8 新しい名前
五つあったオットムのうち、四つがピーちゃんのお腹に収まっても、私はまだ一つ目のオットムに苦戦していた。
美味しいけど、サイーファスさんが持ってるから食べづらく、時間がかかるのだ。
やっとの事で半分食べると、サイーファスさんは手を引っ込めて残っていた皮をまた剥き始める。
「私、自分でやります!」
わたくしめのためにそんなっ! エルフ様の御手が果汁で汚れてしまいます! と、心の中で叫んであわあわしている間にサイーファスさんは皮を剥き終わってしまった。
無言で再びオットムを口元に差し出される。
……恥ずかしい。
どうして大人になって、こんな扱いを受けているんだ。
ピーちゃんが私のオットムを奪ってくれないかと期待してみたけど、四つ食べて満足してしまったらしい。
細身ながらも背が高いサイーファスさんに見下ろされ、その威圧感を感じながら、渋々オットムに口をつける。
やけになって早食いし、最後の一口を飲み込むと、サイーファスさんは残った大きな種を手に持ったまま、難しい顔をしてじっとこっちを眺めていた。
その種さっさと捨ててください! 汚いから! 私の唾液がついてるかもしれないから!
その思いが通じたのか分からないが、サイーファスさんは種を地面に落として泉で手を洗ってくれた。懐から白いハンカチを出して手を拭きながら、また私の目の前に立つ。
「サイーファス、そろそろ説明をくれ」
ああ、エカルドさん、同感です。
サイーファスさんはゆっくりと口を開いた。
「水を飲んだ時、彼女の穢れが薄まったのですよ。ほんの一部分、口元が少しだけですが。そしてオットムを食べてもやはり僅かに薄くなりました。新鮮な森の恵を体内に取り入れたのが良かったのでしょう」
「簡易的なものとはいえ、お前の“祓い”で落とせなかった穢れが、どうして食べる事によって薄まったんだ?」
「おそらく、彼女に穢れがついた原因が食べ物にあったからでしょうね。あなた、一体今までどんな食事をしてきたのですか? 呪われた食物を食べてきたとしか思えません」
「食事、ですか……?」
確かに最近の私の食事内容は褒められたものではなかった。
呪われたと言われるほどではないが、主食はカップラーメンとコンビニ弁当、飲み物はコーヒーと栄養ドリンクをローテーションで、という感じだったのだ。
忙しく、疲れすぎていて、自炊なんてしている余裕はなかった。
とはいえ週一回くらいの頻度で母が手料理を持って来てくれるから――私の仕事中によくマンションに来て、冷蔵庫に置いていくのだ――足りない栄養はそこで補っているつもりだったのだが。
「えーっと、カップラーメンって分かりますか? インスタントの……じゃない、即席の麺、で分かります?」
サイーファスさんとエカルドさんは同じように眉根を寄せた。分からないみたいだ。
「つまりお店で売っている出来合いのものばかり食べていたんですよ。栄養に乏しくて、腐りにくいように加工されてたり、薬みたいなものを入れたりしているんです」
母には添加物は体に毒だと言われ続けてきたので、そんなイメージが抜けてくれない。
と言いつつ、スーパーやコンビニのお惣菜やお弁当、カップラーメンなんかは結構好きだ。母に知られないように空き容器はすみやかに処分しなければならないけど。
一人暮らしとはいえ、母が来ればゴミ箱もチェックされるので気を抜けなかった。
「それが穢れの原因だとは思えませんが……」
顎に手を当て、思案しながらサイーファスさんが言う。
「あなたが食べていたそれらが何の栄養もない――それどころか毒に近いものだとしても、体に不調が出るだけで、そこまで穢れはしないでしょう。もっと他に原因があるはずです。例えば、あなたがいつも食べ物を買っていた店の人間に恨まれていて、その恨みが穢れとしてあなたについているとか」
「ええ!? そんな事はないと思いますけど……」
いつも行くコンビニの店員さんには顔を覚えられているかもしれないが、恨まれているとは思えない。
それとも自分では気づかないうちに、相手を不快にさせてしまっていたのかな。
私は顔を青くして言った。
「思い当たる節はないですが……恨まれているかどうかは、自分ではわかりません」
私の感情に変化に気づいたピーちゃんが、「クルル」と鳴きながら頬をすり寄せてくる。
サイーファスさんは一度エカルドさんと顔を見合わせてから、こちらに向き直った。
「穢れの原因について、あなた自身でもよく分からないとおっしゃるなら、私が調べてもよいでしょうか? 普段はあまり追求しないのですが、私も気になるのです。どうしてあなたがそこまでの穢れをまとっているのか」
「……分かりました。何も知らないままだと、私も気になりますから」
私は神妙に頷いた。一体誰に恨みを買っていたのだろう。
「では覗いてみますから、じっとしていてください」
「覗く?」
サイーファスさんは右手で私の左手を、左手で私の左手を取って握った。目をつぶって集中している。
二、三分はそうしていただろうか、泉の上をざあっと風が通り過ぎ、低く波が立ったところで「わかりました」と目を開けた。
不快なものを見たかのように、眉根をきつく寄せている。
やっぱり私が親を捨てた事が穢れの原因だったんじゃないか、私はこれから彼にその事についてひどく責められるんじゃないか、と怖くなる。
「ピャア」
隣でピーちゃんがこちらを見ながら羽ばたきした。まるで励ましてくれているみたい。
私は勇気を出してサイーファスさんと向き合い、彼の説明を待った。
が、サイーファスさんが私を見る視線がさっきまでと違うように思える。警戒と僅かな軽蔑が消えて、憐れみと同情の色が濃くなった。
「……まず最初に、あなたに謝罪しなければなりません。私はあなたを性根の腐ったどうしようもない人間なのだと思っていました」
いきなり、さらりととんでもない悪口を言われた。
「穢れとは、基本的にはその人の心のあり方によって現れるものだと認識していましたから。醜い穢れをまとうあなたを一目見て、心の中もどす黒く醜いのだろうと思ったのです」
「……はい」
「けれど今、はっきりと分かりました。あなたのまとう穢れは、あなたに原因があるものではなかったのだと」
「原因、何だったんだ?」
エカルドさんが口を挟む。
サイーファスさんは垂れた長い髪の毛を耳にかけ、私を見下ろしたまま説明する。
「あなたの穢れに触れると、たくさんの声が聞こえました。しかしそれは全部、たった一人の女性の声です。おそらくあなたの母親でしょうね、彼女の心の声が煩く聞こえてきたのです」
「母、ですか?」
「ええ。こんなふうに」
サイーファスさんはそこで一旦言葉を切ると、氷のように目を冷たくして無表情に口だけを動かし、流れるように淡々としゃべり続けた。
「いつも可愛く従順でいてほしい。私の言う事をよく聞く良い子であってほしい。馬鹿な友達を作らないでほしい。近所の人に自慢できるように、きちんと勉強していい成績を修め、家のお手伝いもしてほしい。私の気に入った可愛い服を着て、髪は切らないで伸ばしてほしい。学校はあそこへ行ってほしい。仕事は先生をしてほしい。結婚は若いうちに絶対して、婿も一緒に同居してほしい。孫は必ず産んでほしい。やんちゃな男の子より、従順でよく面倒をみてくれる女の子がほしい」
母が私に対して、色々な要求を持っている事は知っていた。
だけどその念が穢れとなって私にまとわりついているのだと思うとぞっとする。
「……こんな声が延々と、途切れる事なく続いているのです。確かに親が子に『こんなふうになってほしい』と望む事は普通ですが、そこには愛情があるはず。『勉強してほしい』と望むのは、将来子ども自身が苦労しないように。『結婚してほしい』と望むのは、自分たちが死んだ後、子どもが独りぼっちにならないように。親なりに子どもの幸せを想っての事なのです」
サイーファスさんが冷たい視線を向けてくる。私にというより、私の向こうに母の姿を見ているみたいだ。
「けれどあなたの母親は違う。あなたの幸せなんてこれっぽっちも考えていない。あなたが従順な良い子で、勉強がそこそこできて、先生になって、結婚して、そうしてくれれば自分が幸せだからそう望んだのです。あなたが幸せになれるからじゃない」
私は何も言えずに息を吸った。
「どうやらあなたの母親は、あなたの人生を自分の人生のように思っているようですね。娘の人生は親のためにあると考えていて、しかもその考えを悪だとは思っていない」
中学の頃に一度母に反抗した事があって、その時に母から泣いて同じような事を言われた。
『どうして口答えするの。お母さんはあなたのために毎日料理を作って、掃除をして、こんなに頑張ってるんだから、あなたもお母さんの望む通りに頑張るべきでしょう! お母さんの人生はあなたのためにあるし、あなたの人生もお母さんのためにあるのよ。それをどうして分かってくれないの』と。
少し口答えしただけだったのに、母が「もう全ておしまいよ」くらいの勢いで喚きながら号泣するものだから、すぐに謝って、それからもう二度と母にはきつく当たらないようにしたのだ。
「母が私の人生と自分の人生を混同していた事については、思い当たる事ばかりです。自分の幸せを第一に考えていた事も。でも……私の健康を気遣ったりもしてくれました。栄養面を考えた食事を毎食作ってくれていたのは、感謝しているんです」
オーガニックにこだわり過ぎるところは迷惑だった部分もあるけど、家族を愛していなければあそこまでできないのではないだろうか。
しかしサイーファスさんの表情には、私に対する憐憫しか浮かんでいない。
「彼女が食べ物にこだわったのは、家族に病気になられたり、死なれたりしては困るからです。夫には働いて金を稼いでもらわねばならないし、あなたには長生きして老後の面倒を見てもらわねばならない。それに健康な孫を産んでもらわなければならない。彼女が思い描く幸せな未来を実現させるために、家族に病気をさせたくなかった。……きつい事を言うようですが、あなたは母親の人生を彩るための重要な駒でしかなかったのです。一人の人間としては見られていなかった」
一人暮らしをしてからも毎週毎週手料理を持って来てくれたのは、私が体調を崩さないようにという母の愛なのだと思ってた。
しかしその奥には、“母のために”体調を崩さないように、という私には見えなかった思いが隠れていたのだ。
母の真意を知って、私の中にあった彼女への想いがぷつんと切れた気がした。
こちらの世界へ来た事で感じていた、母に対しての罪悪感が薄らいでいく。
どんな理由があるにせよここまで育ててもらった事には感謝しているし、全ての情がなくなったわけじゃない。どんな親でも、私にとっては唯一の親だから。
だけど私はもう、彼女の元へ戻らないだろう。
母に不幸になってほしいとは思わないし、機嫌よく毎日を過ごしてほしいとも思うけど、そのために自分を犠牲にするつもりはなかった。関わりたくないと思う。
サイーファスさんは続ける。
「あなたの母親のそういう考え、思いが、強い念となって彼女の手料理に染み込んでしまっていたのです。本人は念を込めているつもりなんてなかったでしょうけれどね。そしてあなたはそれをずっと食べていた。そんな食事を子どもの頃から取り続けていれば、そこまで酷い状態になってしまうのも当然です」
「私はどうすればいいんでしょう? この穢れを取るために」
「あなたの母親の意志が入り込んでいない食事を地道に取り続ける事です。この森で取れる新鮮な水や食物などは、さらに良いでしょうね」
こちらの世界で生活していれば、母の手料理を食べないでいるのは簡単だ。毎日少しずつ母の念が取れてくれればいい。
「どうして母は……」
思わず零してしまった言葉を、途中でのみ込む。こんな事サイーファスさんに聞いたってどうしようもない。
どうして母は私を愛してくれなかったのか。どうして母は他の多くの母親と違ったのか、なんて。
一筋の涙が勝手に目から溢れ出た。
母にも悪いところがあったのだからこれで心置きなく縁を切れる、と考える大人な私がいる一方で、子どもの私は泣いているのだ。
せいせいしたという気持ちと悲しい気持ち、両方ある。
「泣きなさい。涙を流す事は、魂の浄化にも繋がるでしょう」
サイーファスさんが慈愛に満ちた声でそう言うと、エカルドさんがすかさず突っこむ。
「馬鹿だな、サイーファス。こういう時まで浄化だ何だと言われたら、女性は興ざめだ。ハンカチでも差し出して優しく慰めないと」
「私のハンカチは濡れてしまっています。先ほど手を洗いましたから」
私が泣いている隣で二人がそんな事を言い合っているから、涙が止まってしまった。サイーファスさんらしい真面目な発言に笑いそうになる。
結局、「仕方がないな」とエカルドさんが自分のハンカチを渡してくれた。エルフ男子って、皆ハンカチ常備してるの?
「そういえばあなたの名前の事ですが、兵士たちに思い出せないと言っていましたね?」
私が泣き止んだのを見て、サイーファスさんが話し出す。女の涙にも全然動じない感じ、好きです。
「はい、聞いておられたんですね。……覚えているのは、古風で、私にはもったいないようなお嬢様風の名前だった事と、名づけたのは母だったという事くらいです」
どういう想いを込めてくれたのかを訊いた時に、笑って「ああ、お母さんが付けられたかった名前を付けただけよ」と教えてもらったのだ。他に特に理由はないと。
『自分の名前の由来を調べよう』という小学校の宿題で訊いたのだが、他の子が「この漢字にはこういう意味があって……」などと説明している中、自分の由来を発表するのが少し恥ずかしかった記憶がある。
「あなたが『違う世界に行きたい』と願った時、根底には『親から解放されたい』という思いがあったのでは? だから移動してきたと同時に、親から貰った名を忘れてしまった。あなたはその名を捨てたのです」
「……そうかもしれません」
サイーファスさんの言葉に静かに同意した。
エカルドさんが明るく提案する。
「だったら、新しい名前を考えないとな」
「新しい名前?」
「そうじゃないと不便だろう。僕たちは君を何と呼べばいいんだ?」
エカルドさんに続いてサイーファスさんが話す。
「そうですね。あなたの場合、親から与えられた名を名乗っていれば、いつまでも親に縛られてしまうでしょう。自分で好きな名前を考えてみては?」
自分で新しい名前を考える。
それはとても喜ばしい事のように思えた。どんな名前をつけたって、もう母は何も口出しできないのだ。名前と同じように、私自身も新しく生まれ変われるような気がする。
だけど一つ問題もある。
私は顔を上げると、サイーファスさんを見つめて迷う事なく言った。
「サイーファスさん、もしよければ私に名前をつけて考えてもらえませんか?」
「私ですか?」
「はい、この世界で生きていくために違和感のない名前がほしいんですけど、私の中にはまだ元の世界の常識しかありませんから、この世界風の名前を考えるのは難しくて……。なので是非サイーファスさんにと思ったのですが、お願いできませんか?」
日本では神主さんやお坊さんに赤ちゃんの名付けをお願いする事もあるし、その感覚で頼んでしまった。
だけど神官でなくても、サイーファスさんなら信頼できるし、きっといい名前をつけてもらえると思うのだ。
期待を込めた目で見上げていると、サイーファスさんは少しうろたえた様子だったが、次には白い頬をほんのりと赤く染めて照れ始めた。
「私が名付けですか。責任重大ですね」
困ったふうに言っているが、頼られて嬉しいと顔に書いてある。結構分かりやすい人なんだな。
サイーファスさんは張り切って言った。
「分かりました、承りましょう。必ずあなたにぴったりの名前を考えます。一日二日では決められないので、取り敢えず一ヶ月時間を下さい」
「一ヶ月、ですか?」
長くない? と戸惑っていると、同じように思ったらしいエカルドさんが口を挟んできた。
「サイーファス、そんなに待っていられないよ。それまで彼女は名無しになってしまうじゃないか」
「けれど名前は一生のものなのですよ。そう簡単に決められません」
「いや、せめて一週間だ」
他人の名前をそこまで一生懸命考えてくれるつもりなんて、と有り難くもあるけど、結局エカルドさんの提案通り、一週間という期限でサイーファスさんも折れてくれた。
「そうと決まれば、こんなところでぐずぐずしている訳にはいきません。早く里へ戻りましょう。私は本棚から『言葉の由来辞典』を探さなければならないのです」
さっさと灰色馬に跨って出発しようとしているサイーファスさんに、私とエカルドさんは顔を見合わせて笑いを零した。