあったらあったで社会問題になりかねない。
安く、そこそこの味をより多く。これが帝国における酒造の基本姿勢だった。
「ま、仮に見えたところで手の打ちようがないんだけどな。警備を雇ったところで匪賊が出れば皆逃げ出すし、どれほど良い商品があっても運べば足が出ちまう。」
言外に新規事業が金の無駄であると告げ、ネストルは深いため息を吐き出す。
学外実習後に密かに画策していた新規事業はいくつかあるが、いずれも情勢が安定していることが前提だった。
「他の材木商も同じか?」
「当り前さ。材木なんて運んで使ってなんぼの商品だ。寝かせりゃあっという間に朽ちる。こればかりは爺さんも親父も兄貴達もお手上げだよ。必死こいて運んでも売り上げが経費で消し飛んじまうからな。他の商人だって似たり寄ったりだろうさ。」
縋る様にマグをつかむと、ネストルは一気に呷る。
「完全に手詰まりだよ。どこもかしこも食い繋ぐので手一杯だ。」
ネストルの言葉は余りにも重く、奥からかすかに響いていたマグを磨く音も途絶えた。
「不景気、不景気、どこもかしこも金が無い...か。なら、金は今どこに集まってるんだろうな。」
「え?」
腕を組み、頭を傾けながら唐突に出て来たドミトリーの問いかけに、ネストルが素っ頓狂な声を上げた。
「不思議だとは思わないか?金は世の中を巡る物。なら、誰が金の回りを止めてるんだ?」
「そりゃ匪賊だろう。あいつらが商品を分捕って...」
ドミトリーの呟きにすかさず答えたネストルだが、話は彼の想像とは違う方向へと進み始めた。
「...それを”誰に”売りつけているのか、そこが問題だな。そもそも匪賊がどうやって飯を食っているのかが分からん。誰かと交易しているのか、あるいは自給できるだけの拠点を持っているのか...不思議なもんだ。」
「おい...それじゃぁまるで...」
ネストルが皆まで言う前に、ドミトリーはその手を突き出してさえぎった。どの様な推論であれ、少なくとも彼の口から言わせてはならない。その確信がドミトリーには有った。
...商人側だって無抵抗ではない以上、分捕るだけでは遠からず先細りになる。なら、誰がそれを補っている?何のために?
漠然と、それでいて思いつく限り最悪の予想が浮かび上がる。非常に困った事ではあるが、ドミトリーはこの手の嫌な予感を外した事が無い。
「まぁ、あくまでも推論だ。真実は匪賊に聞いてみるしかないだろうさ。」
「...そうだな。」
不快な未来予想図に目を細め、口振りとは裏腹にネストルの表情は硬い。せっかくの会食はしみったれた空気のままお開きとなった。
通りに出る出店は春野菜などが山の様に並んでいるが、なんとも言えない逼塞感が漂っていた。道行く人も心なしかくすんで見え、店を出す商人たちの表情は決して明るいとは言い難いものがある。
「自業自得だけどさ、ああいう話をすると見え方が変わるよな。」
暗すぎる話題のせいで再会の祝い酒は台無しとなった上、2人は店主から水差し出されるという無言の退店要求を受けてしまった。勘定を済ませて店を出た2人は特にあてもなく通りを歩いていた。
「自業自得ね...。」
開店早々に店内の雰囲気を台無しにされた店主に、詫び代込みでいつもよりも多めに代金を支払ったのはドミトリーである。
支払いに関しては己の一存で色を付けたために文句は無いが、思うところが全くない訳でもないあたり、前世からの貧乏性は失せるどころか益々その力を増している気がしないでもない。
「そうだ、お前の家で飲み直そう。」
「は?」
値段に釣り合わないしょっぱい品ぞろえの市場を物色していたドミトリーは、ネストルの唐突な提案に問い返した。
「家を手に入れたんだろ?お披露目くらいいいじゃないか。」
...お披露目か。別に構わないが、こいつの笑顔は後から牙を剥くからな。一応は釘を刺して置くか。
「荒らす程の物は無いぞ。」
何となく目的を察したドミトリーが先回りして告げると、ネストルは忌々しそうに舌打ちをする。
「おう、なんだその舌打ちは。」
「気にしない気にしない。そうだ、ついでに何か買っていこう。酒の一杯も無けりゃ話も弾まないし、手土産くらいは欲しいだろ?」
別に残念とも思っていなかったが、ドミトリーはその言葉を即座に否定できる程、酒に関して無関心でいられるような人格者ではない。
「...わかったわかった。歓迎するよ。」
「やっぱり酒は偉大だなぁ!」
偉大なことは認めるが、酒しか憂さ晴らしの方法が無いと本当に健康を害してしまいそうで困る。
...そういえば見かけないが、この世界にも鉢植えはあるのだろうか。
ふと、すっかり忘れていた趣味を思い出して、ドミトリーは頬を緩めた。
だが、そんな穏やかな気持ちは程なくして消し飛ばされた。
「レーニン...」
「ただの雑貨店だろ。どうした?」
ドミトリーの泳ぐ視線の先でシックルとハンマーをあしらった看板が風に揺れる。
「いや...でもまさか...」
...いや待て、例えそうだとして、どうするんだ?
勿論、答えなどない。
歴史上の偉人である事は疑いようがないが、まかり間違っても同時代人になりたくない。会って話をしてみたくないと言えば嘘になるが、己の立場が立場だけに知識が激しく警鐘を鳴らす。
衝撃のあまり思考が半壊状態のドミトリーの目が映す映像は、絶望的なまでに直接的だった。
『レーニン雑貨店』
名前がもうアレである。おまけに看板が赤地に鎌と鎚、もうそれにしか見えない。さらに困ったことに、この雑貨店は銃兵隊駐屯地とドミトリーの自宅との間にあり、通りの先には駐屯地の門が見える位には近い場所にある。
まさか自宅と職場のすぐ近くにこんな店があることを今の今まで知らず、ドミトリーは不意を突かれてしまった。
「雑貨...雑貨って何を商うんだ...?」
ふと、日用品に交じって赤い聖典を置かれている幻想が目に浮かぶ。
「いや、雑貨は雑貨だろう。」
...なら、革命は雑貨に含まれるのか?
物質的なものでは無いが、思想もまたある種の雑貨ではないのか。ドミトリーの脳内で答えようのない疑問がひたすらに堂々巡りを繰り返す。
「おい、一体どうしたんだよ。大丈夫か?」
当然だがネストルに非は一切ない。だが、学友が脂汗を流しながら通りに突っ立っている様を見ては、彼も彼で困惑に拍車がかかるものである。
不穏な緊張感が通りに満ち、ドミトリーからにじみ出た魔力が道行く人々の肌を刺す。
「あの...」
流石に不審な来店者の気配を察したのか、店のドアから赤みの強い栗色の髪をした少女が戸惑いながら顔を出した。
「あ、ちょっとこいつ具合が悪いみたいなんだ。水を一杯もらえないか?タダとは言わないからさ。」
「あ、はい!」
ネストルの言葉を受けて少女は店の中へ戻ると、程無くして今度は店主が姿を現す。
「大丈夫かね?気付けの水ならあるから、取り敢えず入りなさい。」
「あ。」
ドミトリーは力を失い、崩れるように膝をついた。
禿げ上がった頭に口元を覆う整えられた髭。服装こそ帝国らしい毛皮をふんだんに使ったそれだったが、その顔を忘れられる筈が無い。
見紛う事無き赤き指導者がそこに居た。
「やっぱり仕事がキツいんだろ。抱え込み過ぎてるんじゃないのか?」
「別にキツくは...いや、疲れてはいたかもしれないな。」
店からの帰り道、大きな燻製肉の包みを抱えながらネストルが問いかけると、北部産の蜂蜜酒を抱えたドミトリーが悄然として答える。
一言でまとめると、大恥をかいた。
レーニン雑貨店は文字通りのごく一般的な雑貨店に過ぎず、店主のヤーコフ・ダヴィードヴィチ・レーニンはごく一般的な商人でしかなかった。
容姿も名前もあくまで偶然の一致に過ぎず、ドミトリーは取り越し苦労で大汗をかき、挙動不審になった上に膝をついて屈するという醜態を晒したのである。
「表の看板?あぁ、雑貨店の前には園芸用品を専門に扱っていたんだ。草刈り鎌と木槌だよ。いい出来だろう?ま、あれを掛けてすぐに景気が悪くなったせいで日用品しか売れなくなったがね。」
豊かな口ひげを蓄えた店主が朗らかに笑う。
強面ながら人のよさそうな笑みを浮かべて答える店主に、ドミトリーは久方ぶりの圧倒的な敗北感に包まれた。
...他人の空似とはいうが、いくらなんでもこれは卑怯だろう!
自らの醜態の余りの恥ずかしさに泣きそうになるのを堪えるので必死だった。
だが、パッと見ただけでは気づかないほど似ているのだが、確かによく見れば記憶に残るその男とは微妙に違う。看板もよく見れば野暮ったい。一致しているのは響きだけで姓の綴りが異なる。
誠に腹立たしいが、よく見れば違うことに気付けるような差異がしっかりとあるのだ。
それに、確かに帝国が政情不安である事は事実だが、労働者が団結の使命感に駆られるようなものとは趣が異なる。
帝国内においては工場労働者はその萌芽こそあれど民意に影響を出す程の数は無く、圧倒的多数の農民や漁師たちも不作や重税を理由とした一揆や反乱こそあるものの、その枠を超える事はごく稀である。
帝国における争いの当事者は皇帝と貴族たちであり、一般の人々にとっては雲の上の話でしかない。
身分によって識字率に露骨な差がある現状では、文盲の人々による場当たり的な反乱は瞬く間に鎮圧されてしまう。少なくともここ数十年の間、領地を超えた反乱はドミトリーが入手した資料を調べた限りでは存在しなかった。
そもそも国土が広大であり、多種族が共存するが故に帝国に暮らす人々は良くも悪くも『他所は他所、うちはうち』という意識が強い。
例え雲の上が見苦しくとも、帝国では取り敢えず耕していれば食べていける程度には豊富な地力がある。
取り敢えず食えているために人々には政治を見守る余裕があり、その結果として大規模な反乱等が生じづらい風土が形作られているのだ。
為政者側としてはなんとも複雑な事ではあるが、帝国はその豊かな大地に生かされているとしか言いようが無いのが現状だった。
もし、かの人物がこの世界に居ればこのような内情の帝国を、そして世界をひっかきまわすことは想像に難くない。
だからこそドミトリーは分厚い面の皮で隠しきれないほどに動揺した。
転生こそ不本意だったが、生まれ変わって早18年。再び生まれ育った故郷には彼なりに深い思い入れがある。
家族、友人、上司に部下。出会った人々や結んだ絆。その全てがドミトリーにとって掛け替えのない存在なのだ。
万が一国が乱れれば、彼らが罪なき咎を責められるかもしれない。正義の美名のもとに断罪されるかもしれない。あの看板を見た時、ドミトリーは本能的にそれらの未来を幻視した。
歴史家にとってロマンあふれる時代が、その時代に生きる人々にとって良い時代とは限らない。戦乱の時代の英雄譚も、文明文化の絶頂期も。輝きが強ければ強いほどその影は暗く、深く澱む。
まして革命など起きれば、影に追いやられる者など決まっている。
比較的裕福で上流階級とのつながりがあるという状況がどれほどに危険か。自身が特殊な少数種族であるという自覚がそれに拍車をかけた。
...もしもこの店主がその人物の生まれ変わりならば、の話だったのだがな。
抱いていた疑念が店主の自己紹介で全て杞憂であると確定し、次の瞬間から今度は安堵と気恥ずかしさがドミトリーを激しく攻め立てた。
件の革命家がそもそも帝国に転生しているかどうかも定かではない上、冷静に考えれば彼が皇帝という存在を許すはずがなく、もし転生していれば隙だらけの祖国でとうの昔に大暴れしている筈である。
「お父さんは先が見えないからねー。ホント、何処見てるのかしら。」
「リーリャ、そんな心無い言葉を口にするな...お父さんは悲しいぞ。」
レーニン氏は自身の商才の無さに自覚があるのか、娘の言葉を否定する事は無かった。この手のやり取りをよく繰り返しているらしく、声を荒げる事もなく困ったように眉を傾けながら笑みを湛えるだけである。
だが、その言葉はむしろ目の前の状況を冷静に観察すらできなかったドミトリーに突き刺さっていた。愛嬌のある顔立ちから放たれる言葉の銛は、店主よりもむしろドミトリーの方に容赦のない追い打ちをかける。
...全く、俺は何処を見ていたんだろうな。
微笑ましい光景を前に、ドミトリーの目から光が消えるのにそう時間はかからなかった。
言い合う親子を後目に、頑なに上を見続けるドミトリーの頬に光るものを見つけ、ネストルは是非も無しと首を振るしかない。
「...ドミトリー、世の中似た人が居るんだ。お前の知る奴は知らないが、こういう事もある...今回は偶然が重なっただけだろう。あまり気にする事はないさ。」
「...あぁ。」
羞恥に焼け爛れた心にネストルの労りが粗塩の如く揉み込まれる。返す返すも見苦しく情けない一幕だった。
「へぇ!良い家じゃないか!なんだぁやっぱりやる気あるんだろ。」
レーニン印の自家製蜂蜜酒の樽を小脇に抱えて自宅前で足を止めたドミトリーに、ネストルが嬉しそうに声を上げた。
辛気臭い話はしていても、ネストルは温めていた計画をあきらめてはいなかったらしい。
「これからも遊びに来ていいが絶対に壊すなよ?一応は借家だからな。」
相変わらず傷心のままだが、少し立ち直ったドミトリーがネストルに釘をさす。
「一応?持ち家じゃないのか?」
「貸主に買ってくれとせがまれててな。金がある程度たまったら買い取る予定だ。」
その言葉にネストルは目を見開き、まじまじとドミトリーの顔を見た。
「マジか...金持ってんなぁ...」
「言っておくが前の家主は流行り病で全滅してる。借り賃も安いし買い取りの提示額もかなり低いぞ。」
「何だそれ...大丈夫なのか?」
心の底から嫌そうな目で家を眺めるネストルに、ドミトリーは苦笑いを浮かべながら付け足した。
「安心しろ。引っ越して暫く経つが今のところ幽霊は出ていない。」
「いや、気になる所そこじゃないんだが...まぁ、いいか。」
この世界の人々は疫病に関して特に敏感である。好き好んで感染病による死者を出した家に住みたがる者はいない。
ドミトリーにしてみれば汚物を道端に捨てるならばもっと衛生に気を配ってほしい所であるが、衛生に関する研究が未発達であるため、それらは今後次第である。
「取り敢えず入れよ。大したものは無いけどな。」
鍵を開けてドアを押し開けると、一人所帯独特の生活臭が2人を迎え入れた。
「自分が...ですか?」
「そうだ。」
小火もかくやという勢いで煙を吐き出す燻製卵を前に、青年が困惑を隠しきれずに問い返す。
帝国宰相府、宰相執務室は春の柔らかな光を遮る紫煙に包まれている。相変わらず体を労わる気の全くないその振る舞いは、少なからぬ彼を慕う者達にとって悩みの種だった。
だが、シェルバコフは部下達からの諫言を聞いてはいても、あくまで聞くだけであってその振る舞いを止めるつもりはなかった。
既に彼は往時のような執務能力を発揮する事は出来ず、心の針が振り切れるまでに重ねた心労は既に取り返しのつかないレベルで彼を摩耗させている。
老い先短い人生、これ以上出来ることなどない。深い絶望と諦観がシェルバコフの心を固く塗り固めていた。
そう、つい先年度までは。
「出世競争に遅れる事が怖いか?」
「...いえ、平民出の限界は承知していますので。」
言葉とは裏腹に不本意という感情がダダ漏れな部下に、シェルバコフは後進の成長の遅さを内心で嘆く。後進育成に不熱心だった彼が言えたことではないが、近年の官吏はどうにも粒が小さいように思えてならない。
...どれもこれも腹芸すら見抜けぬ小僧ばかり。全く嘆かわしいものだ。
顔を強張らせる若手官吏を前に深い溜息を吐いたシェルバコフだが、実際のところ彼の人材評価基準は非常に厳しい。
かつて彼が身を置いていた『西部領連絡委員会』は、加速度的に悪化する情勢を憂いた西部諸侯が自身の抱える最高の人材を出し合い、表向きは西部諸侯同士の連絡と施政のすり合わせを行う機関だったが、その実態は帝国の改革のための人材プールだった。
委員会の人選は領主や代官からの推薦のみであり、人員は西部地方の官吏の最精鋭が集められた。
流し読みで書類の要点を把握し、法典を細則まで諳んじ、対人交渉では眉の動き一つすら見逃さず、恩讐を忘れずとも引き摺らずに実務を優先し、公金横領や賄賂の授受が絶えない地方官吏や代官の中にあって清廉さを尊び、己の有能さを寄る辺としていた。
そのような者達が集まる組織に若くして推挙された彼は、今でこそ腐りかけたゆで卵の燻製だが、その優秀さを買われた官吏のサラブレッドだったのである。
その為に彼は自己評価が高かったが、他人に求める水準も高いものとなるのは自然な事だった。
「ほう...だが、貴様の目はそうは言っとらんな。」
「っ!?」
老いて偏屈さに磨きがかかった現在も、往時と変らぬ能力の高さを保っているシェルバコフだが、彼にとっても部下にとっても宰相府という組織全体としても不幸なことに、彼の能力が余りに隔絶しているせいで後進に求められる能力が高騰していた。
「まだまだ精進だな。その様では書類はさばけても仕事を片付けられん。」
「...はい。」
少なくとも現在の宰相府には彼に並ぶ者能力を持つ若い者が無く、度重なる辞意も後任なしという理由で悉く却下され続けている。
勿論、シェルバコフが過去の経緯から皇帝からの信任が厚いのは事実だが、容姿も醜ければ口も悪く、長年の政争を潜り抜けた結果として性格も悪くなって久しい。
加えて、加齢によって感情の制御に陰りが出てきている。幸いなことに今のところ周囲に当たり散らすまでには至っていないが、自身の続投が明らかに問題であるにもかかわらず、それでも続投せざるを得ない現状がシェルバコフには耐えがたい程に不愉快だった。
...貴様ら、ぐずぐずせずに早く育って儂を追い抜け。引退出来んではないか!
目の前の若手官吏も彼から見れば察しも悪いし飲み込みも悪い。今こうして話をしているだけでも腹が立ってしまう。
苛立ちによって険しくなった眉間を揉みながらシェルバコフは努めて穏やかに告げた。
「殿下達が進めている銃兵隊の編成はガキの遊びで終わらせるには余りにも惜しく、それ以上に危険だ。随分と頭の回る手駒を手に入れたようだが、彼だけでは荷が重かろう。貴様は歳が近い。向こうとの連絡役となって貰いたい。」
「それは...自分の出自が理由ですか?」
案の定、言外に信用していると言っているにも拘らず、目の前の若手官吏はその意図を察する事が出来てない。
「それもある。だが、重要なのはそこではない。」
長年の不養生でしわがれた声が彼の意図しない気迫と威圧を放ち、若い官吏を圧倒する。
「貴様が平民出が不利だと思うのなら、それ以上の努力と経験を積めば良い。少なくともここで鬱屈とするよりは遥かに建設的だ。儂の見る限り貴様には伸びしろが多い。銃兵隊で学べる事は多い筈だ。」
「それ程までの人物が...銃兵隊に?」
シェルバコフはその問いには答えず、咥えていたパイプを静かに灰皿に置く。
事ここに至ってまだ明確に返事をせずに質問ばかりを返す青二才に、シェルバコフの心臓は俄かに活気づき、長年の酷使でくたびれた血管が悲鳴を上げる。
「デニーキン...やる気はあるのか?」
そして、上司の声色から温かみが失せてやっと気づいた部下が、慌てて答えた。
「あ、あります!是非ともやらせて下さい!」
部下の退出後、シェルバコフは深い溜息を吐きながら背もたれに身を預ける。
...追い返されなければよいのだが。
己が長きにわたり宰相を務めて来た弊害が、ここ最近特に目につく。
彼は宰相になるまでに数多くの役職を歴任してきたが、人材育成に携わった事が一切無かった。天才肌であったが故に誰かに指導されるという経験も数えるほどしか無い。
実務能力において他の追随を許さぬシェルバコフだが、唯一の欠点が部下の使い方も育て方も非常に不得手な点だった。
彼自身は既にいつでも地位を譲る準備が出来ているのだが、肝心の人材が未熟極まりないためにそれが叶う目途が立つ見込みが無いのである。
帝国宰相の悩みは取り返しのつかないレベルで深刻だった。
「閣下、帝都衛兵隊司令部より緊急連絡です。」
「緊急?」
夕刻、最近目にするようになった非常に出来の良い報告書に目を通していたシェルバコフは、ノックと共に現れた従卒の言葉に眉を寄せた。
「閣下、200名ほどの銃兵隊への志願者を名乗るドワーフの集団が東大門前に集まっています。数が多く女子供を多数含むために城壁外に留め置いているとの事ですが、如何されますか?」
彼の把握している限り、ドワーフ200人は銃兵隊からの事前連絡にはない。
「...急ぎ銃兵隊に確認を取れ。こちらに来ていた話では20人前後だった筈だが、ドワーフ達が勘違いをして来た可能性がある。」
...あるいは、全てを見越して身を寄せたか。
最近なにかと後ろ向きな考えが浮かびがちなシェルバコフだが、溜息と共にかぶりを振った。
「門前払いする訳にはいかん。銃兵隊の駐屯地に通せ。事情はともかく呼んだのは彼らだからな。対応は銃兵隊にさせる。必要なものがあれば可能な限り用立てると伝えろ。それと、デニーキンたちの出立を急がせる。どうせ同じ帝都内だ、明日には出すぞ。」
「承知しました。」
指示を受け取った従卒が一礼して退出すると、シェルバコフは手元に残していた報告書の綴りを再び手に取る。彼の元に銃兵隊から上げられた書類には、銃兵隊事務長D・P・サムソノフの署名が記されていた。
「書き物は得意らしいが...さて、どう乗り切るかな。」
シェルバコフの呟きは、再び部屋に広がり始めた紫煙に紛れて消えていった。
「無理だ、まずは街道が使えないと個人規模の商人は身動きが取れない。」
「街道か...」
シェルバコフが柄にもなく感傷的になっていたちょうどその頃、ドミトリーとネストルは床に広げた手製の地図を挟み、酒と炙った燻製肉を肴に意見をぶつけ合っていた。
「俺の知る限り、麦も肉も酒も全て街道を使って運んでる。レダ河はその手の荷運びに使うには使い勝手が悪いんだ。」
「使い勝手?」
「沿岸が険しすぎるのさ。荷運びの盛んな地域ですら30ルスト(22メートル半)近い崖が続いてて、荷おろし用の岸壁は小さい上に使用料が高い。余程の取引でなければ陸路の方が安上がりなんだよ。うちみたいな材木商ですら荷運びは陸路でやってるくらいだからな。」
「なるほど...それなら街道の安全確保の方が手っ取り早いか。」
眉を顰めて肉をかじりながら、ドミトリーは思案する。
皇室と貴族の対立に決着をつけるには、帝国内の市井の人々の支持を固める必要がある。最悪、反乱を起こされてたとしても、民草の厚い支持があれば復権も不可能ではない。
だが、その為にはまず”この王様なら俺たちは安心して食っていける”という信頼を勝ち取る必要がある。
大前提となる食料の供給は豊かな国土がある程度カバーしているが、越冬に必要な物資が高騰すれば人々の命に直結する。つまり、民に見限られる。
皇室側に立つ者として、一刻も早く街道という国家の血管に巣食う寄生虫を除く必要があった。
ドミトリーとしては銃兵隊が一定の成果を上げるまでに帝都近傍を流れるレダ河を使った河川運輸で取り敢えずの繋ぎをと考えたのだが、どうやら正攻法を短期決戦で行うしか無いらしい。
「俺の私見だが...今は商人たちも静観してるが、街道の安全を保証してくれるならかなりの支持を得られると思う。現時点でもかなりの期待を集めてるしな。」
今のドミトリーが最も飢えていたのは世相の情報である。その点において、商人とのつながりのあるネストルの情報は非常に貴重だった。
「そいつは有り難い。幸いなことにヴァシリー殿下もセルゲイ先輩も商売の重要性はよく理解してる。過度な期待は2人の負担になるから禁物だが、付き合い方さえ間違えなければ信用のおける庇護者となってくれる筈だ。」
残念ながら、このネストルという悪友にどれほどの信が置けるかは定かではない。彼を通して要らぬところに情報が洩れる可能性もある。こればかりはどうする事も出来ないのだが、そういった危険性が頭を過るとどうしても不安に駆られてしまう。
ちなみに、ドミトリーはベックマンやランナルを相手にこの手の話を振る気は無い。
親友たる彼らを畜生の道に引きずり込むのは流石のドミトリーも気が引けたからである。そういう意味ではネストルの”悪友”と言う立ち位置はカテゴリー的に”同類”に近い。
「良いぞ。これから当分は退屈しなさそうだ。」
ドミトリーの言葉を聞き、基本的にじっとしていられる気質ではないネストルがその目に水を得た魚の様な活力を漲らせる。
好む好まざるとこの手の話に困惑や忌避感を抱かない彼だからこそ、ドミトリーはこうして情報のやり取りをすることが出来る。
ベックマンやランナルではこうは行かない。
「安心しろ。間違いなくお前が死ぬまでは退屈しない世の中になる。おそらく、死んでからはもっとな。」
若さ故の野心に満ちたネストルの呟きに、ドミトリーにも自然と笑みが浮かんだ。
酒が入って色々と取り繕っていたものが剥がれ落ち、ドミトリーは久方ぶりに緊張の糸を緩めていた。
「羨ましいよ...俺にも何かできないか?」
マグに残った蜂蜜酒を見つめながら、ネストルが呟く。
「仕事の内容が内容だ。入ったら最後、はいお疲れ様でしたで足を洗えない...それに皇室の色が付き過ぎる。友であればこそ、俺からは絶対に勧められない。」
だが、ドミトリーはネストルの呟きを割と本気で諫める。
...好き好んで畜生の道に入る事も無かろうて。
気楽な立場を目指していた身としては、好き好んで飛び込みたいというネストルの気持ちは理解できても共感しがたいものがあった。
「色か...でもな、どうせ旗色を決めるなら早い方が得だろう。」
「否定はしない。だが、在野の方が自由が利くのも事実だ。わざわざ道を狭める事は...」
自由。それはドミトリーが最も欲し、既に手に入らないことが確定したモノである。目の前でいとも容易く捨てられては当てつけでしかないのだが、それに不快さを抱く寸前に前世の感性に引き摺られている事に気づく。
...この世界は前世のそれとは前提が違う。まして、こいつには俺よりも限られた時間しかない。
出し惜しみや躊躇いが脳内で未だに幅を利かせている事に内心で舌打ちをし、ドミトリーは悪友の目を見据えて静かに告げた。
「...本当に良いのか?」
「あぁ。兄貴達は頭も回るし結婚して子供まで作ってる。俺は遠からず家を出る事になる。結局は遅いか早いかの違いしかない。」
答えるネストルの声色はどこか寂しげなものがあった。常日頃の元気で下品な彼らしくもない表情に、ドミトリーは彼の実家での立場を察する。
「...分かった。だが、受け入れるかどうかを決めるのは殿下だ。少し時間が掛かるが良いか?」
「待つさ。だが、後でもっと早く引き入れていればなんて後悔するなよ?」
不敵に笑うネストルに、ドミトリーは苦笑いと共に吐き出した。
...残念だがその手の後悔は済ませているんだよ。反省を生かし切ってはいないけどな。
「それはこちらのセリフだ。来たら給料を使う暇すらない位にこき使ってやるから覚悟しろよ。」
悪人面で放たれたドミトリーの脅し文句に、ネストルは頬を引き攣らせた。
「事務長!いらっしゃいますか!?」
唐突にバンバンとドアを叩く音が響き、2人が肩を震わせたのはそれからしばらくの間酒を飲み進めた後の事だった。
すでに日は深く傾き、部屋に差し込む西日に力強さは無い。燻製肉はその身を細らせ、空になった酒樽の上には蝋燭が立っている。既に今日の酒宴は終わりを告げていたのだが、ドミトリー達は何とは無しにだらだらと過ごしていた。
「少し待て!」
ドミトリーが声を張り上げてマグを置いて立ち上がると、ネストルも立ち上がって問いかける。
「面倒事みたいだな。お暇した方が良いか?」
玄関から響く事務長という呼び声は声の主が銃兵隊の関係者であることを意味する。休日にわざわざ呼び出しにくるという事は何かしらの問題が起きたからだろう。
「済まない。そうしてくれると助かる。また後で連絡を取ろう。」
「あぁ。じゃあな。」
ドミトリーの言葉に頷くと、ネストルは脱ぎ捨てていた外套を纏うと勝手口として使っている店舗側へと足早に向かっていった。
それを片目で見送ると、ドミトリーは廊下を歩きながら乱れた服を整えながら家側の正面玄関へと向かう。
...このタイミングでの緊急の呼び出し、何があった?
可能性がある事項は多いが、現時点で急を要するような事態は駐屯地で暮らす兵士達のトラブルくらいしか思い当たらない。
脳裏に疑念が渦巻くままドアを開けると、薄暗くてもよくわかるほどに青ざめたボリスが待ち構えていた。
「ボリスか。一体どうした?」
「ドワーフが来たんですが何故か200人以上いて...皆対応に困っているんです。休日なのは承知の上ですが、来て貰えませんか?」
...は?
簡潔極まりない報告だったが、その内容の理解にドミトリーは一拍の時間を要した。
「...分かった。すぐ行く。」
理解し切れているわけではないが、何が起きたかを把握したドミトリーは、戸締りもそこそこに外套を引っ掴んで家を飛び出した。
急報と共に、ぬるま湯につかった様な穏やかな時間が終わりを告げる。
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