第13話
書いていて余計に暑くなりました。でも、北国の夏は大好きです。
1/3誤字修正しました。
「法術学科に入学した諸君はこれから6年間、法術の専門家として帝国を支えていけるだけの知識と技能をその体と脳味噌に叩き込まなければならない。口で言うのは実に容易いが、その道は決して平坦では無い。各々覚悟を持った上で望むように。」
授業初日は簡単な掴みと全身全霊の脅しがこの大学、そして法術学部の伝統である。
ドミトリーはあまり意識していなかったが、基本的な識字率が低いこの国では、大学の入学試験に合格するのだけでも極めて難しい。
自然と入学試験を受けられるのは、子供の読み書き計算の基礎教育に時間と金を注ぐことができる裕福な家庭、あるいは特権階級に限られる。この国の普通を知らない恵まれた子供たちが、ある種の選民思想に近い傲慢さを身に着けてしまうのは仕方のない事なのだ。
故に、大学での教育は基本的に学生たちの増長や根拠のない自信を叩き折り、徹底的に矯正する事から始まる。
当然、堪えられずに逃げ出す者や脱落するものが出てくるのだが、誰でも不名誉な話は吹聴されたくはないものである。ましてある程度の社会的地位を持つ者がそんな不名誉を見逃すはずもない。
ドミトリーはそれらに関しての詳しい話は全くと言っていいほど耳にしなかった。
「庭木の手入れをするような物さ。伸びすぎた鼻は折っておかないと心が腐るだろう?」
ドミトリーとしてはセルゲイの表現には言いたいことは大いにあるのだが、大学側の姿勢は教育する側とされる側との力関係を明確に示している。ともすれば増長しがちな生徒とその親たちから教育内容と教育者達を守るための方策なのだろう。
どれほど技術や文化水準が向上しようとも、たとえ世界を超えたとしてもそこら辺は変わらないものである。今もなお子供可愛さに干渉しようと試みる親は後を絶たない。
幸いにもドミトリーは行使されたことは無かったが、生家の玄関のすぐ脇に鞭が置いてあったのを思い出し、幼いながらにそれの用意された目的を察して思わず身震いしたのは今でもハッキリと覚えている。
残念な事に、この世界には児童虐待という発想は無い。人権も何もそう言った事柄にエネルギーを割けるほど、この世界は優しくないし社会にも余裕が無いのだ。だからこそ、限られたリソースの中で時には痛みを伴ってでも必要な知識を教え育むのがこの世界の良き親と讃えられる。
飴と鞭という言葉はこの世界にもあるが、その意味するところはむしろ泣きっ面に蜂に近い。
「鞭はともかく飴が何の事なのか、大人になってやっと理解できた」とはパーヴェルの言である。
結論から言えば、この厳しい世界で生きるために必要な知識の技能こそが子供に授ける飴なのだ。鞭はあくまでその補助的な道具に過ぎない。
だが、子供にとっては鞭を打たれて辛い飴を無理やり食べさせられる以外に表現のしようがない。愛あればこそだが、される側にとって痛し辛しなこの言葉は語る者を涙させる。
いかなる形態や内容であっても、する側もされる側も大変な労力を求められるのが教育。余裕のないこの世界では、当事者の被るであろう多少の苦痛や不条理は仕方のない事として片づけられてしまう。
「...鞭はやたら身近なくせに飴やご褒美なんぞ貰ったことは無かったから、本当の意味を知るまでは理不尽に感じたものだ。」
暗い顔で幼少期を語る父に心から同情したドミトリーだったが、これから自分が踏み出す世界がその比ではない理不尽に満ちているという事実を嫌でも悟らざるを得ない。
現に、入学する前から理不尽な現実の片鱗を目の当たりにしたドミトリーは、その思いを一層強くするばかりである。
「現在は法術と呼ばれているが、体系的な学問として形になる前は魔術と呼ばれていた。法術、魔術、魔法など様々な呼び名があるが、それらが指し示すものは皆同じだ。」
遂に始まった授業はこの世界に放り込まれたドミトリーにとって、まさに不足していた知識そのものだった。周囲がそんなの知っているとばかりに退屈そうに授業を受ける中、ドミトリーは教授の説明を夢中でノートにみっしり書き込む。紙もペンも貴重品だったが、有難いことに大学からの支給品である。使える物は総動員してドミトリーは勉学に邁進する。
「ごまかしても仕方ないから白状するけど、すごく楽しい。今この瞬間が実に楽しい。楽しすぎて頭がおかしくなりそう。」
入学してから出来た数少ない友人は、そんな彼の様子を見て頭を振るだけである。
大学は法術史、法術工学、付呪学を始めとして、各種の術式関連の授業が目白押しである。
2年次まではそれら専門科目よりも他学部と共通の教養科目が多いが、年次が上がるにつれて授業は専門性を増して行く。今はまだ一年次も始まったばかりだが、叡智に満たされる毎日にドミトリーは大満足だった。
何事も、楽しんで臨めば自然とよく身についてくるのはこの世界も変わらない。
年に2回、夏と冬に長期休暇があることをドミトリーが知ったのは、大学での生活リズムがしっかりと整い、授業中に見える窓の外が新緑に染まる頃だった。
夏の短い北国らしく、早くも夏の気配が感じられる青臭い風が緑豊かな大学を吹き抜ける。最近は朝晩の冷え込みすらも心地よい。帝国は大陸特有の乾いた風のお蔭で不快な蒸し暑さとは無縁である。
敷地内の木々がライムグリーンの生気あふれる葉を揺らし、短くも情熱的な夏がすぐそばまで迫っていることを知らしめる。
いつもの様にドミトリーが友人と寮の食堂で朝食を食べていると、急に入口が騒がしくなり、以前お世話になった寮担当の女性が押し入ってきた。
目的は何らかの告知だろうか。
「夏季休暇までもう一月を切ったわよ! 長期の外泊などの予定があるものはさっさと申し出なさい!」
激情のままに詳しい理由も手順も説明せずに言うことを言って立ち去った女性を、茫然として見送る生徒たちだったが、しばらくすると食堂はいつもの喧騒に再び包まれた。
ドミトリーもあまりもの唐突さに暫し呆気にとられたが、今のところ、少なくともオルストラエに帰る気は無かったために告知があろうと申し出るつもりは無かった。
喧騒が戻って騒がしくなった食堂で隣に座ってパンをかじっていた友人がぼそりと漏らす。
「ヴァシリーサさんも相変わらずだよなぁ。もう一言二言言っておけば後の手間も省けるのにさ。」
ドワーフの少年の言葉に激しく同意するドミトリーだったが、短い期間におぼろげながらに掴んだ彼女の人柄から推察した答えは失礼極まりないものである。
「寮母さんは目先の手間を省く誘惑に勝てないほどに多忙であらせられるのだ。だから要らない手間をこさえていつも不機嫌なんだよ。ベックマン、そこのジャム取ってくれ。」
彼女の多忙の原因は 奔放極まりない青少年の面倒を看ているために精神的にも時間的にも余裕が無いからである。勿論、ドミトリーもその元凶の一人であることは言うまでもない。
ドミトリーはこの夏、学友のベックマンと組んで法術工学のオーケルマン教授と自由工作をする計画を立てていた。面白そうだと言ってセルゲイも計画に加わっており、制作するのは『新時代の乗り心地を提供する夢のような馬車』である。
サスペンションのない馬車は、その乗り心地が致命的に悪い。御者たちは痛む尻と腰に悩まされている。
せめて街道がしっかりと整備されていたり、弾力のあるタイヤが有れば違うのだがゴム自体が極めて高度な科学技術を必要とする代物であり、街道の整備はもはや国家戦略に相当する大事業である。間違っても素人の一夏の自由工作で作り上げられるものでは無いのだ。
目の前の問題に効果的な対策の存在を知識として知っていても、その真似事すら叶わないほどに前世の材料技術レベルが高いのが悔しくてたまらないドミトリーであった。
なので、せめてサスペンション擬きぐらいは作ってこの世界に普及させたいというのが、馬車なしには立ち行かない辺境の地、オルストラエ出身者としての切実な願いだった。
実はドミトリーと同郷であるベックマンも、あの情け容赦のない乗合馬車には苦しめられていた。しかも、あろうことか彼は若くして座っても歩いても痛む体になっていたのである。...何がとは敢えては言わないが。
幸いな事に現在は快方に向かっているが、彼が初めてドミトリーの馬車改良計画を聞かされた時、ベックマンはドミトリーに掴みかかりなぜもっと早く作らなかったのだと慟哭する程度には追いつめられていた。
その様子を『見かねた』セルゲイが調達してくれた塗り薬が無ければ、今頃ドミトリーはベックマンに絞殺されていたかもしれない。
笑い声の中で絞殺されなくて済んだのは幸いである。
ともかく、この夏はドミトリーにとってもベックマンにとっても大学から離れる予定はない。他の生徒たちがどういう風に休暇を過ごすのかは知らないが、田舎者の崇高なる自由工作を必ずや形にするべく、今夜も設計図の書き起こしと検討をするのだから。
ちらりと時間割を見たベックマンが呻く。
「今日は最後に屋外実習かよ。暑くなってきたし勘弁してほしいよな。」
ドミトリーは何も言わず頷いて同意を示した。
その数日後、爽やかな初夏の風がカーテンを揺らす学部長室で、ゴロバノフは生徒たちの夏季休暇の申請書の束にサインをしていた。
法術学部の教員棟の最上階にある学部長室は、いつもであればパイプの煙に満たされている。だが最近の気温の上昇に伴って彼の執務室は新鮮な空気に満たされるようになった。
帝国最北部出身の彼にとって、帝都の夏は暑すぎる。
彼自身が全身全霊を込めて複雑な術式を刻んだ水瓶が氷結寸前の冷水を常に供給してくれるが、長耳族の混血の彼にとってはそれらの力を借りてなお耐え難い。
長きに渡って大学に籍を置き、混血の出自故に苦労しながらも豊かな才能を生かしてその発展に尽力してきた彼だったが、いつまで経っても暑さだけは苦手なままである。
「最後は一年生か」
暫くして、ふとあることに気づいたゴロバノフは席を立ち、確認のために教員控室へと向かった。
「オルストラエの二人組なら、今年は大学に留まって何かを作るとか息巻いていましたよ。オーケルマン教授が面倒を見てるはずです。」
法術史の教授の情報提供で、ドミトリー達の蠢動はすぐに学部最高責任者の知る所となった。
親に似て子も活発なサムソノフ家。姉たちも色々とやっているが、末っ子長男も侮れないと思いながら
オーケルマンに後で学部長室に来るように指示を出した。
一体何をする気なのかは知らないが、確認しておかなければならないのが学部長、もとい責任者の仕事なのだ。
「お呼びとの事でしたが...おやおや、これはまた。」
昼過ぎにオーケルマンが学部長室に出頭した時、ゴロバノフは既に暑さに負けて萎れていた。据わった目がオーケルマンを突き刺す。
「待っていたよ...今日は暑いな、オーケルマン。」
「そのような目で見ないでいただけますか。暑いのが苦手なのは知っておりますから。」
一目見てこれは面倒だと判断したオーケルマンはゴロバノフに気付け代わりの賄賂を贈ることにした。
卓上の水瓶から冷水とグラスを失敬し、後ろ手に持っていたヴォトカで薄めの水割りを作る。生徒からもらった差し入れのオレンジをひと絞りして手渡すと、ゴロバノフは萎れたまま一口飲んで、次の一口で飲み干してしまった。
萎れた男の目に生気が戻ったのを見て、オーケルマンは話を切り出した。
「尻にやさしい馬車?なんだねそれは。」
「何でもオルストラエから帝都への道中に思い立ったそうで。パーヴェル氏のご子息と、彼と同郷のニルソン・ベックマンが企画と設計をして、この夏試作する予定です。」
正直なところオーケルマン自身も馬車の乗り心地は嫌いなのだが、そこまで目の色を変える程の事ではないと考えていた。
そもそも乗る機会が殆ど無い上、改造するにしても馬車は中古でも高価なのだ。
交易商でもない2人がなぜそこまで張り切るのか、オーケルマンには良く分からなかった。
「予算は?」
「セルゲイ殿下が。」
不意に風が止み、午後の厳しい陽ざしだけが突き刺す。
2人の勤め人は言って後悔し、聞いて後悔した。面白いものに首を突っ込まずにはいられないかの御仁ならば当然の事だし、態々それを告げねばならないほどに学部長は察しが悪い男ではない。
「...殿下が怪我をしないようにだけ、それだけは注意してくれ。」
「無論です。」
折角水割りのヴォトカで持ち直した男は、残念ながら持ち直す前よりも余計に萎れてしまった。
彼が皇族の受け入れで日々気を揉んでいることはオーケルマンも知っている。前例がない上に当人が自由奔放を絵に書いた様な人柄のため、周囲の苦労は並大抵ではない。
重くなった空気から逃げ出すように学部長室を出ると、オーケルマンの耳はセミの鳴き声で蓋をされてしまった。
「それにしても今年は暑いな...」
夏季休暇を目前に控えた法術大学は、既に初夏を終えてしまったようである。
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