6 わかってるんだ
タカ、は専務の昔のあだ名。本名は高垣聡史。高垣コーポレーションの現専務で、現社長の息子。つまり、次期社長。
私とタカは高校から一緒で、眞子とは大学で知り合った。
同じ大学の同じ学部に進学した知り合いがタカしかいなかったために、入学直後の4月、私はタカとずっと一緒にいた。そこにサークルで出会った眞子が加わった形で私たちは3人組になった。気が合ったのだろう。気が付いたら4年間のほとんどを3人一緒に過ごしていた。
「お前がなんと言おうと、俺たちがずっと過ごしてきた時間がなくなるわけじゃない。そうやって全部なかったことにしようとするのはやめろ」
――はぁっ?
かろうじて口からは出なかったが、顔には出ていたはずだ。
なかったことにしようとしてるのはどっちだ。眞子の存在を掻き消すようなことをしておいて。社内ですれ違ったってろくに挨拶もしないくせに。
「髪、こないだのことが原因なのか。眞子と美優の」
「違うってば。最近暑いし、ずっと同じ髪型で飽きたから切ってみただけ」
「それにしたって切りすぎだろ。もっとフェミニンなショートとか、あっただろう」
出た、フェミニンなショート。ありましたとも、すすめられましたとも。
でも私がリクエストしたのはメンズのヘアカタログに載ってたこの短髪。ベリーショートって言えば聞こえはいいが、要は短髪だ。男の人みたいな。
髪型に合わせて化粧も色味を押さえ、アイラインだけは強めに引くことにした。おかげでどこかの歌劇団の男役を彷彿とさせる仕上がりになってる。
もう、よくわからない。私は髪を切って何がしたかったんだろう。
「……言いたいことがあるならはっきり言えよ」
私の表情から色々なことを読み取ったらしいタカがつぶやく。
「山ほどあって、始業時間までに言い切れない」
私が冷たく言い放つと、タカはため息をついた。
「どうしたらわかってくれるんだ」
はぁ? わかる?
そんなの、無理に決まってる。
理解なんてできるわけない。
眉間に思いっきり皺を寄せ、鼻をぐっと持ち上げた。
口角が意志とは無関係にぴくぴくと動く。やだ、何これ、顔の筋肉が痙攣しちゃってる。ストレスでこんなことになるなんて。
「美優はいい子だよ」
呟くような声に視界が暗転しそうになる。
うぉい。こいつ、私を本気で怒らせたいのか。
「今日、午前の予定は割と余裕あっただろ。ちょっと座って話さないか」
タカの提案に、怒りは増すばかりだ。
こいつ、こういうところ、本当変わんないよね。
坊ちゃんってみんなこうなのかな。
平和的解決ってやつ?
こっちは怒鳴り合うくらいしないと、スッキリなんて到底できないんですけど。
「久美。コーヒー入れるから、とりあえず座って」
いつの間にか近くに来ていたタカが私の腰をぐっと押してソファーに座るように促す。
「ちょ、触んないでよ」
私はそう言いながらその手を避けるように腰を引き、ソファーに回り込んで腰かけた。
「嫌われたもんだな」
タカが自嘲気味に言う。
「あたりまえでしょ」
私は強く言い返す。
眞子が言えないことは、私が全部代わりに言ってやる。
あの子ができないことは、代わりに全部私がやってやる。
平手打ちだって、私が代わりにやればよかったんだ。
失敗した。出遅れた。
いつだって私は一歩遅い。
そのせいで大切なものを失う。
「俺はお前を大事な友達だと思ってる。秘書としても信頼してる。だからできればこれからも一緒にやっていきたい」
何を寝ぼけたことを言ってるんだ。いい加減にしろよ。あの御嬢さんに秘書になってもらえばいい。あの子、人当たりがいいだけじゃなくて、すごく優秀なんだってな。眞子が言ってた。あの子が入社して以来指導係として長い時間を共に過ごした眞子がね。眞子とあの子は今でも同じ部署の先輩後輩だ。
言葉にならない。
悔しい時も、悲しい時も、感情が突き抜けてしまったら、言葉なんて出てこない。
言葉で表現なんてできない。
悔しい。悲しい。そんな、数文字で表現できるようなものじゃない。
色で言うと、マーブルカラーみたいなやつ。
いろんな色がぐちゃぐちゃに混ざっていて、でも混ざりきらなくて、悶々と互いにはじきあいながら絡み合ってる。そういえばこの間仕事で行った住宅展示場のキッチンのパネルがマーブル模様だった。きっと私の今の心、あんな感じだわ。
くらーい色の、マーブル。
冷たい、大理石のような。
ヒロインの恋敵キャラの親友ってなんだ。私、いつからこいつ主演のメロドラマで脇役のさらに脇役をつとめるようになったんだ。
「主演は眞子でなきゃ」
ふと口をついて飛び出したその言葉に、私は思っていた以上のダメージを食らった。
ウッと声が漏れる。
何だこれ、私、泣き出したぞ。
何だって、こんなところで、こんな奴の前で、嗚咽を漏らしながら泣かなきゃいけないんだ。涙は全部、こいつのせいだというのに。
どうしてこんなにマーブルなんだろう。
眞子の幸せを願ってる。
タカの幸せも願ってる。
二人の幸せを願ってた。
ずっとずっと、願ってた。
なのに、どうして、どちらか一方なんだ。
二人で幸せになってくれたらよかったんだ。
タカが幸せになることで眞子が傷つくなんて。
そんなの想定してなかったよ。
馬鹿なんだ、私。
馬鹿なんだよ。
想定してなかったから、追いつかないんだ。
気持ちが追いつかないんだよ。
「別れることになった」って聞いたあの瞬間から、私の思考は止まっちゃったんだ。
そのあと何度タカに会って、何度眞子に会っても、私の気持ちは追いつかない。
「付き合うことになったんだ」って聞いた、あの15年前から、私の気持ちはずっと止まったままなんだ。あの時の輝くような二人の笑顔が、心の底に染みついたまま離れないんだよ。
「なんっ……なんっ……」
私は声を絞り出した。
「何?」
タカは私の前にコーヒーを置きながら、はす向かいのソファーに腰を落とした。
「なんでっ……なんでっ……なんで眞子じゃないんだよっ」
私はあっついコーヒーを涙で薄めながら言った。
「それを今言うか」
タカの言葉に、コーヒーをぶっかけてやりたくなった。
「……ずっとずっと言ってやりたかったんだよ……!」
知ってる。
高垣の家柄には眞子は釣り合わなかったってこと。
タカはそんなこと思ってもいなかったけど、タカのご両親がそう言ったこと。 タカはずっと、それに反抗して頑張ってたこと。
いつか認めてもらうって、ずーっと耐えていたこと。
傾きかけた会社を立て直して父親に認めさせて、堂々と眞子と結婚するっていってそれこそ東奔西走していたこと。
少しずつ業績が上向きになってきて、ここぞってときにリーマンショックが起こって、ぐんとまた肩を落としたこと。
それでも私は、いつか必ず眞子とタカが幸せになれるって信じて疑わなかった。
「あの金曜の話は、眞子を本気で責めたかったわけじゃない。俺がああやって眞子に対する怒りを示すことで、美優は自然と俺をなだめる役に回る。そういう構図にしたかったんだ。だから大げさに怒って見せた。美優の中にはもう、たぶん眞子へのわだかまりはないだろう」
何を言ってんだろう、この人は。
眞子の中にはあの御嬢さんへのわだかまりが積り積もって、いまにも押しつぶされそうだというのに。
「なんで、眞子じゃないの」
何度目かになるその言葉を、今度はゆっくりと吐き出した。
「納得できない?」
タカの問いかけに迷わずうなずく。
できるわけが、ない。
「俺もできなかった。ずっと」
タカは立ち上がってくるりと後ろを向く。
いつも涼しい顔をしているタカが顔を隠すのは、そこに現れた感情の波を悟られないため。そんなことまでわかってしまう自分が嫌だ。
タカの言葉に嘘はない。ずっと見てきた私は知ってる。
タカのご両親が持ってきたお見合いを何度もタカは断り、無理に入れられた食事会は片っ端からすっぽかした。
秘書である私が彼のスケジュール管理をしていたから、そのことを誰よりも知っている。
社長が体調を崩して「息子が無事に結婚をするまで死にきれない」と嘆いたときでさえ、タカは「親父の体調と俺の結婚は別物だ」と言って聞かなかった。
「このまま認めてもらえなかったら眞子が不幸になると思ったときにやっと諦めがついたんだ。もう俺たち三十四になるんだぞ。俺はいい。でも、いつになるかわからない結婚のために眞子に婚期を逃して欲しくなかった。眞子は子供が好きだ。祝福されて結婚して、子供を産んで、幸せになってほしい。だから手放した。そして、俺が独身でいる限り眞子はきっと前に進まないと思ったから見合いの話を受けた」
「眞子が欲しかったのはタカとの子供だよ……!」
この大馬鹿野郎が! 大っ嫌いだ!
「わかってるよ。わかってる」
タカがコーヒーを持つ手はかすかに震えている。
その様子に私は馬鹿野郎、という言葉を飲み込んだ。
眞子は私生児だった。父親はわからない。眞子のお母さんはかつてとても奔放な人だったから。一夜の恋なんていうのもざらだったそうだ。それを生業にしていた時期もある、とも言っていた。そんな生活の中で十代で眞子を授かった。望まない妊娠だった。気付いたときには中絶できない週数に入ってたから、仕方なく眞子を産んだ。だけど、眞子が生まれてからは生活を改めた。
未婚の母には逆風が吹きすさぶ世の中で、昼も夜も働いて眞子を大学までやった。眞子は大学で奨学金をもらっていたけど、私立の大学に女手一つで眞子を通わせるのは、たぶん並大抵の苦労じゃなかったと思う。仕事が忙しすぎて眞子の世話をできないからと、幼い眞子は児童養護施設に預けられていた時期もあったという。それでもお母さんは時間を見つけては眞子に会いに来てくれたそうだ。眞子はそんなお母さんを心から尊敬して、慕っていた。どこかの公衆トイレや草むらで、へその緒のついた嬰児の遺体が見つかった。そんなニュースが流れるたびに、眞子は「私がその子だったかもしれない。そうならなかったのは、ひとえに、育ててくれた母のおかげ」と言っていた。
そんなお母さんを安心させてあげたい、という眞子の気持ちをタカはちゃんとわかっていて、二人は大学を卒業してから生活が落ち着くとほどなくして結婚を意識し始めた。
そこで待ったをかけたのが、社長であるタカのお父さん。
この時ほど高垣コーポレーションに就職したことを悔やんだことはなかった。親友の結婚を阻む憎き敵の下で働かざるを得ないのが歯痒かった。秘書の業務で社長と顔を合わせることも多い。その度に胃が熱くなった。