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元宰相の異世界物語(仮題)  作者: 徳兵衛
第1章
56/65

第43話

今までで一番難産でした。心理描写の道は険しいですね。

5/16 微修正しました。内容に変更はありません

「ドワーフの到着が遅れる?」


「あぁ。何でも、オルストラエで問題が起きたらしくてな。」


 チャイの入ったマグを片手にけげんな表情を浮かべ、ドミトリーがセルゲイに問い返す。


 合流予定日の前日にやっと届いた知らせは、土砂降りの雨も相まって部屋の空気を重苦しいものに変える。


「先輩、手紙を見せてもらってもいいですか?」


 ドミトリーは手紙を受け取るとそれに目を通し、盛大に顔を顰めた。





 オルストラエからの手紙が届いたのは、薬師の合流から丁度1週間後の事だった。


 朝一番に届いたドワーフ支族長のベックマン家からの書簡には、人員の選定に手間取っている旨と、合流の遅れに対する謝罪が記されていた。

 銃兵隊としてはもっと早くにその情報が把握したかったのだが、手紙に記された日付は半月以上前。どう考えても書簡の配達の遅れが原因であり、ベックマン家を責めるのは筋違いと言えた。


 勿論、筋違いだろうが何だろうが問題である事に変わりは無く、ドミトリーは国内情報網の脆弱さに溜息を吐く。


...そう言えば、あいつは大丈夫だろうか。元気にしているといいんだが。


 遠く離れた故郷で一人戦う親友の顔が脳裏にチラつく。頭数だけは多い兄弟の中で、彼が上手くやっていけるのかどうかは極めて怪しい所である。お人よしの彼が苦労していないとは考えにくい。


「今すぐオルストラエを出たとしても一か月は掛かるぞ...厳しいな。」


 背もたれに寄りかかったセルゲイが天井を見上げて呟く。何が厳しいかと言えば、一番はセルゲイの肌模様である。現在、彼の駐屯地における住環境の改善は急を要する状況下にあった。


 立場が立場故に、事あるごとに痒い痒い言われては周囲も対応に困る。不衛生由来の湿疹に悩んではいるが、現在のセルゲイの住環境は一般的な水準よりも遥かに良好であり、これ以上となると既存の駐屯地の設備では対応する事は不可能だった。


 ちなみに、浴場に一家言ありと自負するドミトリーも自宅の改造はまだ未着手であり、現在も実家で慣れ親しんだ水風呂を悪態を吐きながら使っている。


 蒸し風呂など作っている時間は無かった。


「では彼らの合流まで施設の拡張も自分が進めます。」


「大丈夫?」


 ヴァシリーの確認にドミトリーが頷く。


 ドワーフが合流すれば施設や技術面は彼らに任せれば済む。だが、ドワーフ以外の呼び掛けに応じた亜人種のほぼ全員が合流している現状では、既に集めた人員を遊ばせるのは時間と金を溝に捨てているようなものである。


 加えて、組織の本格的な始動が遅れるのは帝国の情勢から鑑みても好ましくなかった。


 ”恒例の地域振興”の結果、今の帝都は政治闘争の空白地帯と化しており、将軍や貴族と言った外部勢力の干渉を受ける前に組織の基礎を固める好機にあったからである。


「問題ありません。ただ、当分はそちらの方に時間を取られるので、先輩の負担が”少し”重くなりますが。」


 ちなみにドミトリーは、現時点で銃兵隊の事務系仕事全てを管理していた。


 一応、直属の3人の教育も兼ねて設備の維持管理、被服食料の調達、志願者達の登録手続きと給料の管理を分担して行っているが、いずれにしても決済はドミトリーを通して皇子達に届けられる形となっている。

 決済役の二人に負担を掛けないよう、あらかじめドミトリーが厳しくチェックを入れていた。


 だが、これからドミトリーが施設の拡張に回れば、これらの書類の決裁はセルゲイがかなりの割合を担う事になる。


 組織編成が固まっている訳では無いため融通が利くのは事実だが、それだけ負担と責任は重くのしかかる。


「”少し”ねぇ...まぁ、少しなら...。」


 声を震わせて目を背けるセルゲイを見てドミトリーは肩を竦め、ヴァシリーはわざとらしくため息を吐く。


「まぁ、兄さんは要領が良いから問題ないと思うよ...兄さん、よろしくね!」


「...では、よろしくお願いします。」


「おい待て、なんだ今の目配せは!」


 セルゲイの献身的な協力により、隙あらば兄を弄る手腕には磨きがかかり、日々のやり取りは実にウィットに富んだものに日々成長している。

 勿論、互いの一線を越えないやり取りではあるが、相手が隠したい思惑を読み取る練習としては文句なしの実地訓練と言えた。


 出会った当初の気弱な印象は今も健在だが、少しずつ面の皮が厚みを増しつつある現状は、臣下であり臣民でもあるドミトリーにとって非常に嬉しい成長だった。


 ただ、ドミトリーはヴァシリーが時折見せる陰のある表情が気がかりだったが。




「でも、流石に更に一月は待てないね。ドワーフ達には悪いけど。」


 軽口と視線による短くも激しいせめぎ合いの後にヴァシリーが呟く。


「現時点で集まった面子を遊ばせるのは無駄でしかありません。もう始めるべきでしょう。それらしく式典をでっち上げれば区切りも付きます。」


「だな」


 ドミトリーも手元で今後の予定の素案を組みながら同意を示すと、、セルゲイが力なく相づちをうつ。


 身も蓋も無い言い草だが、集めた人員が暇を持て余して空気が緩んでいるのも事実である。いつまでも待っていられない以上、始めるのに早すぎる事は無い。現状ではもはや遅い。


「でっち上げって...いや、そんなもので良いのかい?」


「そんなものですよ。大事なのは形よりも中身ですが、ある程度形も整えておかないと組織から締まりが無くなりますから。」


「なら、ごっこ遊びと揶揄されない位には引き締めないとね。」


 ヴァシリーが苦笑いを浮かべてドミトリーに同意する。三者三様の毒舌だが、最もキツイ毒を吐くのは勿論ドミトリーである。

 

「式次第はこちらで整えるので、演説をお願いします。殿下からのお言葉が有ればでっち上げた式典にも体裁が付きますから。」


「分かった。頑張ってみるよ。兄さんも手伝ってくれる?」


「あぁ、良いぞ。」


 セルゲイは書類相手よりも外に出て体を動かしたりする方が好みのため、こういった仕事だとやる気が出るらしく食いつきが良い。


「まずは口先で兵たちの心をがっちり掴んでください。信頼を得るにはある程度の時間がかかりますから、その間の彼らの忠誠心を繋ぎ留める必要があります。」


「あまり期待しないでよ?」


 ごく自然な流れでハードルを上げる部下に、上司は眉を顰める。


 この部下、日頃から臣民らしい畏敬の念を欠片も見せないが、為政者としてその発言を否定できないから性質が悪い。


「大事なのは美辞麗句より中身ですから。」


「とても重いね...。」


「人間としてマトモな感性を持っている証拠です。これからもその重さを大切にしてください。」


 だが、ドミトリーは時折ドキリとするほど含蓄の深い事を言うため、ヴァシリーは聞き流さないように心掛けていた。





 主君を支えるのは臣下の務め。


 君主制下に於いて、君主は周囲からの期待と圧力に耐えつつ、あまり目に見える結果が出ない仕事を死ぬまで延々と続けなければならない。勘違いをすれば暴君と謗られ、周りを窺っても凡君として軽んじられる。


 ごく稀に名君と呼ばれる適性の高い人物が現れるが、それとてそう長く続くものでもない。帝国は建国から600年が経つらしいが、未だに君主制国家として纏まっているのは奇跡に近い。


 帝国は始まりの王国が建設した植民都市を起源としているが、例え基礎的な統治ノウハウがあったとしても、王朝交代の5度や6度は起きていても可笑しくはないのだ。

 幾度もあったであろう危機を乗り越えて来られたと言う事は、皇室がただのお飾りなどでは無い確かな何かを受け継いできた証左であると言える。


 ドミトリーから見れば、衣食住の完備などまるで割に合わない過酷な職業である。


...この兄弟は失うのあまりに惜しい。亜人種としても、帝国臣民としても。


 ドミトリーが伝え聞く限り、西大陸の人々は亜人種に対して好ましからざる印象を抱いている。


 正直なところ、寿命も体格もまるで異なる種族の共存をごく普通に実現している帝国の方が異常だが、それが故に帝国は亜人種達の最後の拠り所となっている。

 当然ながら獣系にして長命、特に外見上の差異が著しい竜種であるドミトリーにとっても、帝国は文明的な生活が保障された唯一の国家なのだ。


 理由は不明だが、例え隔意があったとしても振舞いに支障をきたさない程度には、帝国の人々は度量が広い。


 同族で同じ共同体に属するものですら下らない理由で意地を張り、互いに隔意を抱いて抗争を繰り広げるのだ。帝国に於いて共存の方針が種族間抗争に発展せず安定を保っているのは、ドミトリーから見れば奇跡としか言いようがない。


...どうせ一蓮托生だからな。


 だが、脳裏で覚悟を新たにメモ書きを増やしていたドミトリーは、セルゲイからの問いかけによって現実へと引き戻された。



「そう言えば最近、仕事が終わったらすぐに帰ってるけど、何してるんだ?」


「最悪の事態の想定ですよ。」


「最悪の事態?」


 訝しむ兄弟に、ドミトリーはあっさりと答えた。


「種族間の対立に起因する内戦とか、地方領主の分離独立。あと、外部勢力による国内騒乱の誘発とかですね。どのパターンでも最終的に現在の体制の崩壊に繋がるのが悩みどころですが。」


 唐突に物騒極まりない単語が飛び出し、兄弟が盛大に顔を引き攣らせる。


「...それ、対策はあるのか?」


「無くはないですよ。どちらにしても現状でこの手の事変が起きると非常に苦しい事に変わりはありませんが。」


 タールの様な粘っこく重苦しい空気の中、ドミトリーは気にした風も無く足元に置いた鞄をごそごそと漁り始めた。


「例えば?」


「種族間の対立に関してはそれらの調停を専門に扱う部署を設けるとか、外部からの工作には実働部隊を持つ防諜組織の編成をするとかですかね。ノウハウの蓄積が必要なので効果を上げるのに時間がかかりますが...あぁ、あった。」


 ドミトリーはそう言いながら鞄から二つの綴りを取り出すと、テーブルの上に置いた。


 片方には黒インクで、もう一方には赤インクで構築式が描かれ、どちらの表紙も禍々しい雰囲気を醸し出している。


「何?これ...」


 掌ほどの厚さをした紐綴じの冊子に、兄弟は本能的に警戒心を跳ね上げる。


「これは今言ったような想定と、それらを防ぐ効果が期待できる政策を纏めた物です。まぁ、政策はあくまで方向性を示す程度ですが。」


 ドミトリーに促され、セルゲイが赤を、ヴァシリーが黒い方を手に取る。


 恐る恐る冊子を開きその内容を見て、2人は言葉を失った。


「おい...これは...!」


「黒字は政策案、赤字は想定です。先にお詫びしますが、不敬罪承知の上で書きました。内容が過激極まりないのでご覧になる際はその点をご理解いただければと。」


 だが、ドミトリーの言葉は取り憑かれたように読み進める兄弟には届かなかったらしく、昼食を拒まれた使用人たちが動揺するまで、兄弟は綴りを交換しては呻いてを繰り返した。





「...ドミトリー、これを俺たちに渡したという事は、覚悟が出来たのか?」


 綴りに一通り目を通して気の毒なくらいに青ざめたヴァシリーを後目に、セルゲイがぐったりと椅子に背を預けながら問うと、今までの抵抗が嘘の様にあっさりと答えが返ってきた。


「はい。そう考えて頂いて結構です。」


「何故だ?あれだけ渋っていたのに...」


「学友を巻き込んだからです。当人は此方の事情を全く知らず、全くの偶然でしたが。」


 ドミトリーは口調こそ穏やかだったが、その表情は苦々しいを通り越した渋面である。遅かれ早かれとは思っていたが、その覚悟を決めた経緯は不本意だった。


「元から仕事を投げ出す気はありませんでしたが、今までは覚悟が決められずにいました。ですが、薬師達の合流を機にやっと迷いを捨てられました。」


「何だ、俺やヴァーシャでは足りなかったのか?」


「お二人の場合、どうあがいても血縁からは逃げられませんし...下手な事をすれば死を賜るお節介など普通は怖くて出来ませんよ。」


「だよなー...知ってた。」


 ”この欲張りめ”と軽口を言うつもりだったが、思いの外パンチの利いた答えにセルゲイの心は打ち据えられた。


 周囲が遠慮して距離を取るのは彼らにとっては今更の事ではあるが、それだけに敢えて面と向かって言い放つ厚顔さを持つ部下は希少である。

 些か以上に刺激的ではあったが、その位の毒気が無ければこの先を乗り切ることは出来ない。以前からセルゲイが抱いていた漠然とした予感は、この日確信に変わった。


 ふと最近の会話が毒気を増していた事を思い出し、セルゲイはドミトリーに改めて命じた。


「まぁ、遜った言い方では通じないものもあるからな。改めてその物言いに関しては一切不問だ。今後も続けるように。」


「了解です。あらん限りの塩で先輩の心を包みますよ。その志が腐らないように。」


 惜しむらくはその言動が涙が出る程に塩気が強い点だが、このままでは兄弟もまた父親の様に涙が枯れ果てる事は目に見えている。

 セルゲイにとっては、どうせ心がぺんぺん草も生えない荒野へと変わるならば、その土地が塩にまみれたところでさしたる違いはない。


 そして、ドミトリーが覚悟を決めたのに呼応する形でセルゲイもまた遠慮を捨て、今まで避けて来た疑問をぶつけた。


「...正直に答えてくれ。お前の目にはこの国はどう映っている?」


 セルゲイの問いにドミトリーは暫くの間黙り込んだが、兄弟の手汗でくたびれた綴りに目を落としながら答えた。


「目を通した資料が少なすぎるので即答は致しかねます。ですが、現時点での所感を言わせていただくなら”岐路にある”と考えています。」


「岐路?」


 ドミトリーの思わせぶりな言葉に、セルゲイが眉を顰める。


「”時代の変化に適応出来るか否か”です。」


「出来なければどうなる?」


「国内の発展が加速度的に遅れ、最終的には経済、あるいは政治面での植民地に落ちぶれる可能性があります。」


「...この帝国がか?」


「そのような状況に追い込まれるまで帝政を維持し続けられているかは疑問ですが、仮に帝政を維持し続けていたとしても、もはやこの国は”帝国”と呼ぶのも烏滸がましい何かに成り下がっているでしょう。」


 今にも殺さんばかりに睨み付けるセルゲイを前に、ドミトリーは堂々と言い切った。


「誰にでも容易に扱える武器の登場は、戦場における主役が変わる事を意味します。騎士の様に金も手間もかからず、法術士の様に当人の才能に全面的に依存する事もありません。暴論ですが、数を揃えた分だけ戦力になります。そこら辺から集めた農民に持たせても、歴戦の兵士にとって脅威となるのが銃なのです。」


「それは勿論理解している。だからこそ貴族の横槍の無い皇室の独自戦力として、銃兵隊の編成をしているだろう。これから銃と弾薬の量産環境を整えて拡充していけば、奴らの介入も抑えることが出来る。」


 それは為政者にとって実に甘い劇薬である。だからこそ、ドミトリーは兄弟が毒に溺れる前に冷や水を浴びせかけた。


「...将来、もし手綱が緩めば”自分たちにも対抗するだけの矛がある。今まで偉そうにしていた奴らに仕返しをしてやろう”と暴れ出す可能性があります。その矛先は今まで皇室や統治を担っていた貴族や官吏は勿論、持って生まれた能力によって重用されて来た法術士も含まれるでしょう。人々に力を与えるという事はそういう危険を孕んでいます。」


「...。」


「今ですら国内は平穏とは言い難いのに、皇族が火に油を注ぐような真似をすれば目も当てられません。」


 ヴァシリーが目を見開きセルゲイが呻く。ドミトリーの示した予想を前に、兄弟は抜き身の剣を突き付けられたように反論すら出来なかった。


「ですが、現状の方針は決して間違っているとは思っていません。帝国が集権化を進める為には、皇室は地方の貴族に対して優位な戦力を保持する必要がありますから。」


 笑みと形容するには邪悪過ぎる表情を浮かべたドミトリーを前に、兄弟の額には汗が浮かぶ。


「ただ、現状でその構想は急激に進めてはいけません。絶対に。」


「その...理由は?」


 それまで沈黙していたヴァシリーが口を開くと、ドミトリーは告げた。


「強いて言うなら金も策も物も情報もですが、特に人材が不足しているからですよ。」


 兄弟には思い当たる節があったのか、反駁する気力すら失って俯いてしまった。


 その様子を見たドミトリーは部屋を出てに使用人を呼ぶと、兄弟の分の昼食を持ってくるように指示を出すと、萎れた2人に申し入れた。


「取り敢えずお二人とも食事をとってからにしませんか?息抜き無しでは心も体もすぐに病みます。一旦休憩を入れてはどうでしょうか。」


「あぁ...そうだな。」


 短いやり取りだったにも関わらず、セルゲイの顔に浮かんだ疲労の色は濃い。それをほぼ見ているだけだったヴァシリーに至っては、蝋人形の様に表情が消えていた。

 流石に飛ばし過ぎたかとドミトリーは少しばかり後悔したが、既に組織が動き始めている以上、今以外にその機会はない。


...辛いだろうが耐えてもらうしかない。危機意識を持って貰わなければ銃は余りにも危険すぎる。


 それこそ子供に持たせても十分な威力を持っているのだ。銃が国内に広がって内乱にでも使われれば目も当てられない事態となる。種族や階級の隙間に楔を入れる真似は絶対に許されないのだ。

 





 結局、通夜の様な沈黙は、食事が運ばれるまで続いた。


 食事中も相変わらず死刑囚の様な雰囲気を纏うヴァシリーを置いて、ドミトリーとセルゲイは議論を再開した。

 

「そう言えば、以前から不思議に思っていたのですが、お二人には貴族出身の取り巻きが居ませんね。何故です?」


 とにもかくにも胃にもたれる会話が交わされる中、ネガティブ思考の自家中毒状態にあるヴァシリーは、昏い目ですっかり冷めてしまったシチューの具を銀製の匙で転がす。


 実の所、非常におおらかであるとは言っても皇族としての常識をしっかりとわきまえたヴァシリーにとって、兄とその後輩とのやり取りは以前から気になるモノがあった。


 気の置けない間柄に羨望の念が無いと言えば嘘になるが、それに加わるには彼の常識はいささか強固に過ぎたのである。


 まつわりつく違和感とそれとない焦燥感に包まれながらも、それをおくびにも出さずに仕事に励んでいたヴァシリーだったが、彼のささやかな平穏はつい先ほど盛大に消し飛ばされた。


 彼が未だかつて経験した事の無い、強烈な諫言によって。


 兄に倣って砕けたやり取りを心掛け、最近やっとその言い回しを身に付けた矢先の出来事である。



 非礼どころの話では無かったが、ドミトリーが本気で諫めようとしている事は疑いようが無く、彼の懸念もヴァシリーにも良く理解出来た。


 相手はこちらの味方になる事を既に宣言している上、しっかりと贈り物を用意する周到ぶりである。


 綴りには放置すれば帝国を蝕むであろう懸念材料が列挙されており、その皇位の継承者であるヴァシリーにとって看過できる物が何一つ無い。

 そして、その対策案も心が折れそうになるほどインパクトが強いのを除けば、非常に参考になる良く練られたものだった。


 やっと追いついたと思ったら、また大きく突き放された彼の心は荒れていた。


 今更遠ざけるつもりは毛頭無かったが、とにもかくにも耳が痛く、心が痛く、目が沁みる。

 元から不本意であったこともあり、もはや彼にとっては皇太子の地位は押し付けられた貧乏籤でしかなかった。


「...昔から居なかった訳じゃない。俺が廃嫡されて以降、親しくしていた者は自領に引き籠っちまったんだ。」


「その理由は?」


「詳しくは知らん。あいつらにも矜持があるからな。不名誉な事は言いたがらないのさ。」


 セルゲイはもっしもっしと白パンを頬張りながら投げやりにに答える。


「俺が知る限りは”領地の経営が苦しくなったから”が大半だったな。あと、普通に病気になった奴もいた筈だ。」


 セルゲイが薄れた記憶をたどって引き出した情報は、どちらにしても碌なものでは無かった。


「彼らの証言の真偽はさておくとして、やはり今の状態は変です。何らかのやり取りが陛下、あるいは宰相閣下と彼らの両親との間に交わされた可能性がありますね。」


「だとすれば、そこら辺の事情も確認する必要があるな...」


 ドミトリーの言葉に、セルゲイが険しい表情で呟く。


「ですね。それと、可能な限り彼らも仲間に引き入れましょう。帝国に身分の違いがある以上、平民だけで運用すると必ず歪みが出ます。彼らを加えれば色々と見えてくることもある筈ですから。」


「...貴族を引き入れるのか?」


「少なくとも人材が育つまでは彼らの助力は必須です。それに、将来殿下が嫁探しに困る事になりますよ?」


「...え?」


 疲れた脳味噌でやり取りを見守っていたヴァシリーは、思いの外俗な話題で現実に引き戻された。


「お二人は皇族ですから、将来迎えるであろう奥方には相応の格が求められます。それを無視すれば貴族たちが離反するのに十分な理由になりますよ。孤立は”する”のではなく”させる”ものです。思う所は多々あるでしょうが、そう言う点から見ても彼らの切り捨てに、自分は断固反対です。」


「あぁ...そう言う事ね...」


 緊張感が薄れて交わす言葉や雰囲気もいつものそれに近いが、内容はあくまで真面目である。


 もっとも、例えどのようなノリであったとしても、ヴァシリーにとって不本意な現実を突きつける事に変わりは無いが。


「...面倒でも、不満の矛先は集中させるべきではありません。分散させねば全てを面倒を背負い込む羽目になります。」


 既に不可能であると頭で理解していても、ヴァシリーには今でも兄が皇位を継いだ方が良いと言う確信がある。

 皇太子と言う地位ですら持て余し気味の彼にとって、皇帝と言う地位は余りにも重く、耐えきる自信など持てるはずが無かった。

 

 特に銃兵隊に関わってからは平民出ながら兄に並ぶ優秀な部下が現れたが、その能力を目の当たりにして以降、ただでさえ自分の能力が統治者に向かない事を引け目に感じていた彼は、密かに歩く自己嫌悪と化していたのである。


 皇族としての意地で今まで顔にも態度にも出していなかったが、ドミトリーの提出した想定を前にしては流石に抑えきることが出来ず、ハッキリと周囲の空気を淀ませる程に昏いオーラを撒き散らしていた。

 

「...それに”幸せくろう”は”皆にお裾分けみちづれ”にしないと不公平ですからね。仲間外れとくべつあつかいは良くないでしょう?」


「確かにそうだ。こちらだけが苦労いいおもいするのは皇室の一員として受け入れがたいモノがある。実に由々しき問題だな。」


 鬱屈したままやり取りを見守っていたヴァシリーだったが、皮肉を込めたドミトリーとセルゲイの言い回しが彼の心を激しく揺さぶる。


 自分がどうしたいのか、彼は結論を出すことが出来ずにいた。


 



 食事が下げられてからもドミトリーとセルゲイの議論は続いたが、相変わらずヴァシリーはその様子を見守るだけだった。


「ですが、それらの政策をするにしても官吏が足りません。それらを把握しきれなければ政策の効果は薄く、むしろ予算の浪費です」


「だが、地方から官吏をかき集めれば地方が確実に崩壊する。俺が言うのもなんだが、皇室領の運営には余裕が無いんだ。」


 日が傾き、途中でアデリーナ達の終業報告と燭台の火入れを挟んだが、セルゲイとドミトリーの議論は落ち着くどころか、互いの国状分析を交えた更に本格的なものになっていた。


 既に議論から取り残されて久しいヴァシリーだったが、耳に入ってくる情報は彼の逡巡の余地を容赦なく削り取ってゆく。


...潮時なのかな。


 だが、心の内を悟られるのを恥じた結果、ヴァシリーの問いかけは話の腰を折る抽象的な物になってしまった。


「...ドミトリー、君はこの国がどうあるべきだと思う?」


 今まで沈黙を守ってきた声の主に、セルゲイも視線を向ける。


「どう...とは?」


 手元に再びメモの山を作りかけていたドミトリーが聞き返すと、ヴァシリーは改めて問いかけた。


「今後の参考に、君にとっての理想の国が知りたい。」


 ドミトリーは勝手に拝借していた羽ペンを置くと、穏やかな表情でヴァシリーを見据えて答えた。


「理想の国...強いて言うなら安心して骨を埋められる国でしょうか。」


 見事に兄弟の意表を突く答えに、ヴァシリーもセルゲイも反応が遅れる。


「えっと...骨?」


「ここで自分が死んでも、残した家族や友人達が辛い目に遭わずに幸せに暮らすことが出来る。最期にそう確信して死にたいんです。」


 困惑する兄弟に苦笑いを浮かべてドミトリーは続けた。


「誰かや何かの未来を憂いながら死ぬ。自分は、これほど無念な事は無いと考えています。未練はともかく、何かを心配しながら死ぬのは勘弁願いたいので。どうせ死ぬなら悔いなく死にたいなぁ、と。」


「いや、お前が死ぬの当分先だろ!」


 セルゲイの突っ込みに、ドミトリーは人の悪い笑みで切り返す。


「それは分かりませんよ?銃兵隊は軍事組織ですから殺しもすれば殺されもするんです。当然、恨まれもするでしょう。」


「そこはこれからの頑張り次第と言う訳だね。」


 ヴァシリーの言葉に、ドミトリーもセルゲイもは深く頷いた。少なくとも、この場に居る3人は好き好んで憎まれ役を演じる人間ではなかった。


「でも、ドミトリーの気持ちは凄く解る。確かに自分が死んだ後の事とか考えると...。」


「どんなに本人が苦悩し、努力をしても、後世の歴史家はその結果しか見ませんからね。しかも死人相手ですから遠慮なんてしませんし。下手を風説が広まれば墓を荒らされるかもしれません。」


 ちなみに、西大陸では土葬が大半で、逆に東大陸では火葬が一般的である。


「確かに...そう考えるとキツイな。」


 不敬罪が存在するため大っぴらに口にする事は無いものの、帝国の人々の間には歴代の皇帝の評価がしっかりと存在する。

 現時点でのワーストはぶっちぎりで両大陸戦役時の皇帝だが、これから先で失敗した場合に、ヴァシリーがその下を行く評価を手にするとも限らないのだ。


 もし罵声を浴びずとも、自分の墓にゴミを見るような目を向けられるのは想像でも気分の良い物ではない。


「少なくとも皇室は民の味方である。銃兵隊は人々にそう印象付けるような運用をする必要があります。厭らしいですが此方としては望む所です。恩の押し売りで世相を引っ掻き回せますからね。」


 手元のメモを纏めながら、ドミトリーは自分に言い聞かせるように呟く。


「お前、そのうち面の皮だけでお面が作れそうだな。」


 セルゲイの冗談にドミトリーが「出来上がったらさぞ顔に馴染むでしょうね。」と切り返すと、執務室は笑い声で満たされた。





 揺らめく燭台を見つめながら、ヴァシリーが呟く。


「でも、僕に出来るのかな...。」


「そりゃ出来るさ。」


 セルゲイが間髪入れずに答えたが、それでもヴァシリーには自信が持てなかった。


「父さん達ですら出来なかったのに?」


 ヴァシリーには改革当時の記憶は無いが、その残り香だけは幸福な日々の記憶に染み付いている。


「陛下の志した改革を失敗として片付けるには情報が不足しています。宰相閣下に尋ねてからでも遅くは無いかと。」


 ドミトリーは改革を志した人々の足跡を見つけては、当時の様子に思いを馳せて来た。


「失敗したからこそ改善すべき点が見えてくる。俺たちが改革を成し遂げる事が...親孝行ってもんだろう。」


 そして、セルゲイは自身の廃嫡が改革の幕を引いたことをその身で理解していた。


「ヴァーシャ、後はお前の覚悟次第だ。」


「僕の?」


 兄はそれに対して静かに頷くと、弟をしっかりと見据えて告げた。


「俺は当の昔に済ませたし、ドミトリーも覚悟を決めてくれた。だから、後はもうお前だけだ。」


「僕だけ...。」


 穏やかだが何処か悲し気な声色で、セルゲイは語り掛けた。


「向きじゃないお前に押し付ける形になったのは済まないと思っている。だけどな、廃嫡された俺にはお前を支える事しか出来ないんだよ。将来はお前がこの国を纏め上げると決まってしまったからな。」


 聞き手も話し手も俯き、その表情は曇る。


「正直、俺もこの国がドミトリーが想定するような酷い状況になるとは”思いたくない”が、可能性を否定できない以上は対策をする必要がある。同じ危機感を共有したお前が覚悟を決めてくれなければ、対策が片手落ちになって取り返しのつかない事態になりかねない。」


「...それは解ってるよ。でも、本当に良いの?兄さんだって皇帝になるために頑張ってたのに。」


 渋るヴァシリーに、セルゲイが人の悪い笑みで諭す。


「どこぞの誰かに”邪魔だから外された”それはまぁ良いさ。皇室側が掘った墓穴だった以上、どうしようもない流れだったからな。だが、俺の後釜が御しやすいなどと考えてる奴らを憤死させる位はしてやりたい。俺は奴らの前で”どうやら貴様らの目は節穴で、その脳味噌は空っぽだったようだな!”って高笑するのが夢なんだ。」


「でも...僕が兄さんを臣下扱いするのは幾らなんでも...」


 なおも渋るヴァシリーだが、もはやその理由は自身の意思や願望による抵抗では無く、セルゲイに対する遠慮によるものだった。

 彼にとって、敬愛する兄を臣下として扱う事は、心理的に大きな抵抗があった。


 ヴァシリーの煮え切らない様子を見たセルゲイは、ドミトリーに確認する。


「別に身分が変わっても、俺たちの志は同じである以上、問題ないだろう?」


「無論。そこは主従とは別です。強いて言うならば、身分も階級も超えた”同志”でしょうか。」


 その答えに満足したのか、セルゲイは視線をヴァシリーに戻して畳みかけた。


「心配するな。立ち向かうお前を俺たちが全力で支える。皆で”悔いなく死ねる国”を作ろう。だから、お前もしっかりと自分の足で立つんだ。」


「わかったよ...わかったけど...少し待って。今だけでいいから...」


 結局その後、承諾する旨の嗚咽交じりの湿っぽい返事が帰って来るまで、暫しの時間を要した。






「...ドミトリー・パブロヴィチ・サムソノフ!」


「はっ!」


 長机が取り払われて広々とした執務室で跪くドミトリーは、名を呼ばれて改めてこうべを下げる。


「余は汝を銃兵隊の事務長に任じる。参議として部隊運営に際し、その手腕を遺憾なく振るえ!」 


「謹んで拝命致します。不肖の身ながら、全力を尽くす所存!」


 ドミトリーが下がると、上座から漏れる息が荒くなり、声が震え出す。


「セルゲイ・アレクサンドロヴィチ!」


「はっ!」


 跪く廃嫡の皇子が朗々たる声を響かせた。


「卿には銃兵隊の副隊長として...平時における運用を任せる。一朝、事あらば余の傍にて輔弼せよ...!」


「御意!」


 不敵に笑って顔を上げた皇子の目に映ったのは、泣き腫らしながらも必死に笑顔を浮かべようとする、年若き皇太子の酷く乱れた顔だった。


「安んじて、お任せあれ。」


 その言葉が最後の一押しとなり、ヴァシリーは泣き崩れる。


 だが、セルゲイはヴァシリーが落ち着くまでの間、ずっと跪いたまま動く事は無かった。


 ”全力で支えてやる。だから、お前はお前の足でしっかり立て”


 行動による意思表示によって、セルゲイは弟の背を押したのである。


 だが、ヴァシリーの嗚咽が響く中、跪くセルゲイの足元に輝くものに気付いた時、ドミトリーは自身の足元にもそれが現れる事を防ぐことは出来なかった。


...本当に卑怯な兄弟だ。


 季節の変わり目を示す雨に、ドミトリーは心の中でそう毒づくので精いっぱいだった。





 後世の歴史家から”帝国中興の祖にして近代帝国の原点にして頂点”と称えられ、革命とも評される激動の時代を切り拓いた兄弟だが、その思想の源泉には謎が多い。


 治世初期における記録の散逸が著しく、僅かながらに残された記録からは改革の極めて早い段階で改革の骨子が固まっていたことが判明しているものの、それ以上は推論の域に留まる。


 曰く、彼らの家庭教師であった人物が遺した構想である。


 曰く、兄弟の治世に先立って企図された改革の遺産である。 


 曰く、皇室が密かに授かった神託に基づくものである。


 諸説の真贋については現在に至るも判然としていないが、例えどのような真実が隠されていたとしても、兄弟が打ち立てた功績は帝国に生きる人々にとって決して揺るがぬ事に変わりはない。


 結果として兄弟が推し進めた変革は少なからざる流血を伴ったが、後に同様の変革が西大陸で起きた際の事例に比べれば、極めてスムーズで穏やかなモノであったからである。



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