3 怪鳥と森の中
強い風が吹いているわけではなかったが、裸足の足を撫でていくひんやりとした空気に、私は軽く肩を震わせた。
私を囲んでいるのは植物と土ばかりで、先程までいた自室の景色とはまるで違う。
濃い緑の葉をたくさんつけた木がそこかしこに生えていて、その隙間を埋めるように様々な野草が自生している。地面に転がっている石や朽ちかけた倒木には、明るい緑色の苔が張り付いていた。
どこからか歌っているような鳥の鳴き声が聞こえる。とても幻想的で美しい森だ。木漏れ日が差すと、植物たちが生き生きと輝いているようだった。
(これも幻覚……?)
しかし呼吸のために空気を吸い込むと、少し湿り気のある爽やかな香りもした。
よく分からないと、背の低い草の上に座り込んだまま戸惑う。
しばらく激変した周囲の景色を食い入るように眺めるばかりだったが、やっとの事で視線を動かし、自分の姿を確認した。
(大丈夫、ちゃんと見える。透明のままじゃない)
服には変化がなく、朝起きてから着替えていなかったので、パジャマ代わりの白いTシャツに、下はスウェット。
Tシャツは高校の体育の授業で使っていた学校指定のもので、袖口に高校名が刺繍されてある。一人暮らしを始める時に寝間着として採用した。丈夫で劣化しないところがお気に入りなのだが、母に見つかれば貧乏臭いと捨てられるだろう。
もう一度顔を上げて、前方を見る。
やはり森が広がっているだけだった。
ため息をついたところで、ふと自分の手の中がからになっている事に気づき、狼狽する。
ピーちゃんがいないのだ。
「ピーちゃん? どこに行って――」
探そうと立ち上がったが、自分の口から出た不可解な言語に動きを止めた。
「何?」
思わず目を見開いて、唇を抑える。日本語を喋っているつもりなのに、聞いた事もないおかしな言葉に変換されてるのだ。
発音に強弱の差があまりつかない、柔らかい印象の言語だった。
「なんで? 何語っ?」
確かめるために声に出して話してみるが、やはりそれは聞き慣れた日本語ではなかった。唇や舌が勝手に動きを変えてしまう。
「なにこれっ……!?」
喉を両手で抑えて叫ぶ。思った通りに口が動かない。
混乱は恐怖に変わった。自分の声が、自分の意志とは関係なく変な言語を流暢に操っているのだ。恐ろしくてたまらない。
「私、本格的に頭がおかしくなり始めてる……。これも全部ストレスの影響?」
そうやって喋った言葉も、もちろん全部知らない音。
私は脱力して、地面に膝をついた。
「何なの、これ……気持ち悪い……。誰か、ピーちゃん……」
思わずピーちゃんに助けを求めてしまう。あの小さな文鳥にこの問題を解決できるはずはないが、心の拠り所なのでつい呼んでしまった。
「……ん? ……ピーちゃん、ピーたん、ピー君」
どうやら『ピー』の部分の発音に変化はないらしい、と気づいた。唇の動きも日本語を喋る時と同じで少しホッとする。
けれど一人では不安なので、半泣きになりながら白い小鳥を探す事にした。
「ピーちゃーん! いないのー? ピーちゃーん! ピッピー!」
声を張り上げながら、細い枝の上や木の根元に視線を走らせる。陰に隠れているかもと思って、草をかき分けたりもしたが、この近くには居そうにない。
しかし場所を移動すべきかと思いながら、もう一度呼ぶと、
「ピーちゃーん!」
「ピャア!」
限りなく「ギャア」に近い「ピャア」という鳴き声が聞こえ、私はすぐに足を止めた。ピーちゃんの鳴き声にしては野太い気がするが、この『呼んだら間髪入れずに応えてくれる』感覚には馴染みがある。
「ピーちゃん?」
「ピャッ!」
この食い気味でくる感じ、やはり私のピーちゃんだ。
どこにいるんだと目を凝らして、再度木の上を見た。ピーちゃんは小さくて目立たないから、白さを頼りに探してみる。
と、早足でカサカサと草を踏み分ける音が背後から迫ってきた。それと同時に僅かに地面が振動する。
嫌な予感がして素早く振り返り、そして絶叫した。
「きゃあああああ!」
「ピャア!」
鳴き声を上げながらこちらに突進してきたのは、私よりも大きな白い怪鳥だったのだ。
鷲に似た巨大な猛禽類のようだが、色んな部分がおかしい。私の知っている鷲とは明らかに違った。
「いやぁぁぁ!!」
まず変なのは、足が四本あるところだ。フォルムは馬のようで、昔読んだ本に出てきた怪物の挿絵を思い出す。怪物の名前は、確かグリフォンとか言っただろうか。
しかしそのグリフォンは、鷲の上半身に獅子の下半身を持っていたはずだが、目の前の怪鳥は下半身も真っ白な羽毛に覆われていて、しっぽの代わりに尾羽が伸び、後ろ足も鉤爪のついた鳥の足だった。
そして四本の足の他には、もちろん背中に翼もある。
けれど一番の脅威はその大きさで、立っている私をゆうに見下ろせるほどだった。
地面から肩までの体高は二メートルあるかないかくらいだが、そこからさらに首が伸びて頭が乗っているのだから、相対している私への圧迫感は半端ない。
あの尖ったくちばしで突かれたら、肉を大きくえぐり取られそうだ。鋭い瞳も私から逸らされる事はない。
「やだ……嫌……」
私の言葉に「ピャ?」と頭を傾げながら、白い怪鳥は近づいてきた。その大きな足の下で、落ちていた小枝がパキリと音を立ててあっけなく折れる。小枝といっても、ピーちゃんの止まり木に使えそうなほどの太さはあるのに。
「うう……」
逃げなければと思うけど、膝が震えて足が動かなかった。腰を抜かすようにしてその場にへたり込む。
もう駄目だ。
私はここでこの怪鳥のごはんになるのだ。
そう覚悟して、体を縮めた。襲われる瞬間を目に焼き付けるのが怖くて、頭を抱えて俯く。
ガタガタと震えながら殺されるのを待っていると、すぐ近くで重たい米袋を落としたような音がした。怪鳥が何かしたのだろうか?
恐ろしく長い十秒を数えた後、攻撃されない事を不思議に思ってそっとまぶたを上げる。
「ひっ」
怪鳥はやっぱり目の前にいたけど、四本の足を折りたたんで地面に座っていた。
私が顔を上げた事に気づくと、にゅっと首を伸ばしてくる。
「や、わっ!」
言葉にならない声を上げてお尻を付けたまま後ろに後退ると、白い怪鳥は首を引っ込めて不思議そうにまばたきした。
何を考えているんだろう。お腹が減っているわけではないのだろうか?
深呼吸して、相手を刺激しないようにそのままゆっくり後退を続ける。三メートルほど離れて中腰になり、木を避けながらさらに遠ざかろうとした時だった。
よっこらしょ、と言いたくなるような動作で怪鳥も立ち上がったのだ。
離れた分だけ近づいてくる怪鳥に、私はまた顔を青くした。今度は慌ててその場から走って逃げる。
「ギャッ!」
しかし怪鳥は少し不機嫌な声で鳴いて、追いかけてきた。
「いやっ……!」
猛獣がドスドスと音を立てて、後をついて来るのだ。私は裸足の足が汚れる事もいとわずに、息を切らせて無我夢中で駆けた。
一応相手は鳥だから地べたを走るのは不得意なんじゃないかと希望を持ったが、四本も足があるからか普通に速い。走りながら一度背後を振り返ったのだが、すぐ真後ろで余裕の表情をして足を動かしていたのだ。なんなら私を追い越さないように加減しているみたいだった。
「はっ、はぁ……」
そんな追いかけっこなので、当たり前のように私の方が先に体力が尽き、必死に酸素を吸い込みながら木の側に座り込んだ。
「ピュイ!」
怪鳥はやはり襲ってこない。同じように立ち止まってこちらを見ている。一体何なのだ。
「うぅ……本当に、この場所は何なの? ピーちゃんはどこ?」
「ピャア!」
「ピーちゃん……」
「ピャア」
「違う、あなたじゃない! 私はピーちゃんを呼んでるの!」
「ピャッ」
怪鳥がいちいち返事をしてくるので、思わず苛立って相手を睨みつけた。何を怒っているのかというように一度首を傾げると、怪鳥もその場に腰を下ろす。
「あれ? あなた……」
改めてその大きなくちばしを見つめる。鷲のくちばしは黄色いイメージがあったのだが、綺麗な桜色をしていた。
白文鳥であるピーちゃんと似た色だ。
今はお腹の下に収納されている四本の足も黄色ではなく薄いピンクだった気がする。
眩しいほど真っ白な羽毛に、ピンクのくちばし――親近感を感じる配色だ。
それにこちらを襲う様子もなく、人間に慣れた様子でひたすら後をついて来るという不思議な行動。
まさか、と、思い浮かんだ一つの可能性を肯定するように、怪鳥は私の方へ首を伸ばし、胸の辺りまで伸びた髪をくちばしで一房つまんだ。
そして、くちばしに挟んだままもしゃもしゃと舐め始めたのだ。抜けそうなほど強く引っ張られるわけでも、引き千切られるわけでもなかった。
お風呂あがりに髪を梳いていると、肩に乗ってきたピーちゃんが暇つぶしにつついていたのを思い出す。
「……ピーちゃん、なの?」
信じられない思いで目の前の怪鳥を見上げると、
「ピャア」
若干眠そうな、気の抜けた鳴き声が返ってきた。本人は自分の体に起こった変化を全く気にしていないようだ。視線の高さとか足の動かし方とか、全然違うと思うのだが。
しかしそののん気な姿に、私の警戒も一気に解ける。
「ピーちゃん! ピーちゃんなんだね!?」
この猛獣は自分を襲う敵ではなく、一緒に暮らしていたペットなのだと思うと、安心とともに急に可愛く思えてきた。
ピーちゃんを飼ってから他の鳥にも興味が出てきていて、文鳥とよく似た体型のスズメはもちろん、カラスでさえも道端で発見すれば目が行ってしまうようになったし、こんなに巨大でなければ、鷲や鷹などの猛禽類も格好良くて大好きなのだ。
眠そうにまぶたを閉じかけているピーちゃんに、そろりと手を伸ばす。襲われないと確信していてもこの大きさにはまだ慣れない。
恐る恐るくちばしを撫でてみると、硬くて少し冷たかった。ちゃんと鼻の穴もある。可愛い。ピーちゃんは動く様子がないので、今度はその手を首元に下ろしていく。
「わぁ」
さらりとしつつも柔らかい羽毛の感触は元のピーちゃんと同じだが、大きくなってさらにふかっと感が増した気がした。
誘惑に耐え切れず、胸元のよりふかふかしている部分に手を突っ込む。ピーちゃんが大きな目を面倒そうに開けた。
「あったかいー……」
そのまま撫でてやると、ピーちゃんは喉を震わせて小さく甘えた声を出した。「キュウー」とか「クウー」とかいう、高い鳴き声だ。
ああ、こんなにでっかくなってしまったけど、可愛さは変わってない。顔はまるきり違うし、目は鋭すぎるし、足は二本も増えているし、可憐な文鳥の面影なんて欠片も残っていないが、この子は確かに私のピーちゃんだ。
手のひらにすっぽり収まってしまう小ささ。私の人差し指に止まってしっかり掴んでいる時の、細い足の感触。つぶらな瞳に可愛いくちばし。ぴょんぴょんと飛び跳ねている姿。
小鳥だった時のピーちゃんの魅力が失われてしまったのは寂しいが、巨大化した事で違う魅力を身につけたのも確かだ。
私は眠り始めたピーちゃんに抱きついて、首元のふかっとした羽毛に顔をうずめて叫んだ。
「幸せっ!」
鼻を擦り付けるようにぐりぐりと顔を動かす。お日様に当てた布団みたいないい匂いがする。
大きな鳥にこんなふうに抱きつけるなんて、夢のようだ。ピーちゃんは半分寝ながら「ビャァァ」と文句を言っている。
「なんだかすごく安心する」
小鳥だったピーちゃんには、今まで色々と気を遣いながらお世話をしてきた。
例えば私が少し気を抜いて周りをよく見ず手を動かしたとして、それがピーちゃんに勢いよく当たれば脳震盪を起こさせてしまうかもしれない。下をよく見ずに歩けば踏んで大怪我を負わせてしまうか、最悪命を奪ってしまうかもしれない。
放鳥中は特にそういった事に注意が必要で、細々とした用事をする事はあるものの、基本はいつもピーちゃんから目を離さないようにしていた。ピーちゃんがどこにいて何をしているか、常に把握しておくのが大切なのだ。
ピーちゃんが危ない事をしないように、という理由だけじゃない。私がピーちゃんに怪我をさせないように注意していたのだ。
ピーちゃんをうちに迎えた当初、私はその小ささと弱々しさに庇護欲をそそられながらも、どんなふうに扱えばいいのかと怖さも感じていた。
こちらにピーちゃんを傷つけようという意志はもちろんないけれど、人間の“うっかり”で命を奪えてしまう可能性があると危惧していたのだ。
小動物は可愛いが、一緒に暮らすには細やかな気配りと注意が必要だ。
けれど大きくなったこのピーちゃんには、そこまでの気遣いは必要ないだろう。結構力を入れて抱きしめているのだが平気で寝ているし、まだ喉も鳴らしている。
むしろこちらが“うっかり”で殺されないように気をつけねばならないくらいだ。
文鳥のピーちゃんは小さくてひたすらに可愛い、守るべき存在だった。
だけどこのピーちゃんは、格好良くて頼りになる存在だ。「私が守らなきゃいけないんだ!」と自分を追い詰めないで済むというか、一方的に守るだけの関係ではなくなると思う。
こんな見知らぬ森の中で、とも思うが、本格的に寝に入ったピーちゃんを見ていたら、私も眠たくなってきた。そもそも睡眠不足だったうえ、オウムに力を分け与えたのだから。
(そうだ、あのオウム……)
ピーちゃんの大きな体にくっつくようにして落ち葉の上に横になり、考えた。
今見えている光景は全て幻。夢の中の出来事なのかもしれない。朝起きたというところから実は夢で、本当の私は今も自室のベッドで寝ているとか。
けれど、現実だったらという可能性も捨てきれない。ピーちゃんの羽毛の感触、肌寒さ、森の匂い、木々の色、全てがリアルなのだ。
それに夢や幻覚にしては、流れに矛盾がなく一貫性がある。
突然ここにやってきてしまった事も、私があのオウムに「母のいない世界に行きたい」と願ったからだと思えば納得がいく。
そしてオウムが話した通り、ピーちゃんも一緒に連れて来てくれた。
そういえば言葉の問題についても言及していた気がする。それで私は変な言語を喋っているのだ。きっとこの世界の言葉に違いない。
ただ、一つ分からないのは、ピーちゃんの変化。
あのオウムはピーちゃんについて、「向こうに言ったラ、巨大化スルよー。全然違う姿にナルのー」なんて事は言っていなかったはずだが。
「よく分からない」
これがストレスと過労による幻覚なのか、ただの夢なのか、それとも現実なのか。
けれど夢や幻覚ならそのうち覚めるかなと思って、私は眠る事に決めた。この世界に来ても連勤の疲れは取れていないし、強そうなピーちゃんが側にいてくれると思って安心したら眠気は酷くなるばかりだし、もう限界だ。
ピーちゃんの下に潜り込むようにして、体を半分羽毛に埋もれさせる。それに気づいたピーちゃんは、寝ぼけながらも、私がいる方の翼を少し広げて私を包み込んでくれた。
これぞ本当の羽毛布団だ、などとしょうもない事を考えながら、私は深い眠りについた。