第40話
今回は短め、次回から話が進める予定です。
7/28整合性を調整しました。 ストーリーに変更は有りません。
「そろそろ予定の時間ですが、それらしい人はいますか?」
「んー。」
ドミトリーの引っ越しと前後して銃兵隊は間借りしていた軍司令部から場所を移し、それに合わせてセルゲイも王宮から駐屯地へとその居を移していた。
帝都では何かとトラブルに遭遇してきたにも拘らず、駐屯地への道中では特にトラブルも無く済んだことで内心は複雑だったが、かと言って何かがあっても困るものである。
駐屯地からすぐ近くという事もあり、いわく付きでもあの家を選んで良かったとドミトリーが自身の選択に安堵したのは言うまでも無い。
移転後の雑務に追われて家の方は寝床と風呂以外は手付かずのままだが、保存のきくホールチーズや酒を買い溜める等、優雅な休日の為に着々と計画は進行中である。
実際のところやっている内容自体は大したことが無いのだが、とにかく書類の作成や関係各所とのやり取りに手間がかかるため、休憩時以外はずっと座り仕事が続いている。
慣れはしたものの一から手書きで書簡を用意するのは非効率極まり無い。運動不足も相まってドミトリーは特に理由も無く眉を寄せる事が多くなった。それでも新人が入ってくればもっと時間を割く余裕も出てくだろうと夢想しつつ、日々の仕事に精を出している。
やりたい事は山積みなのだが、やらなければならない事がそれ以上に山積みなために悩ましいことこの上ない。
つい最近発散したばかりであるにも関わらず、ストレスの蓄積速度に発散が追い付けなくなりつつある今日この頃。
待ちに待ったベルジン商会からの訪問者を迎えると言う理由で、ドミトリーとセルゲイは事務室から逃げ出した。
「それっぽいのは居るけど...なんか足取りが怪しいなぁ。」
「ここまで来ればすぐ分かりそうなものですが。」
そして今、2人はわざわざ物見櫓によじ登って通りを観察している。
この世界でも馬鹿と煙は何とやらと言うが、その汚名を被っても良いと思えるほどには見晴らしと風が心地よい。
「あ、でもこっちに近づいてるな。やっぱりあの3人じゃないか?」
ドミトリーが引っ越して数日後、ベルジン商会からの人員の移籍を知らせる手紙が届いた。
別段急かした訳では無かったが、当初の予定よりも少し早めに目途が立った旨の内容と、移籍する人員の細かな個人情報が添えられていた。
いずれも西部から中部出身の若者で、人間種少年少女が2人と北部や東部ではあまり見かけない南方系牛種の少年が1人の合計3名である。
レオニート会頭は既に西部との関係性を隠す気が無いらしく、ドミトリーは内心で焚き付け過ぎたかと後悔もしたが、かと言って現状では遠慮をしていられるような余裕は銃兵隊側には無い。
有難く受け入れる事は当然として、ドミトリーは一刻も早く頼れる人材に育てるために自作の教材まで用意する程度には彼らを待ちわびていた。
「いやぁ、それにしても引っ越しして正解だった!」
「先輩はわざわざこっちに住む必要あったんですか?」
春の風が吹き抜ける櫓でセルゲイが声を張り上げ、ドミトリーが胡散臭さを隠そうともせずに問いかける。
ドミトリーが自宅に掛かり切りになっていた隙を突いて、セルゲイは生活の拠点を王宮から銃兵隊の駐屯地へと移していた。
別に引っ越した訳では無いのだが、あれこれ理由を付けては駐屯地に泊まり続け、最近では自室の改築まで始める始末である。
「あんな場所居られるか。」
全方位に爽快感を撒き散らす笑顔から一転して死んだ魚のような目になり、王宮を牢獄呼ばわりするセルゲイに、ドミトリーも苦笑を隠せずに茶化す。
「それ、ヴァシリー殿下の前で言ってみたらどうです?」
「...別に言っても良いぞ。いや、もう少し待ってからの方が効果が大きそうだな...うん、今は遠慮しておくよ。」
あからさまな地雷を踏むほどセルゲイは鈍くない。
何だかんだで弟の事を気遣っている兄だが、やはりその振舞いは弟にとって当てつけのように思えるらしく、仕事中も含めて交わす言葉にキツい毒が混じる事は少なくない。
兄も弟も外的要因によって、取り返しのつかないレベルで人生を引っ掻き回されているが、少なくとも心労が嵩んでいるのは弟の方だった。
王宮から逃亡して駐屯地の一角に確保したセルゲイのマイスペースを、あれこれ理由を付けて荒らしに行くのがここ最近のヴァシリーの日課となっている。
片付ける使用人達にとってはとばっちりでしかないが、従卒曰く今に始まった事ではないらしい。
昔から何かと我慢する気質のヴァシリーだが、諸々の事情によって日頃の鬱憤をぶつけられる数少ない相手がセルゲイしかいなかった。廃嫡されたセルゲイもその環境を身を以て理解しているため、期を見ては積極的にヴァシリーのガス抜き用の玩具になっている。
諸々の事情を含め、彼らの口から直接説明された時の居心地の悪さが無ければ、ただの良い話だったのだが。
以来、やや直接的ではあるが、良好な関係を維持するには欠かせないレクリエーションだとドミトリーは割り切って対応している。どちらにせよ、事情を知らないものが見れば肝を冷やす光景である事に変わりはないのだ。
「お、来たな。」
駐屯地に設けられた見張り櫓から通りを眺めていたセルゲイが、旅装束に身を包んだ3人の若者を見つけて声を上げる。
「時間通り、実に素晴らしい。期待できますね。」
「だな、先に戻ってるぞ。後は任せた。」
駐屯地から遠く離れた宰相府に建つ時計台に目を凝らしながらドミトリーが答えると、セルゲイは満足そうに頷いて不自由な指先で器用に梯子を下りて行った。
「よし、出迎えに行くか。」
駐屯地の門前でまごつく人影を後目に、ドミトリーも新人を迎えるべく櫓から降りた。
「本当にここなのか?こんな大きな施設なのに衛兵すらいないじゃないか。」
「いい、ここで合ってるはずよ。会頭も言っていたじゃない。」
「でも、もし違ったらどうする?」
亜人種1人と人間種2人が、石造の門前で不安そうに行った来たりを繰り返しながら言葉を交わす。
西部の事務所でレオニート会頭に直接呼びつけられ、新たな出世かと期待に胸を膨らませて帝都入りした結果がこれである。期待どころか不安しかないのも無理は無かった。
「ベルジン商会からの人かな?」
掛けられた声に三人がびくりと肩を揺らす。
「は、はい。そうです。銃兵隊に志願に来ました。」
「見たところ、遠いところから来たみたいだね。遠路はるばるよく来た。」
人のよさそうな笑みを浮かべて現れた竜種の青年に、3人は本能的に身構える。
「取って食いやしないよ。銃兵隊へようこそ。ついておいで。」
知らない人について言ってはいけない。後にその警句を知った3人は、自分たちが身近にそれを教えてくれる人物に恵まれなかった事を神に嘆くこととなる。
適当に施設の紹介をしながら事前に用意しておいた部屋を3人に宛がい、一通り敷地内のの案内を終えたドミトリーは、最後にヴァシリー達の詰める執務室へと足を向けた。
「ほら、自己紹介。どうぞ。」
「本日よりこちらでお世話になる事になりました、アデリーナ・イパチェフスカヤです。」
「同じく、フェリクス・アールステット。」
「ぼっ...ボリス・クラスノフです。」
男2名、女1名の総勢3名がベルジン商会から”志願”してきた。
形式上はそうなっているが、実態はベルジン商会から人員を無心しただけである。特に条件は設けていなかったが、会頭は気を使った人選をしてくれたらしい。
”身寄り無しの孤児で西部出身”
気の使われ方が実に不本意ではあったが、既得権益層の影響を気にせずに済むのは有難い。紐付きでは躊躇うような重要な仕事もあるため、孤児かつ身寄り無しである事は当人たちの幸福を抜きにしても非常に有益だった。
勿論、ドミトリー達が彼らにも幸が訪れる事を願っている事に嘘偽りなど無い。彼らがそれを幸と受け止めるかは別だが。
以前出した布告によって各地の同族兵団から志願者が帝都へと向かいつつあり、銃兵隊の基幹となる部隊の編成計画が急ピッチで進められている中での合流となる。
彼らの合流はまさに最高のタイミングであり、銃兵隊におけるレオニートの評価は天井知らずであった。
「「いやぁ!待ってたよ(ぞ)!」」
終わりの見えない書類仕事に嫌気がさしていた皇子達の熱烈な歓迎に、ガチガチに固まりながら自己紹介をするという微笑ましい光景を眺めつつ、ドミトリーは確保した人員を観察する。
ドミトリーは人員の無心をした後もレオニート会頭と手紙のやり取りを続けており、銃兵隊の規模や補給などについて議論を交わしていた。
銃は弓矢と同じく補給の欠かせない武器であり、鍛えれば何とかなるこれまでの部隊の運営とは全く異なる。
セルゲイもヴァシリーも今まで経験した事の無い新たな分野であるため、関心と意欲に釣り合わない進歩にへこたれつつも試行錯誤を繰り返していた。
勿論、一朝一夕に出来上がる様なものではないため、既にドミトリーは開き直っていたが。
「仕事に関する詳しい話はドミトリーから聞いてくれ。君たちの直属の上司になるからね。」
ホクホク笑顔のヴァシリーに促され、3人は誰よりも人手を渇望していた人物に委ねられた。
「さて、ここに居るという事は読み書き計算は出来るという事で良いかな?」
セルゲイ達の執務室の隣の部屋に3人を案内したドミトリーは、早速新人たちに問いかけた。
「「「はい。」」」
「なら話が早い。これに目を通してくれ。」
要らぬ節介ではないかと悩んだが、後で後悔したくないと考えたドミトリーはレジュメを用意していた。羊皮紙である事を勘案しても意味不明な程に分厚い分厚いそれを、3人分。六法”全書”並みの厚さはレジュメと呼ぶには凶悪に過ぎる。読み手にも、書き手にも。
途中から面倒になって本気で転写機や印刷機が欲しくなり、誘惑に耐え切れず密かに自宅で図を引いたりしながら用意した渾身の作品である。
「ぅわ...」
3人組で紅一点のキーサがその分厚さに怯むが、ドミトリーは全く気にせずに説明を続ける。
「基本的な事は全てこれに書いてある。取り敢えず3日、これを読んだ後で出た疑問点を潰すために質問会をする。その他の分からない事はその都度聞いてくれ。この部屋は好きに使っていい。」
「これ、全部をですか?」
「そうだ。今頭に入れておけば後々楽になるからな。」
一番小柄なフェリックスの質問に、ドミトリーは笑みを崩さずに答えた。
「まずはやってみてくれ。少し量は多いが中身は難しくは無いから。」
「これが少し...ですか...」
唯一の亜人種であるボリスが青ざめながら呟くが、やはりドミトリーは気にも留めずに説明を続ける。
「別に完璧にとは言ってない。競争でもないから3人で相談しながら頭に入れてくれれば良い。あと、これが参考資料だ。繰り返すが、全てを把握するのではなく大雑把に全体像を掴むのが目標だ。」
ドミトリーがそう言って止めとばかりに付属資料を手渡すと、3人は課題を前にして悲壮感を垂れ流しながら頷く。
「一応、食事の時間になったら呼びに来る。その他諸々の連絡は夕食の席でするからそのつもりで。」
だが悲しいかな、その程度の悲壮感などドミトリーの心には何の痛痒も齎す事は無く、連絡を終えるとドミトリーは部屋を出て行った。
「あぁ...可愛そうに。」
言葉とは裏腹に心底楽しそうなセルゲイが、手元のチャイに酒を垂らしながらドミトリーを見る。
「本気でそう思ってるなら直接言ってあげればよいでしょう。必要だと判断したからこその処置ですから同情されては少し困りますが。」
「あの資料が実に良くできてることは認めるけどな。3日で理解できると思うか?」
「理解したら逃げそうだけどね...この国から。」
ちなみに、ドミトリーの作ったレジュメ(厚)に目を通して一番ダメージを受けたのはヴァシリーだった。
彼も帝国の不都合な現実に薄々気づいてはいたが、実際に統計資料として纏めると想像以上の破壊力だったらしい。
レジュメを食い入るように読み漁った後、何かにすがるように元の資料を引っ張り出して見比べる姿はあまりに痛々しく、ただ解り易く資料を纏めただけにも拘らず、作者は罪悪感を覚えた程であった。
「逃げるのはただの馬鹿、逃げないのは酔狂な馬鹿ってね。」
「なら、飛び込んだ我々は底なしの馬鹿でしょう。」
酒臭いマグを口元に運びながらセルゲイが茶化すが、ヴァシリーは苦笑いと言うにはあまりに渋い表情を浮かべても否定はしない。
何だかんだで何とかなってしまっている事実が、人々の目から悪化を続ける情勢を絶妙に覆い隠してしまっている。
ごく一部の人々を除き、帝国に暮らす人々の大多数が危機感すら抱いていないのが帝国の現状であった。
「でもさ、もし彼らに逃げられたら馬鹿とか関係なしに辛いよね。間違いなく僕は心が折れるよ。」
そして、別に申し合せた訳では無かったが、本能的に場の空気を努めて明るくしていたセルゲイとドミトリーの努力は、ヴァシリーのネガティブ極まりない一言で台無しとなった。
その晩、ヴァシリーが王宮へと帰りセルゲイが自室で酔いつぶれたのを見計らい、ドミトリーは新人たちの様子を見に向かった。
申し訳程度の休憩以外は殆ど籠り切りで資料と格闘しているらしく、いくら発破を掛けたとは言っても流石に頑張り過ぎな気がしないでもない。
幾ら住み込みとは言ってもしっかり食べてしっかり寝て、その上で仕事に邁進してもらわねば外聞も悪いのだ。
「ん?まだ起きてるのか。」
静かなのでてっきり寝たかと思いきや、ドミトリーが部屋を訪れると3人は相変わらず食い入るように資料を読み込んでいた。
「何だお前たち、もう寝る時間だぞ。」
声を掛けるまで来訪者に気付かない程集中していた3人は、跳ねるように立ち上がっに来訪者に向き直った。
「すみません!何か御用でしょうか!」
当然と言うべきか、掛けた言葉はよく聞き取れなかったらしい。
「もう寝る時間だ。寝ないと明日に響くぞ。」
「ですが、三日で完了しなければ...!」
「目指して頑張れとは言ったが無理をしてまでとは言っていない。全体を大雑把に把握するだけにそんなに必死になってどうするんだ。」
理不尽上司ここに極まれり、暗にもっと要領よくやれとのお達しである。舌の根の乾かぬ内と言うほどでは無いにせよ、委細は朝令暮改がスタンダードの男を前にして新人たちは再び翻弄される。
酷使のあまり充血した眼でキーサが反駁するが、ドミトリーはあっさりと気負う新人達をバッサリと切り捨てた。
「心配するな。読み書きが出来て、下らない小銭を稼ぐ真似をしなければ摘み出したりしないよ。」
羊たちが見たら震え上がる程の羊皮紙の束が散乱し、テーブルには干上がったインク壺がいくつも転がる。片隅に置かれた食べかけのパンと冷めたスープを見たドミトリーは、新人達に文字通りの暮改を通告した。
「うん、やっぱり自習はキツそうだな。明日から俺が直接教える。取り敢えず残した飯を食って寝ろ。」
自分が出来るから、自分がそうだからと言う理由が前世以上に通用しないこの世界。種族も違えば寿命も違う上、術式と言う生前には無いファクターが存在するため、ドミトリーは未だに馴染んでいるようで馴染みきれていない。 根本的なところで前世での経験やら何やらが足を引っ張っていると言える。
「銃兵隊に入って体を壊しましたなんて格好がつかないからな。」
気遣っているようでいて実際はそうでもないドミトリーだが、それでも雇用保険や労働基準法の存在しない帝国では破格の対応になってしまう。
「...はい。ありがとうございます。」
何故か自身の言動が一々誤った印象と共に解釈される事に戸惑う事は多いが、戸惑い自体は相手側も同じである。
”何でそういう発想が出来るんだ”
在学中にランナルやベックマンにさんざん言われた事ではあるが、既に言われ慣れた感は否めない。かと言って変える気も無いが。
「ほら、まだ荷解きも終わっていないだろう。行った行った!」
もし自分に弟や妹が居ればこのような感じだろうかと感慨に片足を突っ込みながら、ドミトリーは後輩たちを部屋から追い立てた。
「これが...銃?ですか?」
「かなり短い槍ですね。」
「思ったより小さい...。」
翌朝、靄がかかる銃兵隊駐屯地で、ドミトリーは新人3人に対して銃の扱いとその運用についての授業を行っていた。
「今までの武器と違うのは一目でわかるだろう。使い方は簡単、弾を込めて狙って、打つ。それだけけだ。」
「でも、意外と難しそうですね。」
銃兵隊が編成の為にかき集めた銃は銃床の形状が悪く、肩への収まりが悪い。おまけに銃自体の大きさや重さもバラバラなため、使用する火薬の量や弾の大きさもそれに倣った状態にある。
管理運用する側から見れば実に面倒極まりないのだが、火薬さえあればそこら辺の手頃な石ころや食器の破片も弾として利用できるため、辛うじて運用の許容範囲にとどまっていた。
「問題は練習するにも金が要る点だな。銃もそうだが火薬は安くない。」
「この粉がですか?」
「その粉の入った樽一つで馬一頭、手元の銃一丁で馬車が買える値段だ。」
「へ!?」
「そんなにするんですか!?」
「あぁ。だが、こいつには相応の価値がある。これから俺たちでその価値を更に高めていく。」
朝日が一同を照らし出し、手にした銃が眩く輝く。
「これが、帝国の新しい時代を切り開く鍵だ。」
「新しい...時代...」
誰ともなしに呟いた言葉が、武器庫前に響いた。
「まぁ、俺らが直接ブン回す訳じゃないから安心しろ。俺らがやるのは戦う奴らを支える仕事だ。」
部屋に戻り、3人に混じって暖炉の前でスープを啜りながらドミトリーが言う。
「はぁ。」
3人の中で唯一の亜人種であるクラスノフが、分かったのか分かっていないのかよく分からない返事を返す。
「部隊組織の編成とかは俺とセルゲイ殿下でやる。お前たちには部隊の庶務、兵士の給料や補給品の集計等の一般事務をやって貰う。」
「それに必要なのがアレですか?」
「まだそこまで読み進めていないようだが、なんでわざわざ大金出して新しい部隊をでっち上げるのか、その理由がアレに書いてある。」
ドミトリーはそう言うとスープの器を置いて立ち上がり、テーブルの上に開いたまま置かれた綴りを手に取って何枚かめくる。
「ほら、ここだ。”既存の軍制とは一線を画する部隊を編成し、匪賊討伐を通して国内治安の向上に当たる”。」
「国内...治安ですか?」
アールステットが聞き返す。
「町を歩いても財布をすられないとか、行商が無事に目的地に着けるとかな。何かをするときにどの位用心するかの尺度だ。これが悪いと賊が押し寄せたり、最悪の場合強盗に遭って殺されたりする。」
「...。」
3人とも幼少期に家族を失った経験を持っている。ドミトリーは彼らの心に刻まれた傷に触れる気は無かったが、銃兵隊の編成目的にも関わるために敢えて告げた。
「皆の境遇はレオニート会頭から聞いている。思い出すのも不愉快だろうが、お前たちと同じような目に遭う者を出さない国が殿下達の目標であり、銃兵隊の存在意義でもある。仇為す賊と魔獣を容赦なく打ち払い、人々を守るお仕事だ。簡単ではないがな。」
「私たちがその組織を支える...。」
アデリーナが高揚感を露わに呟き、フェリクスもボリスも無言ながら顔を紅潮させる。
「そうだ。だが、裏方は正面切って戦うよりも過酷な戦場だぞ。目立たないし、仕事に終わりは無い。」
ドミトリーは手元の綴りを閉じると一同を見回す。
全員が目を逸らさずにしっかりと此方を見据え、ドミトリーは表情を崩して頷いた。
「よし、全員席に着け。授業を始めよう。」
「おはよー。あれ、ドミトリーは?」
「授業中。」
「授業中?」
いつも通り執務室に現れたヴァシリーは、いつもならばまだ寝ている筈の兄が机に向かい、いつもならばもう働いている部下の姿が見えない事を訝しんだ。
「新人教育。自習じゃ駄目だって言って朝からみっちり詰め込んでるよ。」
「へぇ...彼、意外とそう言うの得意なのかな。」
人前で上がる事無く他人の前で声を張り上げて何かを主張する点では、ドミトリーが慣れたものである。実際に失効こそしていたが、熊崎は教員免許を持っていた。
だが、ドミトリーの前世がそういう物であることを兄弟は知らない。
「あいつ、何だかんだで多芸だからなぁ。文句は糞多いけど投げ出したことも無いし。」
「あのさ...3年で手放せるの?」
「...手放せるように頑張るさ。そういう契約だし。」
顔を背けたセルゲイの言葉に、ヴァシリーは肩をすくめて溜息を吐き出した。
「そう言えば、何でもう起きてるの?いつもならまだ寝てるのに。」
「これさ、あいつにもらったんだ。」
そう言ってセルゲイが懐から取り出したのはみっしりと構築式が書かれた板切れだった。
「何それ。」
「”泉の守り人”。これを枕の下に敷いとくとな、”物凄く”目が覚めるんだよ。」
「へぇ、良いもの手に入れたんだね。」
「いや、起きれるには起きれるんだけど...まぁ、何だ。末長くは使いたくない。」
具体的に言うと起床時間になると猛烈な尿意に駆られる。本人に問い詰めた訳では無いので詳細は不明だが、日の出と共に残量関係なしに猛烈に催すのがこの札に施された付呪の効果らしい。
日頃から大酒を飲むためにセルゲイの朝は遅い。基本的に呑兵衛ばかりの帝国では別に珍しくも無いのだが、部下を抱える身として流石に体面が悪いと感じたセルゲイはドミトリーに相談したのである。
「丁度良いもの有りますよ。ランナル発案でベックマンと自分が作った自信作です。」
「助かる!流石にもう少し早く起きないと皇族としての印象が悪いからな!」
翌朝、全力でトイレに駆け込む羽目になったセルゲイは恨み言を言うべくドミトリーを探したのだが、早朝にもかかわらず新人相手に熱心に説明をしている姿を見てその気勢を削がれたのである。
「感想の一つでも言ってやろうと思ったんだが、真面目に仕事してるから止めたよ。」
「らしくないね。そんなにエグかったの?」
「...あぁ。」
良くも悪くも自由奔放な兄を掣肘する道具に興味を惹かれたヴァシリーだったが、それだけ強烈な代物であろう事をすぐに感じ取り、自らに累が及ぶ前に兄に告げた。
「いたずらに使ったら駄目だからね。」
「あ!」
釘を刺されたセルゲイが悔しそうに顔を歪めたが、そんな危険な代物をおいそれと使われてもヴァシリーが困る。
「ドミトリーの授業が終わるまでの間は兄さんに頑張ってもらうから、悪戯なんてしてる暇はないからね。」
「はいはい。」
仕事量こそ授業終了後はその限りではないが、その後すぐに本格的な編成と練成が始まる以上、穏やかな日々との未練は断ち切らなければならない。
普段のやり取りでは表に出していないが、ヴァシリーは内心で既に決意を固めていた。
本来ならば皇帝の藩塀たる貴族も既に信用できる状態ではない。皇太子であるにも拘らず貴族出身の取り巻きが一切居ない時点でおかしいのだ。
今も何処かから仄暗い謀略の糸を巡らせている事は、若輩者であるヴァシリーでも容易に理解できた。
幸いな事に廃嫡された兄はそれらをすべて見抜き、頼りになる人物と共に支えてくれている。
何もしなければ帝国は崩れ、仮に何かをしても失敗する可能性は高い。
「どうせやらなければ絶対後悔するんだ。やるだけやって見せる。”先生”との約束もあるからね。ドミトリー達を巻き込んで悪いけど、エルマコフ家を継ぐ者として...ただでは終われない。」
「...あぁ。もし潰えたなら、その時は冥府で詫びの一つも入れるさ。」
ヴァシリーの静かな決意表明に、セルゲイは口角を上げて答える。
日頃の明朗な仮面を脱いだ兄弟の目には、ドミトリーがまだ目にした事の無い強い覚悟が宿っていた。
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