7 わかってるってば
社長は結婚の話に、ぜったいに首を縦には振らなかった。
眞子のお母さんが病気でもう長くないってわかったとき、「親に許してもらえなくてもいい、高垣を捨てて結婚する」タカはそう息巻いた。
でも、結局できなかった。高垣コーポレーションを出て仕事を探そうとしても、そんなに簡単には見つからない。おまけに高垣家からの圧力が方々にかかる。タカを雇ってくれるのは、その圧力も及ばない小さな会社とか、そんなところだけだった。
母親を亡くして孤独になるであろう眞子に、タカは暖かい家庭をあげたかった。だから、高垣を捨てて眞子と結婚してもだめだと思ったのだろう。子育てで悩んだとき、熱を出した時、頼れる人が誰もいないのは辛い。双方の親がいないということは、そういうことだ。生まれてくる子供には、おじいちゃんもおばあちゃんもいないことになる。眞子の寂しい幼少時代を知っているからこそ、タカにはその未来が受け入れられなかった。眞子の子供には幸せになってほしい。それが眞子の幸せだから。
そして眞子も、駆け落ちは嫌がった。大学時代からタカは後継者になることだけを考えてずっと努力をしてきた。もっと言えば高校時代からそうだったんだと思う。そんなタカの努力を無駄にしてほしくないからと、眞子は思ってた。眞子はそういうことを口に出しては言わなかったけど。
だから、タカは高垣を捨てずに眞子と結婚する道をずっと模索した。
眞子も、タカが高垣を捨てずに結婚できる日を待っていた。
結局眞子のお母さんは四年前に亡くなって、眞子の幸せな姿を見ることはかなわなかった。たぶんこのころからだ。眞子がタカとの結婚を諦めはじめたのは。
「わかってるよ」
私もタカと同じ言葉を口にする。
眞子だって、私だって、タカだって、みんなわかってる。
わからず屋なのは、あの社長だけだ。
私たちはだてに十五年以上も一緒に過ごしてきたわけじゃない。お互いが考えていることなんてお見通し。
だからこそ、辛い。
マーブル模様は混ざりきらず、それぞれの気持ちがぐちゃぐちゃに絡まりあっていく。
コーヒーに垂らしたミルクが渦を描くのを見て無性に腹が立った。
――わかってるよ。
だから文句なんか、一つも言わなかった。言えなかった。眞子とタカが別れたって聞いたときも、タカのスケジュールに食事会という名のお見合いが食い込んできたときも、その食事会の後に時々プライベートな用事のために夕方以降の予定を開けなくちゃならなかったときも、結婚式の日程は仕事上いつ頃がいいかという質問をぶつけられたときも。文句なんか言わなかった。
「美優はいい子だ」
タカがもう一度言った。自分に言い聞かせるように。
「見合いなんて本当に勘弁してほしいって思ったよ。親が決めた相手なんて絶対に好きにならないって。でも、あの子、いい子なんだ。この子なら諦められるって思った。あきらめてこの子と結婚しても、きっと幸せにはなれるだろうって。この子を好きになれるだろうって思ったんだ」
馬鹿だな、本当に、この男は。
馬鹿だ。
気付いてないの? あの子、そっくりだよ。
眞子に、そっくりなんだ。
仕草や、時折見せるほんのりとした笑顔が。
社会人になってからずっと眞子のそばにいたせいか、似てるんだ。
あんたが好きなのは、結局眞子なんだよ。
御嬢さんを好きになんて、なれてないよ。
何で気づかないんだよ。
お前、どれだけ不毛なことしてるかまだわかってないのか。
馬鹿か。馬鹿なのか。
そのすべての言葉を飲み込んで、私は頷く。
髪を短くして全部捨てたはずなのに、どうしてかひどく胸が痛い。
「ねぇ、私……」
私はタカを見つめた。
「……社長のとこ行って、言いたいことぶちまけちゃダメかなぁ」
眞子の平手打ちが炸裂すべき相手は、あの物わかりのわるいおっさんだったんじゃないか、そんな気がしてきた。
「やめろよ。何を言ってもあの人は動かない。お前が仕事をやりにくくなるだけだ」
「いいよ。私、どうせ辞めるから」
「えっ」
「当たり前でしょう。眞子のこんなにそばであの子と結婚したタカを見てられるほど、私の神経は太くない。担当替えをしてくれないなら、辞めるから」
そう言って立ち上がった私の腕を、タカが思い切りつかんだ。
痛いっつーの。
「なんでお前が辞めるんだよ。眞子が辞めるならともかく」
本気で言ってんのか。
私はタカをにらみつけた。
あの子が今仕事を辞めたらどうなるかわかるだろうが。
お母さんをなくして天涯孤独の身で、仕事を辞めるなんてどれだけ危険か。
私たちはもうすぐ三十四だ。
特別容姿に恵まれているわけでもない。
仕事がむちゃくちゃにできるわけでもない。この会社でそれなりに仕事はしてきたけど、特殊なスキルがあるとか、営業成績がトップでヘッドハンティングがバンバン来るとかじゃない。
お金持ちの家で育ったわけでもない。
実は両家の子女でしたぁ小公女みたいだねぇテヘッ、なんてこともない。
私にも、眞子にも、そういう特別はない。別にそれを不幸だと思ってるわけじゃない。世の中の大半の人は普通だ。
タカやあの御嬢さんが際立つのは、私たちみたいな普通の人たちがいるから。物語の主人公にはなれないパンピーが。
パンピーな眞子は仕事をやめられない。
身寄りもない、守ってくれるもののない三十四歳が職を失うなんてありえない。
だからせめて、私が辞めてやる。
年をとった親のすねをちょっとかじることになるかもしれないけど、貯金もそこそこある。何とかなる。
少なくとも、眞子よりは辞めやすい。
――そうだ、辞めよう。
眞子が気兼ねなく、こいつの悪口を言えるように。
私はこいつに気を使うことなく、こいつの私生活を知ることなく、思いっきり眞子の味方をしてやれる。
「ばぁか」
あんたのお見合いのためにスケジュールを調整しながら、眞子に会うのがどれだけ気まずかったかわかるのか。その私の気持ちを察した眞子が、私が気を遣わなくて済むようにって私を夜ご飯に誘わなくなったのを知ってたか。
眞子はそういう子なんだ。いっつも遠慮ばっかりして、人に気を使って、欲しいものを欲しいと言えない。だからあんたと別れたんだよ。あんたの幸せを祈ってね。