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髪を切るとき  作者: 奏多悠香
本編
4/36

3 これが私の髪を切るとき

「眞子、眞子」


 小さな声でささやくように声をかけた。

 どこにって、トイレのドアにだ。

 カチャリとカギが開いて、中から出てきたのは想像以上にひどい状態の親友だった。想像だって、すでにぼろ雑巾だったのに。

 私は黙って自分のサングラスを差し出した。夏に宴会か何かで使って以来、デスクに入れっぱなしで持ち帰るのを忘れていた代物。

 こんな形で役に立つなんて。


「ありが……」


 ぐっとつまるような音を出しながら親友はそれを受け取ってかけた。

 こんなに短い言葉も最後まで紡げないほどに、この子は傷ついている。その細い肩が震えているのを見て、私は肩に手を回してゆっくりとさすった。


「裏から出ようか。その方が人も少ないし。今日はうちにおいで」


 眞子をこのまま一人で帰しちゃいけない。

 使命感にも似た思いだった。

 肩を抱いたまま彼女のカバンと自分のカバンをひとまとめに肩にかけて歩き出した。さっきの人だかりはすでに霧散した後らしく、トイレから出てもエントランスで誰かに注目されるようなことはなかった。

 ほっと息をつきながら裏へまわり、ドアをぐっと押し開けた。重いドアを開けるのがいつもは億劫で、このドア何とかならないかなぁなんて思っていた。でも今は、そのドアの重さが有難かった。何かを力いっぱい押したい気分だったのだ、重苦しい感情を外に逃がす手段がほしくて。


 外に出ると、叩きつけるような雨が降っていた。

 天気予報は快晴。

 傘は持ってない。

 置き傘はビルの遥か上のほう。

 ここにスーっと黒塗りの車なんか現れて、「ほら、乗って」とか言って、「今日はゆっくりして行くといいよ」なんて言いながらゲストルームのある広い家に案内する。

 そんなことができたら、どんなにいいだろう。

 私にできるのは、びちょびちょになりながら手を思いっきり伸ばしてタクシーを止め、自分の1Kのアパートに彼女を連れて行くだけ。

 彼女はその間も震えながらぽろぽろと涙をこぼしていた。その度にサングラスをずり上げて手で涙をぬぐう。あの御嬢さんなら、きっとここでレースのハンカチで涙をぬぐうんだろう。

 胸が痛い。

 結局彼女はその夜私の家に泊まり、一晩を泣き明かした。

 涙の原因は自己憐憫ではなく、後悔だ。

 彼を失って悲しいから泣いてるわけじゃない。

 そんな涙はとっくに出し尽くしたに違いない。

 眞子は自分がずっと可愛がってきた後輩に平手打ちを食らわせたことを心から悔やんでいた。


「わかっているの。あの子が悪いわけじゃない。わかってるの。あの子、いい子なの。頑張り屋さんで、まじめで。優しいの。いい子なのよ。なのに、『ごめんなさい』って言われた瞬間に、手が勝手に動いてた。こんなことをして、私は今まで以上にみじめになって。月曜にはきっと会社中にこの話が広まってる。辞めてしまえたら楽なのに」


 ――だって、毎日平気な顔をするのは、もう辛いの。


 最後にこぼれた彼女の言葉は私の胸を思いっきり締め付けた。

 本音を明かすことの少ない眞子のそれは、隠し続けてきた本心だ。

 やり場のない悲しみや怒りをどうすればよいのかまるでわからない。

 いい歳して、私には何もできないんだ。

 とうに冷めてしまったココアのマグカップを両手で抱え、ふうふうと冷ますフリをしながら私はこっそりため息をついた。

 朝になり、ようやくいくらか落ち着いて「久美子、迷惑かけてごめんね」としきりに謝る彼女を家まで送り届けてから自宅に取って返した。別にうちにずっと居てもらってもよかったが、気ぃ遣いーの彼女はたぶん、一人の方が落ち着けるだろうから。

 自宅で一人座っていると、表現しようのない感情が自分の腹の底でぐるぐると渦巻き始めた。

 ふつふつ、ふつふつとはらわたが煮えくり返る。

 どうしてやろうか、と思った。

 昨日までだって、考えなかったわけじゃない。

 親友を傷つけたあの男を許せないと思っていた。

 それでも、すべてを知っているからこそ、私は何も言わなかった。

 だけど、ついに抑えきれなくなった。

 このままにしてなるものか。

 あいつだけが幸せなんて、そんなことがあってなるものか。

 ぎゃふんと言わせてやろう、ぎゃふんと。

 ……とは思ったものの、専務と篠原さんの間を引き裂くなんていうのはごめんだ。馬に蹴られたくはないし、下手にそんなことをすれば二人の絆が深まってしまう。まさに眞子が昨日やっちゃったみたいに。


 ――やっすいメロドラマなら眞子は完全な恋敵キャラだな。


 そう思ったら、意図せず喉の奥の方でウッと声が出た。

 専務と篠原の出会いから始まって、二人がめでたく婚約し、そこに嫉妬した恋敵眞子がヒロイン篠原を平手打ちする。ヒーロー専務は大激怒。しかしヒロインの説得により報復は思いとどまり、ヒロインのその度量の大きさに惚れ直す。めでたしめでたし。

 ああ、何て典型的な筋書きなんだろう。

 恋敵キャラっていうのは大概勘違いヤローで「私が彼と結婚するはずだったのに、あんたのせいよ……! あんたの……!」とか騒ぎ出して、二人の仲を引き裂こうと必死で画策するのだ。でも二人の絆が強すぎて引き裂けなくて、腹いせに女に物理的な攻撃をかましてしまい、ジ・エンド。すべてを失ってみじめな末路をたどる。ハッピーエンドを迎えたストーリーの中では、その存在さえいつの間にか忘れ去られる。そういうもの。


 ――当てはまっちゃうよ。眞子。


 冷たいココアの上澄みをすすると、解け切っていなかったらしい砂糖とカカオの粉末がマグカップのそこにドロリと残っていた。


 ――違う。違うのに。


 私は何度も思った。

 マグカップに人差し指をつっこんで、とけ残ったそれを掬い取る。

 眞子は違う。そんな陳腐なキャラクターじゃない。

 学生時代から彼女を知っている。あの子がどれだけ優しくて穏やかで賢い子か。

 物語で描かれる恋敵は大抵性格が悪くてずるがしこい。そして、心の醜さとは対照的に容姿はずば抜けて美しいのだ。だけどそんな人は現実にはそうそういない。ただ、好きなだけ。みんな必死で恋をしている。だからこそ、突っ走ったり間違ったり、ときには誰かを傷つけたりもする。

 恋に破れるまで、そして敗れた後、彼女たちがどれほど苦しみ、それを乗り越え、希望を見出して生きていくのか。決して描かれることのないストーリーが、そこにある。

 人差し指をぺろりと舐めると甘ったるいそれは舌の上でざらざらと解け残り、鼻に抜けるようにカカオがふわりと香った。

 あの御嬢さんからすれば眞子はただの恋敵かもしれないけど、眞子はいい子だ。

 そして……あの御嬢さんも、いい子だ。

 「敵」と「悪」は違う。

 いっそあの御嬢さんが嫌な奴で、「敵」かつ「悪」だったなら、心置きなく恋路を邪魔して叩きのめしてやるのに。

 専務とあの子が婚約してから、ちょこちょことあの御嬢さんと接する機会があったが、不愉快な思いをしたことはない。気遣いにあふれ、優しく穏やかで素直な御嬢さんはどこからどう見てもいい子だった。


 ――私にできることなんて結局何もないんじゃないか。


 無力感に苛まれながらずっとぼんやりしていたら、土曜日が終わっていった。

 そして翌日曜日。私は一つの決意を胸に美容院に行って髪を切ったのだ。

 それはもう、ばっさりと。

 これが私の、髪を切る時。




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