第2話 迷える竜の子 下
日が傾きそろそろ帰ろうと立ち上がり振り向いたドミトリーは、いつの間にか背後に佇んでいた女性に気づいた。目が合ったまま動けない。
「...何か御用ですか?」
蛇に睨まれた蛙のように、ドミトリーは動けなくなった。じっと見つめ合う二人。向うはこちらの目を見たまま身じろぎもしない。
ドミトリーは次第に焦ってきた。
この女性、自分に用事ががあるのは間違いがないがそもそも自分はこの人を知らない。いや、どこかで会った気がするがこの人は知らないというか。
何故か女性の雰囲気に覚えがあるせいで、余計に動揺してしまう。
誰か何とかしてくれ!
残念ながら頼みの巫女たちは既に神殿の中へ戻ってしまっている。ドミトリーはどうしようもない居心地の悪さを堪えて何とか声を絞り出す。
「…あの、」
「...随分とまぁこちらに馴染んでしまったものです。忘れている訳では無いようですが、気づいていない...いえ、別のところを忘れている? 工程に手を加えたのが原因?」
女性は何かを考えるしぐさのままドミトリーを見てぶつぶつとつぶやいている。
馴染んでいる? 完全に忘れてはいない?
この人は何を言っている?
この人は何を知っている?
工程?何の話?
「えっ...あ...」
ドミトリーは完全に思考が止まってしまった。カラカラに口が渇き、意味をなさない声が洩れる。
「加護も全く気付きも使いもしない。折角色々と用意したのに、これでは骨折り損ではありませんか。」
彼女がため息をつく。
用意?加護?
だから、何の話を...
「思い出しなさい。あなたの人生はそんなに価値のないものだったのですか? ...『熊崎源之丞』」
クマザキ? それは誰のことを...
っ!!!
『熊崎源之丞』。その名前を聞いたドミトリーは、不意に脳裏に溢れ出してきた莫大な記憶の波に意識を飲み込まれてしまった。
仕事を終えたパーヴェルが家に着いたとき、息子はいつもの様に出迎えに来ることはなかった。
「マーシャ、ドミトリーはどうした?」
「あら、一緒じゃなかったの?」
暫し間をおいて、二人はやっと息子が街に行ったまま帰ってきていないことに気づき、大慌てで家を飛び出した。
失神したドミトリーは夜番の巫女たちによって保護され、神殿の詰所で寝かされていた。
一度目を覚ましたのだが、激しく混乱していたため沈静術式を撃ち込まれていたのだ。少年とは言え竜種は暴れれば破壊力は十分すぎるほどある。けが人が出るのをを防ぐためには止むを得ない措置であった。
神殿前の広場で竜種の子供を保護したという報告がソニヤのもとに上がったのはそのすぐ後であった。さらにすぐ後に、錯乱していたので沈静術式を撃ち込んだとの報告も来た。
「...わかりました。様子を見に行きましょう。」
幸運なことに彼女は強制的に眠らされた少年を見て、一目でドミトリーと気付いた。4年前に比べ背丈も体つきも大分変わっていたが、面影はあまり変わっていない。
だが、彼女はドミトリーから僅かだが魔術の残滓を感じ取った。沈静術式とは違う、何か別の魔術のものである。
ソニヤは考える。
パーヴェルは10歳の少年を夜の街に放り出すほど不用心な男ではない。比較的平和なこの街でも夜になれば人攫いや強盗も出る。この神殿自体、決して荒事と無縁な訳では無いのだ。不届き者に狼藉を働かれたのは一度や二度ではない。
恐らくパーヴェルは妻と必死に子供を探しているはずだ。遠からずここにも来るだろう。詰め番の巫女もいる。ドミトリーの身柄に関してはそこまで心配する必要はない。
ただ、沈静術式のものとは別な魔術の痕が気になる。術者が何をしたのかが分からないのだ。魔術に造詣が深い長耳族であり実戦経験もあるソニヤの目でも、全く分からなかった。
自分が来る前に錯乱していたと報告を受けたソニヤは、取りあえずドミトリーをこのまま安静にしておくことにした。そして、ふと彼の枕元に置かれていた外套を見て思わず笑みがこぼれた。
「パーヴェルは本当に子煩悩ですね。」
パーヴェルのお下がりの外套はまだ探検団にいた頃に、仲間と強力な付呪をした逸品だった。着用者に強力な術式補助と身体の保護を与えるもので、パーヴェルの窮地を一度ならず救った彼の宝物であった。
少なくとも家庭内の不和による家出ではないだろう
介抱していた詰め番の巫女が水汲みから帰るのを待っていたソニヤは、ドミトリーが寝かされている仮眠台そばにあった彼のカバンから、何か手帳らしきものがはみ出ているのに気付いた。
そういえば彼は摩訶不思議な夢を見たと言っていた...
もう四年前の話だが、彼と問答(一方的だったが)をした際に聞いた記憶がある。
悪いと思いながらも失神の手掛かりになるかもしれないなどと心で言い訳をしつつ、ソニヤは興味に負けて手帳を開いた。
結局パーヴェルが迎えに来てもドミトリーは目を覚まさなかった。
その日の夜遅く、神殿前の広場で見回りをしていた夜番の巫女の前にふらりと現れ、鬼気迫る形相で息子が来ていない尋ねたパーヴェルは、息子が神殿前の広場で倒れていたため詰所で保護されている事を知り、安堵のあまりがっくり膝をついた。
最悪の場合人攫いに遭ったかもしれないと覚悟していたパーヴェルは、日頃から信じていない神々に心から感謝した。
巫女が息子のところへ案内しようとしたが、それを丁寧に謝絶すると彼は妻を呼びに行くと言ってあっという間に神殿から走り去ってしまった。
むやみやたらに高い竜種の身体能力に呆気にとられながら彼を見送ったた巫女は、上司の元へサムソノフ夫妻が息子を迎えに来る事を知らせに向かった。
沈静術式が切れた後もドミトリーは目を覚まさず、ソニヤは文面に時折現れる理解できない言葉や文字に頭をひねっていた。
できる事なら書いた本人に聞きたいところなのだが、書いた本人は相変わらず眠ったまま。日記にはソニヤが知らない技術や思想に関する記述もあり、好奇心や探求心の強い彼女としては非常に気になるものだった。
肝心の人の日記を勝手に読んだ上であることは彼女の頭からすっぽりと抜け落ちていたが。
サムソノフ夫妻が息子を迎えに部屋に飛び込んで来たのは、ソニヤがもうすぐ迎えに来るという知らせを聞いた直後の事だった。
誤字修正しました。