第39話
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「旦那、悪い事ぁ言いません。この家はやめておいた方が良い。」
「なんでだ?」
帝都で不動産業を営むチェルホフ商会の案内人であるアンサルディは本気で客の心配をしていた。
西大陸から流れて来た先祖が多大な苦労の末に帝国に馴染んだと両親や祖父母から聞かされて育ってきた彼は、両親や祖父母程では無いにしてもそれなりの苦労と紆余曲折を経てここに立っている。
彼自身は決して優秀ではなかったものの、元来の明るさと人柄を認められて商会の下働きの仕事を手に入れることが出来た訳だが、ここ最近の商会の雰囲気は彼にとって必ずしも良い物ではない。
不器用で嘘を吐くのが下手糞の彼にとって、色々とギリギリの契約で客を騙す様な真似は精神的に大きな負担だった。
「...担当から何も聞いていないので?」
「俺は良い物件があるとしか聞いていない。条件にも合うし、見た感じ問題なさそうだが。」
ドミトリーはそう言いながら目の前の家を見上げる。
2人の目の前にある家は作りこそ古いものの、見たところ痛みも少なくよく手入れされている。雪解けが進んだせいで周囲は泥だらけだが、表通りに面した店舗部分は小奇麗さを保っていた。
建物の大きさの割に小さな窓からは、前の住人の家具がそのまま残されている事が窺える。ついこの間まで人が住んでいたような様子だが、通りを行く人々に尋ねても此処にあった工房については口を噤んでしまい、ドミトリーは目ぼしい情報は得られていなかった。
この世界の家と言うのは作るのに非常に手間がかかる。当然ながら規格化され加工が容易な建材など存在しない上、運搬できる状態まで整えられた材料を建設現場で加工しながら作るために建築にかかるコストや時間は膨大なものとなる。
こと帝国においては、いい加減にな家では冬を越せないためにその造りはかなりしっかりとしたものである必要があり、それが更なる費用の高騰につながっていた。
要約すると、帝都で売れない家には買い手の寄り付かないだけの理由があるのだ。
「旦那、今からでも遅くないからこの家はやめた方が良い。縁起が悪すぎるよ。アンタみたいな人が住むべき家じゃない。」
そもそも、家の建設は地域コミュニティの住人が総出で行うものであり、町では資産を持つ者が長年の準備を経て初めて手を付けられる人生における一大事業である。
当然ながら良くも悪くも家の価値は高く、現金収入の良い人々の集中する帝都では狭い借部屋でも引く手数多となる。まともな家屋に空きが無いのが普通であった。
だからこそ、新たな持ち主も付かずに商会の手に入ったこの家をアンサルディは本能的に忌み、事情を知ってからは猶更警戒していた。
「だから何が問題なんだ?良い家じゃないか。」
店舗部分の陰からは工房らしき設備も見えており、今後の生活と金稼ぎの拠点とするには文句なしの充実具合である。
中々どうしてチェルホフ商会は良い仕事をするではないかとホクホク顔で家を見て回るドミトリーに、アンサルディが言いにくそうに真実を告げた。
「ここは...前の家主一家が流行り病で全滅してる。」
「家具も揃ってるみたいだし...は?」
ドミトリーは言葉を失い、両者の周囲には通りの喧騒だけがやけに遠く響いた。
「あの女狐!いい加減な仕事しやがって!」
ドミトリーから事情を聴かされたアンサルディが同僚の杜撰な仕事に激して吠える。通りを行く人々が鬱陶しそうな目線を投げかけるも、二人ともそれを気にする事無く話を続けた。
商会の最大の武器は信用である。たとえ無理難題をほざく輩でも客として認めた以上はその要求に応えなければならない。だが、品位を損なうような取引は商会に出入りする客層を変化させ、結果として得意先を失う事にも繋がる。行政側と懇意にする業者のする事とは考えにくい。
「体良く面倒な物件を押し付けられたか。どうしたものかな。」
激する人間種の隣で、竜種は被っていた毛皮の帽子を取るとバリバリと頭を掻いた。
現段階では正式に契約が成立していないために問題は無いのだが、それでも事故物件を押し付けられたというだけで気分の良い物ではない。
「旦那、本当に済まない。普通なら絶対こんな事は...」
「普段ねぇ。会頭が居ないだけでこの様じゃそれも怪しいぞ。」
メモを受け取った後、セルゲイとの雑談もそこそこに住宅斡旋をしている商会へと足を運んだドミトリーだったが、会頭が不在であったために従業員から住宅の紹介を受けた。
狐種の若い女性が紹介した物件が丁度良くドミトリーの示した条件を満たしており、トントン拍子に契約を済ませてここまで来たが、蓋を開ければ事故物件だった。
新生活の門出が事故物件からと言うのは確かに縁起が悪い。別にそれで構わないという前提ならばともかく、事前情報なしのドッキリにしてはキツ過ぎるものがある。
事前に住宅事情を調べて適当な下宿でも借りれれば御の字と考えていたドミトリーだったが、いざ訪ねたところ良い物件があると案内された結果がこの様だった。
事情をカミングアウトされるまでは本気で気に入っていただけに、余計に残念さが際立つ。
家に対してそこまで拘りが有る訳では無いが、事の運びは不愉快どころの話ではない。どうにかするにもドミトリーが使える休日には限りがあるため、むやみに時間を浪費するのは避けなければならない。
どうしたものかと頭の中で考えを練りつつ、ドミトリーはチェルホフ商会の案内人に声を掛ける。
「アンサルディ、折角来たんだ。取り敢えず中を見てからにしよう。鍵を開けてくれるか?」
自分たちの管理する物件にも拘らず、アンサルディが露骨に怯えたせいで周囲からの目線はより一層不躾さを増した。
「旦那ぁ...勘弁してくれ...。」
迷信深い男の泣きそうな声が響く中、ドミトリーは建物の中を見て歩く。
店舗部分から奥に進むと比較的大きな炉が設けられた工房が有り、その脇に住宅部分へと繋がる廊下があった。工房は雑然と物が置かれて狭苦しい印象だが、しっかりと動線は確保されて移動に困る訳でも無い。
工房の主は几帳面だったらしく壁には使い込まれた手製らしき工具が並べて吊るされ、大きな金床はしっかりと磨き上げられた状態で残されていた。
弟子が居たのだろうか、工房内に並んで置かれた椅子が切なさを醸す。
そのまま廊下を通り過ぎて厚手の扉を押し開けると主を失った家が見知らぬ来客者を苛烈に迎え入れ、ドミトリーは反射的にハンカチで口元を覆った。
「これは...なんとも...。」
秋口からずっと放置されていたらしく全てがうっすらと埃を被っていたが、残された生活感は強烈だった。
テーブルの上に残された食器や洗い場に残された服。中身の残った酒瓶に手つかずのまま残されて痛み切った食料など、全てが家の時間の流れが止まった状態のままだった。病で全滅した事もあって、家主の埋葬後は手付かずのまま放置されたらしい。
強烈な臭気に眉を寄せながらアンサルディに口を覆う様に指示し、ドミトリーは室内の様子を見て回る。
「流石に寝台は片付けられてるか。」
一階と二階にそれぞれ寝室があり、床に残った跡を見るに前の住人は二世帯だったらしい。価値の有りそうな物にすら手を付けづに放置されているあたり、よほどに伝染されるのを恐れた事が伺える。
だが、術式を使用する器具は持ち主の死去に伴って機能を停止しており、家自体にも術式を掛けた気配は無かった。
「安心しろ、呪いの類は無い。」
「本当ですかい?」
ドミトリーの言葉にアンサルディが縋る様な目で問い返す。
家にはそのまま残された生鮮食品の腐臭以外に危険なものは無く、幽霊に関しては万が一出てきたら神殿にでも依頼をすれば事足りる範疇にある。
その後しばらく探索を続けて遺品の紋章印から最後の家主がドワーフの一家である事を突き止め、ドミトリーは一旦家を後にすることにした。
状態こそ最悪だったが家の造り自体は気に入ったため、ドミトリーは歩きながら出来るだけ値切るための口実を真剣に練り始める。
「商会に戻って再交渉だ。この家に変更はないが価格を値切らせてもらう。片付けの費用も。」
「本気ですかい!?」
名目上とはいえ、階級上は上司に当たる人物から紹介された業者の仕事とは思えないほどに杜撰である。立場や階級など関係なしに商会としてどうなのか疑問を抱かずにはいられない。
...手違いと言う線もあるか。だとしてもお粗末だが。
「安心しろ。成約記念のお礼参りだ。ご祝儀を強請る位はしても罰は当たらないだろう。」
何より、この家に住むには相応の準備が必要になる。必要な出費の一部は出して貰う位でなければ事故物件に住むには割に合わないのだ。
「いらっしゃいませ。おや、貴方は...。」
「こんにちは。先ほどこちらでお世話になった者ですが、担当して下さった狐種の女性を呼んでいただけますか?出来れば貴殿も同席していただけると助かります。」
所要を済ませて帰社したチェルホフ商会第12代目会頭、ヤーコフ・チェルホフは、自分の与り知らぬところで面倒事が発生していたことを今更ながらに気付いた。
何故か息の詰まる様な威圧感を撒き散らす亜人種の青年を前にして、帰社時に報告のあった宰相府からの住宅斡旋の依頼の件が頭をよぎる。
「...承知しました。ですが少しばかり準備の時間を頂いても宜しいですかな?奥に部屋が有りますのでそちらにてお待ち頂けると嬉しいのですが。」
「構いませんよ。そこでお待ちしましょう。」
そう言ってドミトリーは怯える受付嬢の案内に従って奥へと入っていった。
「アンサルディ、リエラを呼べ。それと何があったかを説明しろ。」
「はい、旦那様。」
大体の事情をその目で見たであろう下働きの男に説明するように指示を出すと、ヤーコフは眉間に指を添えて深い溜息を吐き出した。
「事情はこちらで確認させていただきました。今回の不手際、本当に申し訳ありません。」
「大分お疲れのようですから手短に済ませましょうか。こちらもあまり時間を掛けたくないので。」
実に居心地の悪い空気が応接室に充満する中、ドミトリーとヤーコフとの示談が始まった。
「...今回紹介した物件は、本来ならば然るべき処置をしてからでなければ売り物に出来ない物です。私としては既に結んである仮契約を解除した上で、別の物件をご用意させていただきたく思っているのですが、いかがでしょうか。」
ヤーコフはそう言いながら手元に別な物件の情報が記された羊皮紙を差し出す。だが、ドミトリーはそれを受け取らずにヤーコフに告げる。
「自分としてはこの物件はこちらが当初示した条件に合致するもので、このまま正式に契約を結んでも構わないと考えています。このまま正契約に格上げし、すぐに使用できる状態にしていただければこちらとしては全く問題ありません。」
「ですが、こちらはあの物件の事情を事前に説明しておりませんでした。仮契約とはいえ、一旦破棄せねば我々はあなたを騙したことになってしまいます。」
一筋縄ではいなかない客と上司のやり取りをアンサルディが見守る。あの家はいわく付きでなければ普通に優良物件でしかない。気にさえしなければ全く問題ないだけに、客はあくまで条件の向上にこだわるつもりらしい。
「なるほど、信用ですか。」
「...それもありますが、我々としてはいい加減な契約を結ぶ訳には行かないのです。どうかご理解いただきたい。」
ヤーコフはそう言うと机に置かれたチャイを口に運んだ。流石に海千山千の商会の会頭である。面の皮は千枚張りとはいかないまでもなかなかのものがある。
契約は仮でも神に誓うため、その解消は双方の同意が無ければ不可能である。契約の監督者が監督者であるためにいい加減な事は出来ない。
ひとたび神に誓ってしまうと約束を違えば神自身による物理的な制裁が伴う。解除するにしても契約の解除を強要すれば場合によっては強烈な制裁が科されるのがこの国、この世界の契約である。
だが、仮契約を既に結んでいる以上は交渉の主導権はドミトリーにあるのだ。
「契約に関しては了解しました。では、改めてあの家で契約を結んでいただけますか。」
「しかし、問題のある物件をお客様に押し付ける訳には...」
ヤーコフが苦しそうに顔をしかめる。彼とてあの家の本当の価値を理解している筈である。いつ彼の手元に飛び込んだのかは定かではないが、いつまでも寝かせておける様な物件では無い事は明らかであった。
冬の間に取れなかった然るべき処置を済ませたならば、それは良い値段で売れるのだ。このような雑な形で手放したい物件ではないだろう。
話の流れにそれとなく違和感を感じながらもドミトリーはそう推察し、情報の提供を促した。
「取り敢えずは事情を聞かせてはいただけませんか?その位は聞いておきたいので。」
ドミトリーが案内されて気に入った物件、正式な名称をハージェス邸と言う。
幾度となく火災や大雪による被害に見舞われながらも歴代家主の不断の努力によって維持され、帝都の中でも屈指の古さを持つ物件である。もっとも、建物自体は始まりの王国の植民都市であった頃からずっと存在してきたが度重なる改築と再建によって基礎と地下部分以外は全く新しいモノに作り替わっているために資料としての価値はそこまで高くはない。
中心街から離れた場所に位置するためにそこまで一般には知られていないが、同等の歴史を持つ建築物は王宮と宰相府の建物と帝都を囲む城壁位のものである。
元々は住宅ではなく別の施設だったらしいが、一体何の目的の施設なのかは失伝してしまい現在ではわからず仕舞いとなっている。
最後のハージェスの住人はドワーフの一家で、家長夫妻は両大陸戦役にも参加した経験を持つ歴戦の探検者だった。
夫妻は希少な魔獣の素材を使った付呪装備の製作を得意とし、単なる鍛冶の枠に収まらない作品を数多く世に送り出して財を築いたのである。
息子への代替わりを目前に控えての一家全滅に、彼らの作品を愛用していた近隣の住人は心から嘆いた。だが、それ以上に彼らが恐れたのは一家を襲った病魔が周囲へと災いを齎す事であった。
遺体こそすぐに埋葬されたが、商取引の鈍る帝国の長い冬は、家が買い手が怖気づく腫物と化すまでに十分すぎる時間だった。周囲の住民の恐怖は拭われるどころかより強固なものとなってしまい、売りに出せない代物になってしまったのである。
いっそのこと解体するのも手だが、景気の悪い現状では解体しても費用を回収できる見込みも無く、完全に不良債権と化していた。
「宰相府との契約に基づき家の管理は我々の手に委ねられましたが、誰も関わりたがらなかったためにずっと手付かずのままだったのです。秋の終わりでは作業をするには時期が悪すぎました。」
ヤーコフは語尾を濁しながら部屋の隅で青ざめた狐種の女性に目を向ける。
「確かに当商会で管理はしていましたし、手放す事も念頭に置いた扱いはしていました。ですが、まさかそのまま事情も説明せずに売りつけるとは...!」
「彼女はそのあたりの事情を知っていたのですか?」
ドミトリーの問いにヤーコフは顔をしかめて首を振る。
「彼女は本来低所得者層向けの集合住宅の契約の担当です。官吏殿との契約任せるには経験が不足しています。もっとしっかりと面倒を見ていれば良かったのですが、本当にご迷惑をおかけしてしまい申し訳ありません。」
結果として事態は両者の予想の”斜め下”の展開となった訳だが、知らないよりは知った方がまだ納得も理解も出来るものである。
「彼女にも何か事情が?」
「...彼女は知人の娘でして、”事故”で遺された彼女を引き取って面倒を見ていたのです。読み書き計算が出来るので色々と助かっていたのですが、まさかこのような事になるとは...」
聞けば気が滅入る話ばかりだが、かと言って聞かない訳にも行かない。ベルジン商会もそうだったが、帝国西部は中々の荒れ具合の様でその余波は帝国各地を蝕んでいた。交易を主とする商人たちだけではなく、都市に根を張る商人もまた悩みは尽きないらしい。
先行きに不安が広がる中で従業員もどこか気も漫ろになった結果、ドミトリーがトラブルに見舞われたのである。
...責めている訳では無いのだが、どうにもやりづらいな。何故だ?
しばしの沈黙が部屋に満ち、カップの音が微かに響く。既に屋根の雪は消え去って軒を叩く水音は聞こえなくなって久しい。照り付ける春の日差しが通りを行く人々を焼いている。
国内情勢は決して良くはないがそれでも帝都には活気に満ちており、外の喧騒がどこか遠く感じられる室内でドミトリーが切り出す。
「別に責めてはいませんよ。仮契約を結んだ時点で彼女は物件の”いわく”を知らなかったのでしょう?」
「えぇ。ですが...」
ドミトリーの態度が原因と言えば原因なのだが、会頭の思い込みに気付いたドミトリーは訂正する。
「事情はともかく、私はあの物件を気に入っています。ただ、あのままでは住むには些か手間がかかるので、その手伝い位はお願いできればと思ってここに来たのです。」
「え...本気ですか?」
その後、それまでの彼の商人としての仮面が急速に崩れるまでにそう時間はかからなかった。
こと契約に関しては破棄や踏み倒しと言った要素が無く、気を付けるべき点が契約内容にとどまるために彼の様な人物でもなんとかやっていけるのだろうか。詮無き事とは理解しても、露骨に安堵する会頭を見ながらドミトリーも弛緩した空気に溜息を吐く。
「しかし、本当に宜しいのですか?あの物件は今までも家主の不幸が続いていますので...」
「そんな問題物件をいつまでも抱える方が問題では?」
「否定はしません。管理費用は我々の負担ですので。ですが、決してお勧めできる物件ではないのも事実。私自身はそこまで詳しくはありませんが、近隣の長命種にはあの物件が呪われているという者もいます。」
商会としての信用云々の前に自身が元から善人であるためか、会頭は奇特な客を誠心誠意諫めてくるる。生前の国籍故かそれとなく罪悪感を抱きつつも、ドミトリーはその意思を曲げることなく告げた。
「別に構いませんよ。むしろ、是非ともお願いします。あの家で正式に契約したい。」
結局、ヤーコフはドミトリーの熱意に負けた。
商会の代表として考えれば、管理費用が嵩む不良資産を手放すことが出来たため決して悪くない取引だったのだが、途中から一方的な交渉を強いられた彼の心には敗北感が滲む。
部下の把握と指導に抜けのあった己の失態が原因とは言え、若者にやり込められた事実はヤーコフの心に敗北感を植え付けるには十分すぎるものがあった。彼も長命種故に見かけ通りの年齢ではないのは知っているが、決して気分の良い物ではない。
「...アンサルディ、明後日には引き渡せるよう準備を整えておけ。あとの処理は私自身がする。」
「へい。」
アンサルディが頷いて階下へと降りて行くのを見送りながら、ヤーコフは嵐のごとく現れ、嵐の如く去っていった客から思考を引き剥がす。
準備自体は無茶の類ではあるが不可能ではない。元々墓穴を掘ったのは商会側であり、結果として損どころか得をしたのも商会側である。
徹頭徹尾奇特な客として振舞う事で契約破棄の代償から庇われてしまっては、彼に打つ手など残ってはいなかった。
実際は買い被りにもほどがあるのだが、ヤーコフは敢えてその可能性を排して己を戒める。
「してやられた...いや、していただいたと言うべきか。」
意図せず思考が口から漏れ出た事に気づき、ヤーコフは苦笑いを浮かべて廊下を歩く。
ヤーコフは己が商売の才能に乏しい事を知っていたが、それでも親から相続した商会を絶やすことなく堅実に守り続けてきた自負があった。
得意先の宰相府からの客を相手にした失態で気が動転していたのは仕方ないにしても、その後に交渉を立て直すことが出来ないまま一方的に押し切られ、あまつさえ借りまで作られてしまったのでは、商人の名折れであると言える。
もっとも、折られるほど立派な名を成したのは自分ではないという自覚があるのが、ヤーコフが今まで堅実に商会を守って来れた所以でもあったが。
傍らに目をやると居心地の悪そうに身動ぎする友人の娘が目に入る。
「リエラ、サムソノフ殿に救われたな。」
「...はい。」
「契約の神は見逃さないし、法の神は冥界の神と違って仕事は”まめ”だ。待ち合わせに遅れて腹を下すのとは訳が違う。例え仮契約でもな。お前はサムソノフ殿に守って頂いたのだ。」
法を定めたのは神々だが、具体的な運用はミゼリアとアルストライアが担う。彼女達は良くも悪くも勤勉な上に神々の下す罰は色々と容赦が無いため、契約に際しては細心の注意を必要とする事は商取引に携わる者全てが一番初めに学ぶ内容である。
ヤーコフ自身、新人教育に手を抜いていたつもりは毛頭なかったが、現実はそれが不十分であったことを示していた。
リエラと言う名の狐種の娘は商会が扱う契約手続きの一部を任されていたが、まだまだ経験不足であったことは言うまでも無い。たまたま客が奇特だったために結果として大事に至らなかったが、商会を周囲からの信用を失う危機にさらした以上、ヤーコフは彼女に”けじめ”を付けさせて商会の引き締めを図らざるを得なかった。
「受けた恩をどのように返すのかはお前次第だが、知らぬ振りは許されん。考えが纏まったら私の元に来るように。良いな?」
「...はい。」
彼女の色々と思い詰めた様子を見て、ヤーコフはまた深い溜息を吐き出した。
「そんなに怯える必要はないぞ。口を清潔な布で覆って手袋をはめる。怪我をしないように作業をして終わったら丁寧に体を洗えば大体何とかなる。」
「本当にそれだけで大丈夫なので?」
ハージェス邸の前には荷馬車が何台か停まり、急遽集められた商会の作業員たちがドミトリーの立会いの下で家の片づけに従事している。
「あぁ。もしそれで駄目なら何やってもダメだろうな。」
うがいと手洗いは、幾度も疫病に見舞われた人々がせめて自分たちでどうにかできないかと絞って手にした知恵である。
残念な事にこの国にはそこまで徹底した習慣は無いが、それでもしないよりは遥かにマシと言える。
身体強化の術式は傷の治癒には役立つが、病の治癒にはあまり寄与するものではない。場合によってはむしろ体力を失って症状を重篤にさせてしまうため、治療には専門の術式を扱う者の知恵と技術が必要になる。
とは言っても、系統だった医療技術の存在しないこの世界では患えば種族・能力問わず基本的に神頼みであり、人々が病を心の底から恐れる点は生前の世界と変わらないが。
「...ほかにも方法が有るので?」
「多分あるだろう。だが俺の専門じゃない。」
ドミトリーに医療の心得は無い。生前は家業の関係で理工系の分野と親しむ機会は多かったが、何故か彼自身は根っからの文系だった。数学も決して得意と言う訳では無く、兵役中の弾道計算に人知れず泣かされた思い出がある。
脳裏に残るのは経済と司法の知識が主であり、取り立ててすぐに役立つようなものが手元にないため、半ば趣味であった歴史の知識が現状ではドミトリーの最大の武器である。
それすらも薄れているため、腕っぷしと口先しか頼れるものが無いのが悩みの種ではあるが。
「そうですかい...」
「何だ。身内に病人でもいるのか?」
片付けの合間にかわす言葉には、以前とは異なって気楽さが有る。ドミトリーのアドバイスに従ったアンサルディも、露骨に怯える事無く手際よく作業を進めていた。
契約交渉の翌日、ドミトリーはヤーコフと正式に契約を交わしてハージェス邸の主となった。ドミトリー自身は借家契約でも十分過ぎたのだが、商会側の好意と謝罪も兼ねて物件の格安での譲渡と言う形となったのである。
瓢箪から駒の様な話ではあるが、瓢箪側が駒を扱いかねていた以上文句を言う者はいなかった。
ドミトリーが想像していたよりも商会の対応は素早く、契約を交わしたその日のうちに片付けの作業が始まったため、ドミトリーは慌てて皇子達に休日の申請をする羽目になった。
「あ、いや...病気と言うほどではないんですがね、あまり丈夫ではないんですわ。」
「そうか。まぁ、身の回りを清潔にしてしっかり食ってしっかり寝て、生水を飲まない限りはそこまで心配いらんだろう。」
少し考えれば健康に好ましい事は色々と出てくるが、目下ドミトリーにとって重要なのは自身の新居の準備であって他人の家族の健康ではない。
アンサルディの身内に悪いとは思いながらも、ドミトリーは話を断ち切って集められた人員に指示を出す。
「その箪笥は二階に持って行ってくれ。廊下に置いておくだけでいいぞ。」
「あいよ!」
双方が口元を布でしっかりと覆っているため、その指示も返事もくぐもったものになってしまっているが、ドミトリーが吹き込んだ病除けの秘策、マスクと手洗いは作業に当たる者たちの士気を少なからず高めた。現在は家の裏庭に急遽設けられたかまどで湯が沸かされ、手伝い人たちが時折顔や手を洗いに訪れている。
基本的に健康そのものであるドミトリーはあまり意識していなかったが、系統だった医療が存在しないこの世界では病、特に感染症に対する恐怖心は極めて高い。
日常生活が文字通りの糞塗れである都市圏では特に感染症の流行に対して脆弱であり、酷い時には井戸水を飲んだだけで死に直結する病を患う事がある。
言うまでも無くこの世界、汚いのである。空気も、水も。それはもう目を覆わんばかりに。
水にしてもたった一回煮沸するだけで違うのだが、衛生観念に対して意識を向ける余裕が無いのがこの世界。寝床を含めおよそ考え着くすべての地形や地域に危険が潜んでいるため、それらの目に見える危機に意識が向きがちであった。
呑兵衛が多いのは生水が危険極まりないからであり、大雑把なのは基本的に酒が入った人間しかいないからである。右を向いても左を向いても酒浸りでは几帳面さの期待のしようもされようもない。
ちなみに、即席かまどのすぐ近くにはドミトリーが用意した”差し入れ”の樽が置かれ、作業に当たる者たちの士気をさらに高めていた。
基本的に娯楽と嗜好品に乏しい帝国では酒が全てを解決する”魔法”である。金貨で暖はとれないし憂さも晴らせないのが帝国人クオリティーなのだ。
何故”金貨を使って”と言う思考まで持って行けないのか、ドミトリーには不思議でならないが。
「この調子なら酒宴は近いぞ。頑張れ。」
総勢20名ほどの人員のうち9名が中年女性で、下手な男よりも恰幅の良い体格に見合った働きぶりを見せている。
時折粗を見せる男性陣に叱咤と言うには過激な言葉を投付け、痒い所に手の届かない苛立ちを盛んに発露させていた。
とかく環境の過酷な帝国では家事全般を取り仕切る女性が弱い筈も無く。殆どの家庭が種族問わず女性が強いのは仕方のない事であるとはパーヴェルの言である。
結婚して家庭を持つと”生木の丸太”を肩に担ぐ程度には逞しくなってしまうのは、賞賛こそすれど断じて嘆き悲しんではならない。自分たちの帰る場所を守るのは他ならぬ彼女達なのだから。
「で、君は何故ここに来たんだ?」
「あの...ご迷惑でしたでしょうか...」
「いや。ただ気になっただけだ。」
そして今、何故か来ていた狐種の女性にドミトリーは頭を悩ませていた。
ドミトリーは彼女に対して思う所は無い訳では無かったが、結果的に新居を格安で入手できた事もあってそこまで非好意的な感情は抱いていなかった。控えめに言ってもあくどい事をした自覚があるため、ドミトリーは彼女を責める気は皆無である。
むしろ隙を見せてくれて有難いくらいではあったが、正直なところ罪悪感剥きだしで手伝いに来られると扱いに困る。
「契約破棄の制裁から守っていただいたので...」
「契約で不利益を被ったのはそちら側だ。制裁から守るも何も、俺は家を格安で手に入れただけだぞ。」
...どう考えても会頭の方が大変だろう。金銭も心労も。
麗らかな春の日差しを浴びてヘタレた狐耳を眺めながら、ドミトリーはこの場に居ない会頭を憐れんだ。
「何かお役に立てないでしょうか。その、何でもしますので。」
「...そのセリフ、相手を見て言わないと取り返しがつかない事になるぞ。」
「あ...ち、違います!そう言うのではなくて!」
他人の事を言えた口ではないが、この狐娘も相当な世間知らずである。
若い男相手に年頃の娘が示す何でもと言う条件に合致する行為などたかが知れている。少なくとも彼女にとっては幸福とは程遠い未来につながる事は想像に難くない。
「勘違いをされては困る。俺は特に何も求めていないし、無理してまで何かをする必要も無い。貴女が罪悪感や恩を抱くべき相手は俺では無く貴女の上司だ。」
前世の故郷は口が裂けても豊かとは言い難いものだっただけに、熊崎はこの手の話を聞かなくて済む社会を目指して邁進した過去がある。
転生しドミトリーと名を改めた今もその意識はしっかりと”魂”に刻み込まれており、帝都の繁華街で”花売り”をしている女性を見るとどうしても機嫌が悪くなってしまう。
頭では社会的に求められる存在であることは理解していても、望んでその職に就いている者がどれだけいるのか考えてしまう職業病の”後遺症”とも言えた。
勿論、お世話にならないとは言わないが。
「えー、リエラさん...だっけ?誠実なのはよく分かったが、ここで不慣れな事をするよりも商会に帰って会頭としっかり話をしてきた方が良いぞ。ここに居てもあまり意味があるとも思えないからな。」
彼女の手先には傷も荒れも無く、少なくとも家事をする者のそれでは無い。会頭も会頭なりに彼女の事を大切にしているのだろう。そこまで推察できれば猶更仕事を頼む気が失せるというものである。
「戻って会頭に伝えてくれ。”過分なる配慮に感謝する。いずれ形あるモノでお返ししたい”とね。」
「”形あるもの”ですか?」
「まぁ、いずれな。」
誠意とは言葉ではなく金額である。チェルホフ商会の求めるものが何かはまだまだ分からないが、商売のタネになりそうなアイディアは少なくない。機会を見てそれらをいくつか提供できればとドミトリーは考えていた。
「旦那ぁ!来てもらえますかい?」
二階の窓からアンサルディがひょっこり顔を出して家主を呼び、リエラを後ろ手にドミトリーは自宅へと入っていった。
残されたリエラはしばらく何かを考えていたが、深々と一礼をして敷地を出ると商会へと帰って行った。
「そう言えば、あの女狐は帰したので?」
「そのまんまだから否定はしないが、女狐は響きが悪いな。でもまぁ、帰した。こういう作業には向いていないみたいだし。」
その晩、庭先で騒々しい酒宴が開かれる中、喧騒から少し離れてドミトリーとアンサルディが言葉を交わしていた。
「...旦那はご存知ではないみたいですがね、契約は本当に命がけなんですわ。特に上級契約を破れば契約を破った側は下手すりゃ死にますから。」
「は?そんなに厳しいのか?」
男衆以上に豪快に酒を煽る女衆を眺めながら、アンサルディが苦笑いを浮かべる。
「反故にした契約内容にもよりますがね。大抵はそれが原因で死ぬような罰ばかりですよ。全く、商会を潰しかけておいて良く平気でいられるもんです。」
この世界、特に帝国における契約は重要度に応じて上級から下級まで3つの等級に分けられる。
下級は一般的な商取引などに用いられる契約で、中級は家などの重要度の高い資産を扱う際に用いられる。古式とも呼ばれる上級契約は契約相手が王侯貴族などの上位者である場合や、特に重要な場合に用いられる神前契約である。
下級と中級は契約の監督はどちらも精霊が担うが、上級だけは契約の神と法の神が共同でその監督を行うため、当然口約束を破って腹を下すのとは別次元の罰が下される事になる。
どのような罰が下されるにしろ、神罰である以上はまず色々と助からない事は言うまでも無い。
古式契約は一度反故にしてしまうと反故にした側は再び契約を結ぶことが出来なくなるため、古式契約を扱えるかどうかが商人、あるいは商会が信用できるかどうかの目安にもなる。
だが、別に古式契約でなくとも約束を破れば物理的に罰が当たるため、とかく制裁が厳しい古式契約は扱いづらさ故に敬遠される傾向にある。
扱えるが日常では殆ど扱わない点は、ペーパードライバーの免許が一番近い。
「帝都で名の知れた商会は全て古式契約を扱えます。扱えないところはまず相手にされません。それだけ契約を扱えるかどうかが大切なんですよ。だから、それを守るために契約内容も特に気を使うんです。」
「なるほど。」
「自分の命もそうですが、契約を雑に扱う商会はいませんからね。旦那はあいつをこき使ってもよかったんですよ。」
「出来ないことさせてもむしろ手間だろうさ。」
すっかり出来上がったアンサルディに、ドミトリーは苦笑いしながらそう答えた。
余談だが、帝国では愛が嵩じて婚約を古式契約で結ぶも不仲になってしまった男女が、お互いに婚約を反故にさせようと醜い我慢比べを繰り広げるという話が伝わっている。
両者はお互いの命を懸けて忍耐の限界を巡って攻防を繰り広げるが、実はそもそも婚約が成立していなかったために無駄な努力であったというオチである。
およそ考え着く限りの見苦しさや不愉快さを伴う男女の駆け引きは、種族問わずに交際と夫婦のあり方を考えさせる素晴らしい内容と言えた。どうしようもなく下品だが。
暮らす者の寿命も能力もバラバラな帝国において、異なる価値観を繋ぐ為の数少ない存在である契約は社会生活で極めて重要な役割を担っている。
それに比肩する存在が酒になってしまうのが帝国らしさと言えばらしさだが、比較的戦乱から遠い帝国では多少の手間やリスクを甘受しても契約を重視する傾向があった。
「ま、西大陸ではとっくの昔に廃れたみたいですがね。」
「...古式契約は始まりの王国が由来じゃないのか?」
この世界で基本的な国家社会を成立させたのは始まりの王国であり、その文化の中心は西大陸にある。
帝国は元々は始まりの王国の植民都市が起源であり、皇室であるエルマコフ家はその総督の一族の直系の子孫にあたる。
両大陸を見ても屈指の歴史を持つエルマコフ家だが、同じく始まりの王国から続く系譜を出自とする各国の王室から良い扱いをされておらず、セルゲイ曰く亜人種を多く抱えている帝国は奴隷上がりの野蛮な国らしい。
だが、お高く留まった西大陸の諸国が相応の文化を持っているかと言えばそういう訳でも無く、度重なる戦乱によってその文化、生活水準は著しく低下している。
実際に両大陸戦役ではその残虐さが際立ち、戦場となった帝国西部は深刻な打撃を受けていた。
地力は文句なしだが生活環境がやたらと過酷なため、大規模な内乱に発展する余地が少ないのも理由だが、始まりの王国と同じく多種族の共存を国是としてきた帝国は、その方針故に分裂や大規模な内乱を今まで経験したことが無い。
最近は徐々に荒れてきてはいるが、それでも文物を失うような戦乱には至っておらず、古くからの伝統や風習は現在も色濃く残っている。
皮肉な事だが、始まりの王国由来の文化を現在最も色濃く残しているのは、その歴史が植民都市から始まった帝国だった。
「戦乱続きで契約なんぞに労力を割けんのでしょう。神聖なる原初に連なるなど聞いて呆れますよ。」
思う所があるのか、アンサルディはそう吐き捨てて荒々しく手にした木製のマグを一気に呷り、新たな酒を求めて酒樽の元へと歩いて行った。
「...契約の破棄が人生に関わるなら、あの反応も当然か。」
それ以上に会頭の人柄がそうさせたのだろうが、アンサルディと言葉を交わした事で、ドミトリーは当初から感じていた違和感をようやく理解することが出来た。
契約と言う行為に対する帝国の人々の意識は、己が想像していたよりも遥かに真摯であり、同時に極めて厳格なのだ。
異なる種族が共存する為に守ってきた知恵を、この先も守っていける社会であればと願わずにはいられない。
「何だ。何だかんだで世の中悪くないじゃないか。」
自然と笑みが浮かび、穏やかな気持ちでドミトリーはマグを傾けた。
社会慣習に戸惑いながらも新居を手に入れ、新生活と将来の基盤を築き始めたドミトリー。だが、程なくして自宅を巡ってもう一波乱を迎える事になるとは、この時はまだ知る由も無かった。
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