池山葉月
一年という歳月を経てすっかり便所飯愛好者となった私が、大学二年目の今、再び春の学食を訪れたのは、だから何か気の迷いに違いなかった。ガラス扉を押開けると、白いテーブルと茶色い椅子が並ぶ。吹き抜けから採られた光は少し、暑い。時間はまだ昼休み前ということもあって、それなりに空席も見られた。早めの昼食を楽しむ輩や、机に陣取ってレジュメを広げる輩にびくつきながら、学食のカウンターに向かって私は亀と同程度の速度で足を動かした。
カウンターまでの遥かな道程を半分近く消化したところで、実に意外なことにひとつの声が私を引き止めた。あまりに予期しない出来事だったので、はじめ私はその声を無視した。大学構内で自分を呼び止める人など、一年間誰もいなかった。この声も私に向けてのものでないと断じたのも無理からぬことであろう。
「若松、無視とは非道いじゃないか」
声の主は続けた。私は無視を続けた。若松なんてそう珍しい姓でもない。きっと私の知らない若松さんだろうと私は判断した。
「若松巴、待ちたまえ」
自分のフルネームを呼ばれてはじめて、私はこの上なくぎこちない表情で振り向いた。そこにいたのは、灰色ジャージ姿で紅樺色のナチュラルショートヘアを手櫛でくしゃくしゃとやっている女。寝起きのまま大学に登校したかのような彼女に、私は見覚えがある。確か独語のクラスが同じで、書生気質の言葉遣いと周囲の視線をまるで気にしない立ち振る舞いから、私のように陰鬱と孤立していたのではないけれど、周囲からは浮いた存在であったと記憶している。それだけに目立つ人でもあったので、私も覚えていたのだろう。名前は確か、池山葉月。
「えっと、私に何か? 池山さん」
そう答えた私の声は、裏返っていなかっただろうか。衆目のある中で発声したのは、実に久しぶりであったので、訳の分からぬ気持ちの高揚と羞恥でもって、顔が熱を帯びていくのが分かった。
「これは重畳。君がわたしの名前を覚えてくれているとは意外だったよ」
一瞬驚きの表情を作った後、彼女はにんまりとした笑顔に変わった。長い睫毛が印象的である。意外なのはこちらの方だと私は思った。一体私に声をかける理由はなんであろうか。私に声をかける理由を持ち得る人間が果たしてこの世に存在するか。頭の中ではそんな答えの見つかりそうにない問いを益も無く繰り返すも、端から見た私はそれは見事な呆けっぷりであったろう。
「まぁ、立ち話もなんだ。どこか席に着こうじゃないか。食事もするなら、先に何か頼んできて構わないが」
彼女の言に、いやまぁ私は、などと曖昧な返事をして空席を目で探った。目先に無人の席を見つけると、私と池山葉月は対面して着席した。
「えっと、私に何か? 池山さん」
先程と一語一句同じ言葉を、私は繰り返した。ここでウィットに富んだ切り出し方のひとつもできないものかと、私は自分のコミュニケーション能力の低さにほとほと嫌気がさした。少なくとも壊れた音声再生のように全く同じ文句を繰り返すというのは、文学生にあるまじき語彙の貧弱なるを晒すようなものではないか。などと、黙考し赤面した。
「あぁ、実は君を勧誘しようと思い声を掛けさせてもらったのだ」
恥じ入る私の内心は存ぜぬ態で、彼女は言った。単刀直入、簡潔明瞭な説明であった。あまりに簡潔すぎて、言葉以上の意味を汲み取ることができない程に。
「勧誘?」とわけも分からず頭の上に疑問符を浮かべる私を見遣り、彼女は意地の悪そうな微笑を露にしながら、軽く波打つ髪に手をやってくしゃくしゃとかき混ぜた。
「失敬、あまりにいきなりな物言いだったかな。実はこの度、知人達とちいさなサークルを立ち上げてね。そのサークルに見合う人材として、君をスカウトしたいと思った訳だ」
言葉改めてもいきなりな物言いには違いない気もするが、そんなことよりも私を人材登用しようという彼女の思惑に対する疑念が頭の大半を占めていた。私という人間は、如何なるサークルにおいて必要とされるであろうか。大学生活で他者の目に留まるような才を発揮した記憶は残念ながら無い。とすると、池山葉月は私こと若松巴という人間を勘違いしているか、あるいは私を誰かと勘違いしている。でなければ私を人材などとは言わないだろう。私は一年間便所で飯を食っていただけの女だ。勘違いで才を見込まれても、後々失望を生むだけであるから、この勧誘は断るが無難だろう。
そう思う一方、やはりサークルというものの魅力を感じない訳ではない。なにより、大学において孤独に苛まれる必要がなくなるのは大きい。あの素敵なトイレットでの静謐な食事とも離別することになる。サークルの友人と華やかに油にまみれた学生街の食事を囲めば、たちまち私のリアルも充実。逡巡をよそに、彼女は続ける。
「それで肝心のサークルの活動内容なのだが、」
正直サークルの中身は私にとって肝心ではなかった。
「食事研究、といってもクソ真面目な研究ではなくて、要はサークルの仲間で大学界隈の飲食店を食べ歩いたり、あるいは弁当や新たに発売された食製品を持ち寄って軽く品評したりしようというものだ」
前言撤回。渡りに船。私がサークル活動に見出す最大の価値と、活動内容そのものがこうも密接であるとは。
しかし、私をそのサークルに勧誘する理由は依然として判然としない。むしろサークルの性格を知ってより謎が深まった。繰り返すが私は大学入学以来便所飯を嗜んできた。大学界隈の食に関する知識は常人よりも乏しいといって差し支えないだろう。強いていえば、周囲に食事していることがばれないような音の立たない食料選びに長けていることぐらいだろうが、その能力が彼女及びサークルのためになるとは考え難い。やはり彼女の勘違いか。
「それで、どうして私を?」
口にしてから、すこし後悔した。わざわざ私に対する評価を追求して、彼女が考え直してしまったら。間違いに気付いてしまったら。蜘蛛の糸のようなサークルへの希望は完全に断たれることになりかねない。そう思うくらいに、私の心は入会へ傾いていた。
「理由は二つある」
欧州風に親指と人差し指で二を表現する彼女の声は凛としていて、唇は紅かった。私の心拍が不規則に速まる。
「ひとつ。一年間便所飯を満喫し、孤独と静寂の食事を知る者にこそ、このサークルの活動意義を理解して欲しいと思うからだ」
「あの、いまなんて?」
およそ他人の口から聞くことの無いはずの言葉が飛び出して、おもわず狼狽した。
「いや、だから君のように便所飯を熟知する者を、我がサークルに……」「なんで…」
流石に聞き逃すことができずに、彼女の言葉を途中で遮った。
「なんで、知ってるの?」
生傷を容赦なくえぐる言葉のナイフの出所は突き止めなければならない。顔面蒼白で、そのくせ目だけは充血させながら見開いていたであろう私は、彼女の大きめの瞳にどのような印象で映っていただろうか。必死さの塊となった醜い女であろうか。無理もない。私は醜さを厭わない程に必死であった。
「ん? あぁ、なぜ君が便所飯を嗜んでいることをこのわたしが知っているのか、そう問いたいのだね」
いまにも懐から煙草の一本でも取り出して紫煙をくゆらすのではないかと思うふてぶてしさが、眼前の彼女にはあった。言うまでもないが、大学の構内において所定の場所以外での喫煙は固く禁じられており、この学食も禁煙である。そして彼女はもちろん喫煙などで停学や退学をくらうような馬鹿ではなかった。
「その問いの答えは、君を勧誘するもうひとつの理由とも関係するのだが」
煙をぷかぷかやるかわりに、彼女は長くない髪をまたくしゃくしゃとやった。どうやらこの粗雑な手櫛は池山葉月の癖であるようだ。気取らないシャンプーの香りが手櫛の度にひろがる。
「実は語学クラスで初めて見たときから、わたしは君のことが気になっていたので、君の構内での行動を一年間それとなく観察させてもらった」
なるべく人目につかないように大学生活を送っていたつもりではあったが、かといって誰かしらの監視の目があるとも考えなかったので、なるほど注意深く私を追えば日頃の私の餌場を特定することは困難ではなかったはずだ。彼女がそのようにして、私の昼食場所を知り得たことは納得できる。けれども根本的な疑問が残る。すなわち彼女はなぜ軽くストーキングまがいな行為をしてまで私を注視するのか、という疑問である。
「私が気になったって……どうして?」
「なぜと問われると、非常に卑俗な理由で恐縮してしまうのだが」
全く恐縮するそぶりなどない。彼女は恐縮の意味を知っているのだろうか。
「君があまりに美しかったから。つまりは一目惚れだ」
相変わらずふてぶてしく据えられた眼光はまっすぐ私を捕らえる。周囲の雑音が俄に遠のいた気がした。
「池山さんがそういう冗談を言う人だとは、知らなかったな」
「冗談じゃないさ。本当のことだ」
人間関係にすっかり乏しくなっている私には、彼女の言葉の真贋を見極めるだけの感覚の鋭さがあろうはずもない。只々、頭の中が、胸の内が、複雑にかき回される。大学という場は、これほどまでに精神が激動する場であったろうか。先程から、私の精神は彼女のせいでぐらぐらと不安定に揺れっぱなしだ。
「誤解のないように加えて言っておくが、惚れたというのは恋愛対象としてという意味だ。わたしはバイセクシャルなんだ」
揺らすだけでは飽き足りないらしい。わたしの冷静な思慮を木っ端みじんに吹き飛ばしてくれる。白昼堂々一体何をカミングアウトしているんだ、この女は。
誤解のないように加えて言っておくが、私はヘテロセクシャル……だと思う。
「つまりは君の食事環境とわたしの個人的な君への好意が君を我がサークルへ誘う理由だ。後者の理由について、軟派といわれるのは本意ではないが、そう捉えられても仕方がないことは認めよう。しかし、だからといってわたしの誠意は胡乱なものではないし、また君がサークルへ入会する場合にもわたしとの恋愛関係を要求するつもりはないので、その点は安心したまえ。まぁ、わたしの好意については副次的なものと考えてもらって構わない。あくまで孤独と静寂の食事を知る君に我がサークルの意義を理解してもらいたいというのが主たる理由である訳だからね」
饒舌な彼女の言葉は、ろくに頭に入ってきてはいなかった。それでも私は情報をかいつまんで整理しようと試みる。ひとつ、池山葉月は私をサークルに勧誘しており、そのサークルは便所飯から私を解放し得る。ひとつ、彼女には私の便所飯の習癖はバレている。ひとつ、彼女は私に好意(恋愛対象として)を持っている。これらの情報は、サークルへの入会を決める材料としてあまりに乏しいようにも思えるし、あまりに充分であるようにも思える。彼女は言葉を続ける間に、サークルの入会用紙を取り出した。
彼女池山葉月は今、その誠意は胡乱でないと言った。対する私は胡乱な精神から脱しないまま、気付くと入会用紙にサインしていた。彼女の不思議な雰囲気に呑まれてしまった気がしないではないが、不思議と後悔はなかったし、これから先後悔することもないだろう。なぜか、そう思えた。