第1話 賢しき子供 上
ノルスキア帝国 大陸暦第14紀 26年 春
帝国東部、オルトスラエ地方の高等法術士であるパーヴェル・ミハイロヴィチ・サムソノフは、ごくごく一般的な家系でよくある幸せな悩みに本気で苦慮していた。
悩みの種は彼の息子である。
いたずらも怠けもしない手の掛からない子供だが、最近言動が不審なのだ。
元々、サムソノフの家は貴族ではないものの、古くから優秀な人間を数多く輩出してきた法術士の家系である。その長い歴史の中には才に恵まれないものだけでなく奇人や変人も数多くいたが。
彼自身は国内で数少ない東部出身の高等法術士として、幾度も戦場に赴き戦功を上げている。戦場で付けられた「血濡れのパボ」というあだ名は、彼自身の感想はともかく周囲からの評価として不動のものとなっている。
ノルスキア帝国の典型的かつ模範的な法術士と言える。
だが、そんな彼も家庭に戻れば子育てに悩む一人の父親でしかない。
彼自身は愛する妻との間に授かった3人姉弟の末っ子として生まれた長男を、娘たちと同じように愛している。ところが4歳の誕生日を迎える前あたりから、彼の息子の雰囲気はがらりと変わってしまった。
あれから2年。
何かずっと考え、ぶつぶつとつぶやきながら自宅にある本を読み漁っている。
読み書きの呑み込みが人並み外れて良かったのを喜んだのもつかの間。
覚えたばかりの文字でページが黒くなるほど日記をを書く姿に戸惑いを感じるようになってきた。
パーヴェルはあまりに急に変化した息子との距離を測れなくなってきたのである。
「ジーマには困ったものだ。いったい何を考えているのかまるで解らん。洗礼も控えているのに...」
今日も勤めを終えて家に帰る。
家の庭先でで妻が娘たち娘たちと洗い物を取り込んでいた。
既に子供を3人産んだが、その容姿は結婚当時とあまり変わっていない。
「あら、お帰りなさい。今日はシカ肉のシチューですよ。」
彼を悩ませる息子の名は、ドミトリー・パブロヴィチ・サムソノフという。
ドミトリーはよく夢を見た。
それは見たこともない真黒な髪をした、顔の彫りの浅い人々と関わり合う夢。
夢の中で自分が何かを成し遂げてゆく夢だ。
ともに語らい、惑い、悩み、歩んでゆく物語。それは母が聞かせてくれた寝物語と全く異なるものだったが、ドミトリーには夢の中で出会う人々がなぜかとても懐かしく感じた。
読み書きを教わったとき、ドミトリーは日記をつけることにした。
父親から勧められたのもあったし、ドミトリーとしても夢の記録をつけたいと思ったからだ。
以来、見た夢を思い出したりしながら日記をつけいた。
最近は以前ほどそれらの夢を見なくなってきたが、日記の習慣は続いていて今もこまめに書いている。
夢以外の題材は探せばいくらでも書くことはあった。
夢をあまり見なくなってからは家にある様々な本を読むようになった。
夢の中との違いを比べたりしていて、今も興味は尽きない。
だが、ここ最近急に家族の目が気になってきた。
特に父親の目線がなにか困ったものを見るようなものになっている。何かしらない間にやらかしたのか心配になる。
玄関から両親のやり取りが聞こえてきた。
父親を出迎えないと。
日記を取り上げられないといいなと思いながら、机の中に日記をしまい部屋を出た。
玄関に父がいる。母と話していたがこちらに気づくと微笑み、頭をなでてくれた。
「おかえり、父さん。」
「ただいま、ジーマ。 いい子にしていたようだな。 晩御飯の後に私の部屋においで。」
「うん。わかった。」
「ほら二人とも、シチューが冷めてしまいますよ。」
母がダイニングへ向かう。
奥から一足先に食卓に着いた姉たちの急かす声が聞こえる。晩飯の時間だ。
食後、父の部屋へ向かう。
自分から押しかけて書斎の本を読んだことはあるが、呼ばれたのは初めてである。
ノックをして返答を待つ。
「ジーマか。入りなさい。」
煙草の匂いがする。
机に向かい何かを書いていたようだが、ドミトリーが部屋に入るとそれらを封筒に入れ封をした。
「ジーマ、最近何かあったのかい? 依然と雰囲気が変わったが。」
ドミトリーはすぐに答えられなかった。