4 専務
「おい、お前、その頭――」
専務の言葉にほくそ笑んだ私は、軽い頭をひょいと横にかしげて見せた。
「どうかなさいました?」
専務に引き続き、その隣にいた美優も驚きの声を上げる。
「あんなに綺麗な髪の毛……お切りになったんですね……」
私がまっすぐに彼女を見つめて小さくうなずくと、困惑した表情が一瞬凍り、はっとしたように瞳を揺らしした。
私は微笑みを崩さず、正面から彼女を見つめ返した。
――そう、今あなたが思った通り。私が髪を切ったのは、金曜の出来事が原因ですよ。
細やかな気配りができるこの子だからこそ、私の気持ちに気付いている。
――ごめんね。あなたに恨みがあるわけじゃない。でも、これくらいさせてね。眞子は髪を切れないから。
ただでさえ金曜の出来事はゴシップ好きの奴らによってもう全部署に広まっているに違いない。今眞子が髪を切ったら、その理由としてありもしないことを並べ立てられて噂になるだろう。
眞子は切れない。
だから、私が切ってやった。眞子の代わりに。悲しみを全部、髪と一緒に捨ててしまいたくて。
眞子はきっと、何もしない。会社へはさっぱりとした顔で何事もなかったように現れるだろう。瞼の腫れをひかせるために普段より早く起きて、蒸しタオルと冷たいタオルを交互に当てて、そして普段通りの顔でやって来る。あの金曜のことなどなかったかのように。そしてこの御嬢さんには心からの謝罪をして、自分の心の痛みはひた隠しにするだろう。
そんな風に幕が引かれてしまう。
私はそれが嫌だった。
眞子の心の痛みをなかったことにして欲しくない。少なくともこの男は、思い知るべきだ。
「さっぱりしました。最近暑いので。朝シャンの後も乾かすのがすごく楽ですよ」
そう言いながら頭をガシガシと掻いた。指に絡まるものがないのは、何とも不思議な感覚だ。
「嘉喜さんは……どんな髪型でもお似合いになりますね」
御嬢さんがきれいな声でつぶやいた。わざとらしくない褒め言葉。
「そうですか? ありがとうございます。頬はいかがですか?」
「もうちっとも痛くないですし、平気です。ご心配をおかけして申し訳ありません。金曜日に手当てをしていただいたお礼を言いたくて、ここでお待ちしていたんです」
彼女の頬に目をやるが、よく見れば少し腫れている程度で痣にもなっていない。
眞子はきっと手加減したんだな。
これは友達の欲目かもしれないが、思い切り人の頬を殴りつけられるほどあの子の心臓は強くない。
「しっかし本当に短いなぁ。男みたいだ」
「ええ。下手したら専務より短いですね。専務の学生時代より」
私はそう言って専務をじっと見つめた。さすがに最後の一言で何かを感じたのだろう。一瞬目を眇め、それから御嬢さんに声をかけた。
「美優、じゃあ、また今夜」
彼女はうなずいてそっと専務の部屋を後にした。
御嬢さんの後ろ姿が部屋から消えた瞬間、部屋の温度がすっと下がった。
奇妙な緊張感に首筋が粟立つ。
「お前、どういうつもりだ」
専務の鋭い声に私は肩をすくめて見せた。
「何がですか」
「なんでわざわざこの週末にこれ見よがしに髪を切ったりするんだ。あてつけのつもりか」
「いつ髪を切ろうが私の自由だと思っていましたが?」
「だからって何もこのタイミングで切らなくてもいいだろう。それに、お前は俺の秘書だ。接待もある。公式の行事もな。それにふさわしい髪型でいるのは仕事上当然の配慮だろう」
「それなら配置転換をしてください。私は以前から異動願いを提出しているはずです。異動先の部署に希望はございませんから」
ぐっと専務は言葉を詰まらせた。当たり前だ。専務があの美人と付き合い出したときから、私は再三異動を願い出てきたのだ。やりにくいから変えてくれと。それを認めずに私をずっとここにとどめ置いたのは、ほかならぬこの男だ。
「その敬語も嫌がらせか」
「あら、お忘れですの? お仕事上では常に敬語を使わせていただいていますわ、専務」
慇懃に言ってやる。
どうだ、あの御嬢さんの口真似だ。
「眞子とお前は別だろう」
「何のことをおっしゃっているのかまるでわかりませんわ。私はただ髪を切っただけで責められているのですか。この髪型の秘書を連れて社外へ出るのがお嫌なら、担当替えをしてくださっても結構です。異動はすぐには難しいと確かおっしゃっていましたが、異動にまでなさらなくても、秘書課に優秀な秘書はいくらでもおりますから。どうぞ担当替えをしてくださいませ」
ませませ。
なんだ、ませって。
こんなのこいつに向かって使ったことない。
「話がずれた。ちがう。なんで、この週末に切ったんだ。金曜のことが原因なのか」
「何のことかわからないと申し上げていますわ」
「その無駄に丁寧な言葉づかいをやめろ。気持ち悪い」
「今は仕事中ですから」
「まだ始業時間まで少しある。友達として話がしたい」
「私にはお話しすることはございません」
なぁんにもござぁせんよ、話なんてね。
「俺にはある。眞子は大丈夫か」
うわぁ、最低。
私は思いっきり顔をしかめてから時計を一瞥した。よっしゃ、オン・タイム。
「あ、始業時間になりましたわ。それでは、今日のスケジュールを確認させていただきますわね、センム」
最後の単語を思いっきり強調してやった。これで、この話はおしまい。
近々きっと担当替えをしてくれるだろう。
こんな針のむしろみたいな状況、専務も嫌だろう。
当たり前だ。嫌がらせしてるんだから、嫌がってくれないと困る。
引き継ぎはちゃんとやるよ、一応給料もらってるからさ。
役付きになってからずっと業務を支えてきた私は彼と彼の仕事を熟知している。
もっと言えば、彼という人間を熟知している。
私が抜ける穴は大きい、という自負があった。
これが私の復讐。
ちっぽけで、みじめったらしいけど。
だって私は、何も持ってないから。
ただのしがない労働者。
そんな私にできる最大の復讐は、彼の秘書でなくなること。
うん、ちょっとは溜飲が下がるかな。