10 きみをまもりたい
その日の夕食はエカルドさんとセニアラナさん、さらにエルフの里の長だというおじさんと一緒に、サイーファスさんの家で食べる事になった。
長さんはおじさんといっても、アッシュゴールドの長髪がよく似合う美麗なおじさんだ。顔や手に少し皺はあるけど、それで魅力が損なわれるどころか歳相応の格好良さを示している。
威厳を持ちつつ優しくて、器の大きな人だという印象だ。
セニアラナさんと長さんは、私の穢れについての事情を受け入れてくれたみたい。
きつく当たられたりする事もなく、かといってわざわざ母の話をしてくる事もなく、普通に接してくれて安堵した。母の事を話すと、また子どもの私が泣くかもしれないからだ。
里の人たちも二人と同じような反応だったらしく、エカルドさん曰く、私を追い出そうとするような人はいないという事だった。
「愛想のいい者たちは、明日から徐々に声を掛けてくると思うよ。一度に挨拶すると君が萎縮してしまうと釘をさしておいたからね。ただ、里のエルフの中には他人への興味が薄い者もいて、自分からは君に話し掛けない者もいるだろうし、冷たい態度を取られているように感じる事もあるかもしれない。だけどそれは相手が君だからじゃない。誰に対してもそうだし、性根は優しいから安心してほしい。困った事があれば、里の者は皆君を助けるだろう」
エカルドさんが私の事を気遣って話してくれている事が分かって、本当に感謝した。
「はい、ありがとうございます。これからしばらくお世話になります。ただの居候では辛いので、私にもできる仕事があればぜひ教えてくださいね」
「まぁまぁ、労働の話は明日からでもいいではないか。今日は食事と酒を楽しんで、そしてゆっくり休むのだ」
長さんが笑って、ワインらしきお酒の入った杯をこちらに向けてきた。私も自分のものを持ち上げて乾杯する。
一方、先ほどから静かなサイーファスさんをそっと確認すると、すでに顔を赤くして酔っ払っていた。
さっき長さんに飲ませられていたから……。それにしても弱い。
神官はお酒を飲んでは駄目なのかと思ったけど、勧められれば口にしてもいいようだ。残して捨ててしまう事の方が悪だという考えみたいだが、人間の神官も同じような考え方なのかは分からない。
据わった目をして、しかし表情は機嫌よく、たまに杯を持ったまま「フフフ」と怪しく笑っているサイーファスさんにピーちゃんが不審な目を向けている。つついちゃ駄目だよ。
このお酒や食事はセニアラナさんたちが持ち寄ってくれたものだが、ピーちゃん用のものは別に果物をたくさん持って来てくれた。
「そういえばこの果物、こんなにいっぱい貰ってしまってよかったんでしょうか?」
「もちろん。私たちが謙虚に生きている限り森の恵は尽きる事がないし、それにこの果物は私が集めたものだけじゃないのよ。里の皆もこの子に興味津々だから、貢物のようなものよ」
どうやら里のチェックをするべく歩き回っていた姿を、家の中から見ていた人たちも多いらしい。セニアラナさんを始め、動物が好きなエルフは多いようだ。
「撫でさせてもらえるなら、いくらでも貢ぐわ」
美人にそんな事を言わせるなんて、ピーちゃんってばやるな。
楽しい食事のひとときを過ごし、夜も更けてくると集まりは解散となった。
長さんが面白がって飲ませるものだから、サイーファスさんはべろべろになって終始笑いながら揺れている。
「もう! しっかりしてください!」
私がサイーファスさんを引っ張り、セニアラナさんが後ろから腰を押して、酔っぱらいをなんとか二階の寝室に上げた。他の男性陣はいい感じに酔っていたので、階段から落ちたらといけないと思い、手伝うのはやめてもらった。
私は遠慮しながら飲んでいたしセニアラナさんはザルだしで意識はしっかりしている。男性陣に負けないくらい飲みながら、これっぽっちも表情の変わらないセニアラナさんすごい。
二階は一階よりも天井が低かったが、背の高いエルフでも頭がつく事はなさそうだ。衣装棚や文机、そして奥にはベッドが置いてある。
上着はすでに脱いでいたので、サイーファスさんをベッドに座らせると、靴だけ脱がせて布団に押し込んだ。
「ちゃんと寝てくださいね」
「また少し、穢れが落ちましたね」
サイーファスさんの灰色の目は酔っているせいで少し潤んでいる。とても綺麗な瞳だ。
しかし会話は噛み合っていない。
「私はあなたを必ず幸せにします」
プロポーズみたいな言葉に一瞬どきっとしたけど、そういう意味ではないと分かっているので、笑って「ありがとうございます」と答えておいた。
サイーファスさんは責任感が強そうだから、私がちゃんと穢れを落としてこの世界で自立できるようになるまで、この里から出て行かせてもらえそうにない。
思ったよりも長くここで生活する事になりそうだと、そんな予感がした。
毛布をかけた途端、電池が切れたようにすやすやと眠りだしたサイーファスさんを見て、セニアラナさんと笑い合う。しっかりしていて神経質のように見えて、結構隙だらけの人だ。
「ピャッ」
二階に上がってから一、二分しか経ってないのに、しびれを切らしたピーちゃんが階段を上ろうとする気配を感じ、私は慌てて一階へと戻った。
「じゃあ私たちも帰るわね。また明日の朝、朝食を持ってくるわ」
ふらふらしている男性陣を引き連れて、セニアラナさんが言った。
食事はいずれ自分で作るようにするつもりだが、こちらの世界の料理の味も覚えた方がいいと、料理好きのセニアラナさんの伯母さんがしばらくは作ってくれる事になったのだ。
どうやらその伯母さんは私に同情もしてくれているらしく、セニアラナさんから「『私の二人目の娘にするわ!』って鼻息を荒くしていたから明日から気をつけた方がいいわよ。いい人だけどね」と笑って忠告された。
穢れをまとっているんだから疎まれても仕方がないと思っていたのに、エルフは優しい人が多いみたい。義理のお母さん大歓迎だ。
料理に関してはサイーファスさんも普段簡単なものを作っているそうだが、セニアラナさん曰く「野菜ばかりだし、味気のない粗食だから」、エカルドさん曰く「毎食それだと君が可哀想過ぎる」、長さん曰く「あれがエルフの料理だと思われたくない」という事で、“しっかり味がついていて、肉も使った美味しい料理”を分けてくれるという。
散々な言われようだが、サイーファスさん、普段は精進料理みたいなものばかり食べているのかもしれない。
「何から何までお世話になってすみません。ベッドや毛布もありがとうございます」
セニアラナさんの家で私のために用意してくれていたお古のベッドを、夕食の前にこの家に運んで来てくれていたのだ。
リビングの長椅子は撤去し、真ん中にあったダイニングテーブルを少し端の方へずらせば、なんとかベッドを入れる事ができた。ピーちゃんが休めるスペースもある。
「いいのよ。どうせ使わないものだから。じゃあおやすみなさい」
「よく休むんだよ~」
「まだ飲めるぞ、私は」
ほろ酔いのエカルドさんとわがままを言う長さんを問答無用で引っ張って帰っていくセニアラナさん。
頼りになる。
「私たちも眠ろうか」
扉に鍵をかけて、ピーちゃんを振り返った。地球とは違う世界のエルフの家で、大きくなったピーちゃんと二人きりというこの状況が何だか可笑しい。
すべてが夢みたいだけど、きっと明日の朝起きてもあのマンションに戻っている事はないのだろう。
変な気分でもあるし、母の存在は常に頭の隅に残っているものの、ここでの未来には希望しかなかった。母の選んだ道ではなく自分で選んだ道だから、この先何があっても後悔はしない。
夕方に足を洗うついでにお風呂に入ってしまったので、顔だけ洗って歯を磨き、寝間着に着替えた。これは里の十四歳の女の子が使っていたものを譲ってもらったのだ。成人したエルフは皆背が高くて、私とはサイズが合わないから。
スーラの言葉があるから、というのもあるだろうけど、本当に里の皆には優しくしてもらって感謝の気持ちしかない。畑を耕したり縫い物をしたり、明日から私も何か恩返しをしていければいいな。
灯りを消し、木の香りのするベッドに潜り込んで仰向けになると、ピーちゃんも隣で床に座った。
ピーちゃん用に長方形の小型のじゅうたんを敷いてあったのだが、ちゃんとそこに腰を落ち着けてくれたようだ。
少し肌寒いので毛布を肩まで掛けると、ピーちゃんがその上に頭を乗せてくる。頭だけでも重くて胸がちょっと苦しいが、今日はたくさん走って飛んでくれたので、いたわるように撫でた。
「キュイ」
至福の表情でまぶたを閉じ、小さく甘え鳴きするピーちゃん。可愛くてぐしゃぐしゃに撫で回したくなるが我慢する。
上のくちばしと下のくちばしの境目をなぞり、片方の鼻孔を指で塞いでいたずらすると、「なに?」と眠そうな目を向けられた。
巨大化しても、やっぱりピーちゃんは私の癒やしだ。
「これからもずっと私と一緒にいてね」
ピーちゃんがいなければ、たぶん私はあのオウムに出会うよりもっと早い段階で壊れていただろう。心も、体も。
「ありがとうね」
「ピュイ」
ピーちゃんの返事が静かな部屋に響く。ベッドは窓際にあるので、外からの月明かりが薄いカーテン越しに愛鳥の顔を白く輝かせていた。
私も目を閉じて今日一日を振り返る。大変だったけど、元の世界で過ごすいつもの一日よりずっと良かった。
そういえばあの茶髪の兵士さんは大丈夫だろうか。ピーちゃんが掴んだところ、痣になったり骨にヒビが入ったりしていないといいけど。近いうちに改めて謝りに行きたい。サイーファスさんは連れて行ってくれるかな。
疲れていた事もあってすぐに寝付けそうだったが、一度沈みかけた思考は胸の苦しさでまた呼び覚まされる。
私は目を開けて、おずおずとピーちゃんに言った。
「あのね……ちょっと重いかな」
軽く頬を押してどかそうとすると、眠りかけていたピーちゃんはまぶたを閉じたままで「ピャア」と文句を言いながら、私の上から大きな頭をどかしてくれた。
首を∪の字にひねって、頭を自分の背中の上に置く。
鳥がこの体勢になるのは寒いから、あるいは体調が悪いからとも言われているようだが、ピーちゃんの場合、気温や体調は関係ない。
“マジ寝”の体勢なのだ。文鳥の時もたまにやってたけど、首の骨どうなってるんだろうと思う。
でもこの寝方をするってことは、安心しているって事。この里や家を安全な場所と思っているんだろう。森の中で寝た時には、周囲を警戒して首は起こしたままだったから。
(でも結局、ピーちゃんが大きくなった原因は分からずじまいだったな)
本気で寝に入ったピーちゃんをぼんやりと眺めながらそんな事を考える。
私は中身がピーちゃんであれば大きくても小さくてもどっちでもいいんだけど、本鳥は自分の変化に気づいているんだろうか。
全然気にしていないふうだったけど、気づいているならどう思っているのか訊いてみたい。文鳥のままの方がよかったのかな。それとも今の姿を結構気に入っているのかな。
「おやすみ……」
ベッドから腕を垂らしてピーちゃんに触れたまま、私はこの世界で最初の安らかな夜を迎えた。
明日目覚める事が、そしてそこから続く毎日が、楽しみで仕方がなかった。
☆☆☆☆☆
その鳥はとても満足していた。
この新しい世界が鳥の大切な飼い主にとって素晴らしい世界になるのかはまだ分からなかったが、少なくともこの場所は安全なところだから。
この家には鳥の嫌いな“おかあさん”はやって来ないし、四角い電話が忙しなく鳴り響く事もない。飼い主はここでも仕事をするのだろうけど、元の世界でのようにやつれるまで働く必要はなさそうだ。
今、隣で眠っている飼い主の心は、とても静かで穏やかだった。それが鳥は嬉しい。
まだ気持ちの悪い黒いものが飼い主にまとわりついてはいるけれど、この世界へ来てから少しずつ取れていっている事にも気づいたから、焦らずに待つ事にした。
この里に暮らすエルフというらしい背の高い人間たちも、きっと飼い主の事を助けてくれる。
鳥は飼い主が大好きだった。
自分などよりも同じかごにいた二匹の方がくちばしもしっかり大きくて、胸もふっくらしていて、毛並みも綺麗だったのに、飼い主は自分を選んでくれたのだ。
そうして、たくさん褒めてくれた。
最初は何を言われているのか分からなかったけれど、好意的な感情はしっかり伝わってきた。
今は「かっこいいね」「強いね」と言われるのが一番好きだ。「可愛いね」もたまにはいいけど……鳥は雄だから。
目を少し開けると、首を伸ばして、隣で熟睡している飼い主の胸の上に頭を乗せた。
「うっ」と飼い主が眠りながら眉間にしわを寄せたが、鳥は気にしない。自分がくっつきたいからそうするし、こんな事では飼い主は自分を嫌わないという確信があるから。
鳥はとても愛されているのだ。
そして鳥も、それ以上の愛を返したいと思っている。
ふと、鳥はあのオウムの事を思い出した。ベランダに落っこちているのを見た時には外敵かと思って警戒したが、すぐにそのオウムが普通の鳥ではない事に気づいた。体は確かにオウムだけど、内側から柔らかで温かい光を放っていたのだから。
中には自分たちより高位な存在がいるのだと分かった。
弱っていたオウムに大丈夫かと尋ねると、「羽が変なふうに曲がってしまったの」と、頭に響く不思議な声が返ってきた。「肉体を得るって大変ね」とも。
中の存在は少し派手好きのようだが、この辺を飛び回るなら、窓からよく姿が見えるカラスやスズメになった方がよかったのではないかと思った。
するとそれが伝わったのか、
「あの子たちはあの子たちなりの美しさがあるけど、私の器としては少し地味ね」
と高飛車に言う。
確かに鳥にも、スズメたちより自分の真っ白な毛色のほうが綺麗だという自負はあった。飼い主からより愛されるために、水浴びや毎日の毛づくろいを欠かした事もない。
オウムは口は達者だが片翼を痛めているのは確かだし、肉体だけでなく中の光も弱っているようだったので鳥はとても心配になった。
飼い主以外の生き物を今までこんなふうに気にかけた事はないが、このオウムが尊い存在である事は分かるし、消滅させてはならないと感じるのだ。
ぼくのやさしいかいぬしをよんでこようか?
鳥がオウムにそんなふうに問いかけた時、ちょうど後ろから飼い主がやってきた。そうしてオウムは飼い主から力を吸い取り――鳥はそれを嫌だと思ったけど、オウムが元気になるには仕方のない事だとも分かっていた――飼い主と、そして自分を見つけてくれた鳥に恩返しをすると言った。
「ソンナあなたたちにー、オウムの恩返しー!」
オウムは肉体を使って声を出すと少し片言になるらしい。
飼い主は望みを問われて少し迷っていたようだが、鳥の望みは決まっていた。
鳥は、飼い主を傷つける人間たちが大嫌いだった。
それらの存在のせいで、鳥の大切な飼い主はだんだんと弱っていっているのだ。近いうち本当に倒れて死んでしまう予感が鳥にはしていた。
飼い主の体には限界が近づいていたけど、鳥にできる事はほとんどなかった。
だけどその代わり心の方を一生懸命に癒していたのだが、“おかあさん”がそれを簡単に壊していくのだ。
飼い主はもう麻痺していて痛みを感じなかったのかもしれないが、“おかあさん”が発する言葉は、たまに容赦なく飼い主の心をえぐっていく。鳥がせっかく癒やしたところを、いとも簡単に元に戻してしまう。
体の限界が先か心の限界が先かは分からなかったが、このままでは飼い主が壊れてしまうと思った。
そして鳥は、そんな飼い主を守りたいと思っていた。
一年前、飼い主によって自分が救われ、守られてきたように。
けれど、鳥の小さくひ弱な体では、飼い主の留守中に家に上がってくる“おかあさん”を追い出す事もできないし、飼い主にかかってくる嫌な電話を奪ってしまう事もできない。
こんな小さな体では、何もできない。
もっと大きく、強くなりたいと鳥は願った。
翼の下で飼い主をかくまえるくらいに大きく、飼い主の敵を全員倒せるくらい強くと。
「強く」という単語で鳥が思い浮かべたのは、テレビに映っているのを見た事がある鷲や鷹の姿だった。あんなふうに鋭い瞳と、何でも引き裂けるくちばしが欲しかった。
大事な翼はそのままに、足の鉤爪も武器になるだろうから一本や二本増えてもいいかもしれない。
だけど真っ白な羽毛と、くちばしの桜色はそのままがよかった。飼い主がその美しさを特に褒めてくれるから、いつからか鳥の自慢になっていたのだ。
「心カラの望みを口に出せバ、叶えてあゲルのー」
オウムのその言葉に飼い主はやがて自分の答えを出し、そして鳥も、最初から決まっていた望みを述べた。
「――私、母のいない世界に行きたい」
――つよくなりたい。かいぬしをまもれるくらいに。
「それが望みナのネー」
そうして、二つの願いは叶えられたのだった。
本編はこれで完結です。
お付き合いありがとうございました!
あとは後日談を上げて終了になります。