第11話
諸事情により遅くなってしまいました。
「ジーマも遂にこの家を出るのねぇ。」
出発を翌朝に控えた夕食の席で、マーシャは何度目かわからない呟きを漏らした。
「もう何度目だよ、母さん。」
応えるドミトリーも当初こそ色々と答えていたが、似た様な事を何度も言われたために対応は既に雑である。勿論、聞き流してはいないのだが。
分かっていても言ってしまうが親心、分からずに言ってしまうが子の心。
パーヴェルはそんな二人のやり取りを微笑みを浮かべつつ見守るだけである。言うまでもなく、パーヴェル自身は言葉で言えることは伝え切っていればこその余裕だったが。
既に荷造りも終え、自室の片付けも済んでいる。明日出発すれば当分帰ってくる予定はない。この家に再び帰ってこられるのはいつになるのだろうか。ここぞとばかりに蕪だらけの食卓でそんな事を考えながら、ドミトリーはパンを齧った。
寂しさと高揚感の入り混じった何とも言えない興奮が静かに、だが確実にドミトリーの心を焦がす。
「張り切り過ぎて逆に心配ねぇ。住み慣れた家が恋しくて泣いても知らないわよ?」
「まさか! さすがに寂しいって感じるかもしれないけど、泣かないよ。」
マーシャのお言葉は出だしが同じでも後に続く言葉は毎回異なる。それでいて毎回鋭いために適当に流せないのがこれまた困る。母は強しと言うが、正直なところ相手の心を読んでいるのではないかと思ってしまうドミトリーだった。
「ごちそうさまでした。」
蕪だらけの母の味を噛みしめて、ドミトリーは自室へと戻った。明日、朝一番に出発するのだ。早く寝るに越したことは無い。残念ながら既に片付けを終えた自室は思いの外広く、高揚感と違和感で寝付きは悪いが、それでもベッドに入るだけで十分な休息になる。
明日からは自分で分析し、判断して行動しなければならない。
前世以上にこの世界は命の価値が等価ではない。特権階級が司法と政治を握る以上、彼らとの付き合い方には細心の注意を払う必要がある。せめて切り捨てられる側ではなく切り捨てる側に立たねば。
場合によってはこの国を離れる覚悟も必要になるかもしれない。
悲観的に想定し楽観的に歩を進めよう。
将来と立ち回りに思いを巡らせながら、夜は更けていった。
翌朝、パーヴェルは目の下にクマを作っている息子を見てため息ついた。
「ジーマ。何故、寝なかった?」
「...興奮して寝付けなかったんだよ。」
「あらあら、立派なクマだこと。やっぱり心配ねぇ。本当に大丈夫?」
三者三様の物言いだが、どうあがいても二対一。勝ち目などない。自業自得なので反論できないドミトリーは、根拠のない自信と虚勢でもって家庭内の最高権力者を宥めるしかないのだ。
「本当に大丈夫だよ。 じゃ、行ってきます。」
ドミトリーはそう言いながら玄関を出た。
「いってらっしゃい。体に気を付けてね。あなた、子供たちの事お願いしますよ。」
「無論だ。今回も早ければ半月で帰ってくる。家は任せたぞ。」
結局、あれやこれやとボロを出してしまい最後の最後までドミトリーは母に世話を焼かれつつ、生まれ育った家を後にしたのだった。
早朝にオルストラエを出発し、昼過ぎから乗合馬車に乗って帝都へと向かう。既に一度行って帰った道故に新鮮さは薄れるはずだが、前回寄らなかった町や村を見る事が出来たドミトリーには相変わらず新鮮なものだった。
もっとも、町はともかく村々は決して活気があるとはいえず、殆どが働き盛りの男がいないためにやけに寂れた印象しか感じなかった。この間布告された新しい兵役はドミトリーが思った以上に人々に負担を強いているように見える。
新鮮ではあったが決して見ていて楽しいものでは無い。
「父さん、偉い人たちは気付いているのかな。」
敢えて何をとは言わずにドミトリーはパーヴェルに問いかける。
「どうだろうな。気付いて無視しているか、気付いていないか。どちらにしても直接自分の目で見てはいないのは確かだ。」
残念ながら、雲の上からの見晴しは良くないようである。
前回は気付かなかったこの国の一面が見えてきたドミトリーは、生前さんざん手を焼いた北の大国を連想せずにはいられなかった。これでもし革命が起きたらこの国の上流層はまず碌な目に遭わないだろう。
その時は人々からは自分もその上流層に見られるであろうことは間違いない。
この国を支える農村は長期に渡る負担に耐えられるほど強くはない。これでもし飢饉でもあれば困窮した人々の怒りは何処へ向くのか。
折角の新生活だが、祖国の足元は脆弱であるという事実にドミトリーは憂いを抱かずにはいられない。このままの状態では遠からず人々の不満を煽る輩が現れるだろう。
そうならないうちに手を打ってくれればいいのだが。
寂れた村々を通れば通るほど、雰囲気が悪くなる息子にパーヴェル告げた。
「よく見ておけ。これがこの国の現状だ。決して目を背けるな。」
ドミトリーは何も言わず頷いた。
不穏極まりない道中とは裏腹に、帝都は相変わらず活気に満ちていた。大通りでは朝市が開かれ、運び込まれたばかりの新鮮な食材が並んでいる。内陸のオルストラエではなかなかお目にかかれない、樽に入った塩漬けの魚などが並ぶ様はさすが中心都市である。
前世で慣れ親しんだ食材も並んでいるところを見ると、この世界の植生はあまり変わらないのだろう。もっとも、味も見栄えはともかく栄養価もそれほど良いものでは無い以上、農林水産系技術の水準は自然と見えてくる。
前世の知識のせいで、それ以外も色々と見えてくるのが困りものだが。
市街を一通り見物しながら必要品を買い揃えると既に日は高く昇り切っていたため、2人は店には入らずに屋台で昼を済ませる事にした。
羊肉のシャシリク(串焼き)を頬張りながら暫く通りを歩いていると、突然パーヴェルがすれ違った男の腕を掴んで捻り上げた。
「竜種に手を出すとはいい度胸だ。 返してもらうぞ。」
そう言うとパーヴェルは男が掏り取って手にしていた財布をむしり取った。呆気にとられていたドミトリーだったが、捻られていない手で男が腰から短刀を抜いたのを見て咄嗟にその手を蹴った。短刀は男の手を離れ音を立てながら石畳を転がった。
「往生際の悪い奴だ。」
なおも抵抗しようとした男に呆れた表情をして、パーヴェルはそのまま男の肩を外して石畳に投げつけた。男は叩きつけられた衝撃で意識を手放したのか、ぐったりして動かなくなった。
詰所から衛兵が来るまでの間、サムソノフ親子は再びシャシリクを頬張りながら伸びた男を取り押さえていた。周囲からの目線に不穏なものが混じっているのを感じて一応警戒していたが、幸いにも仕掛けてくる様子はなかった。
「協力に感謝する。 近頃はこの手のごろつきが増えていてな。」
衛兵曰く、最近になって市街地で窃盗や強盗が増えているという。帝都が治安が悪化しているというありがたくない情報を身をもって手に入れた二人は、それ以上の面倒を避けるべく大学へと向かった。
「ジーマ。父さんが付き添えるのはここまでだ。ここから先はお前自身で行け。」
大学の正門前でパーヴェルはドミトリーに告げる。
「わかった。ありがとう。」
ドミトリーの返事を待たずに、パーヴェルは懐から黒い革の鞘に入った短剣を取り出して押し付けるように渡してきた。
「父さんからの餞別だ。受け取れ。」
さすがに守衛の前で刃物を抜く訳にはいかないので、ドミトリーはそのまま受け取ってベルトに挟み込んだ。餞別の短刀はその大きさの割にかなり重かったが、不思議と安心する重みだった。
「ありがとう。じゃ、行くよ。」
パーヴェルはそれには答えず、ドミトリーの頭をひと撫ですると身を翻してそのまま市街へと歩いて行った。
「新入生かい?」
大学の敷地に入り受付をしている校舎を目指して歩いていると、ドミトリーは人間種の青年に声を掛けられた。この国の人間種にしては珍しい、落ち着いた風貌の青年。商人の子息だろうか。
「はい。入学と入寮の手続きをしに来ました。」
「そうか。なら案内しよう。」
ドミトリーは見知らぬ上級生らしき青年の後を付いて行くことにした。後にこの出会いが自身の進路に多大な影響を齎すとはドミトリーは勿論、案内した青年も知る由もなかった。
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次回更新は火曜日です。




