髪を切った女の子・前篇
星崎さん視点のお話です。
〈それでは明日、よろしくお願いいたしまっす!〉
語尾の跳ねたメールを受け取って、思わずふっと声を漏らして笑ってしまった。
近頃毎晩のようにやりとりを続けてきた、年下の女の子からのメール。
――女の子、というのはいくつくらいまでなら許される呼称なのだろうか。
ふと思った。
自分より年下の女性を何となくそう呼んでいるが、来年には40を迎える自分を基準に考えるのはもうやめたほうがいいのかもしれない。
女の、人?
まぁ、いいか。口に出して言わなければ問題ない。
明日はその「女の子」を連れてお買い物だ。
明日に備えて今日は早く寝るとするか。
「おはようございまーすっ! お待たせしてしまって申し訳ありません!」
翌朝、待ち合わせ時刻のきっちり15分前に現れた「女の子」はいつも以上に楽しそうな笑顔を浮かべて駆け寄って来た。スラリと身長が高く、パンツスーツが良く似合っている。
いい笑顔だ。自然とこちらまで笑顔になる。
今日のお買い物は「女の子」本人ではなく、そのお友達のためだ。
『私が好きなのはシンデレラです。だから、最終決戦の場は夜会に美しい衣装、見違うほどの大変身、と相場が決まってるんですよ』
そんな彼女の言葉通り、今日はお友達を変身させるらしい。
自分はただの魔法使いだから、と言ってビジネス用のシンプルなパンツスーツでやって来る彼女はすがすがしくて潔い。
君が魔法使いなら僕は魔法使いの助手かなぁとぽつりと言ったら、「星崎さんは騎士です!」と明るく言われた。
なるほど、騎士か。それはかっこいい。むしろ「女の子」の方がよほど騎士だと思うけど。
彼女の友達は、思っていたよりもずっと普通の子だった。
自分にとっては弟分でもあるサト――高垣聡史の元恋人で、「女の子」の目論見がうまくいけば今日婚約者になる。そのことを本人は知らないという、不思議な状況。
それがなぜか楽しく感じられるのだから、おそらく自分は少しだけ「女の子」に毒されて――いや、毒されていると言う表現はよくないか、感化されて――いるのだ。
突っ走る。
その言葉がこんなに似合う人に、自分はこれまで一度だって出会ったことは無かった。
初めて出会ったのは退屈なパーティーの会場だった。
弟分であるサトの秘書として彼女は現れた。
背の高い子だなぁ、それが初対面の印象。
それから数回目に会ったとき、彼女は明らかに非常事態に見舞われていた。
――あの子は確か、嘉喜さん。サトの秘書の子だ。
会場から顔を隠すように俯いて駆け出してきたその姿に、何となく思い当たることがあった。
――ああ、はぐれたのか。
若い頃から父に「顔つなぎ」と称して連れて行かれたパーティーはとても退屈で、正直言って苦痛だった。たくさんの人の名前を覚えなければならず、大人の会話にも混じらなくてはいけない。そして、誰だったか思い出せない人とも笑顔でうまく会話をしなければならないのだ。
証券会社に勤めるようになってからはその「顔つなぎ」のおかげで随分とたくさんの顧客を獲得できたのだから感謝すべきなのだろうが、若い頃はパーティーが嫌で嫌でたまらなかった。
その時の感覚を思い出したのだ。
大学を卒業してそれほど経っていない女の子が唐突にこんな場所へ出てきてサトとはぐれたら、どんなにか心細いだろう。
「嘉喜さん? もしかして聡史くんとはぐれたの? 一人じゃ心細いでしょう」
そう声を掛けたら、振り返った顔は涙にぬれていた。
そして見知った顔に安心したのか、彼女は泣き出した。
グズグズでもなく、
シクシクでもなく、
おいおいと。
子供みたいに泣くんだな。
不謹慎にも笑い出しそうになったのを、よく覚えている。
そして彼女は少しすると落ち着き、普段の秘書の顔へ戻っていった。
それ以来、何となく懐かれているような気はしていたのだ。会うたびに好意的な視線を向けてくれるし、嬉しそうな様子で話しかけてくれることも多かった。
そこに特別な意味がないことくらいは勿論わかっている。何かを期待するほど若くもない。だけど、秘書の仮面を少しだけ外して話しかけてくれるその瞬間が心地よいものだったのは確かだ。
そして、つい先日。
個人的なことで相談があると彼女から連絡をもらった。
それは嬉しい驚きで、同時に「嬉しい」と感じている自分にも驚いた。
もうすっかり落ち着いてしまったと思っていた心踊る感覚が戻ってくる気配を感じた。
若い頃はそれなりに人とも付き合ったし、この人と結婚するかもしれないと漠然と思う相手が居たこともあった。でも結局、40前になった今でも独身だ。特に理由があるわけじゃない。適齢期で大きな失恋を経験したとかでもない。ただ何となく、タイミングだとかそういったものが重なって、気付いたらこの年齢になるまで独身だった。
今は友達を幸せにすることに夢中なこの「女の子」と自分の関係は、この協力を機に形を変えるのだろうか。
期待していないといいつつも、実のところ少しだけ、わくわくしていた。
「寝ちゃったみたいね」
バックミラー越しに後部座席を確認してそう言うと、助手席に乗っていた彼女の友人、眞子さんが後ろを確認してから「あら……」と笑った。
「昨日も遅くまで起きていたみたいだから、きっと疲れたんでしょう」
夜中まで今日の準備をしていたら肌が荒れてしまった、と今朝しょんぼりしていたから。
自分が言うと、眞子さんは少し怪訝そうな顔をしてから遠慮がちに問いかけてきた。
「あの……不躾なことをお伺いしますが……」
「どうぞ」
「星崎さんはその……ご結婚はされているんですか?」
「ああ、それで」
納得して頷いた。
眞子さんがそれでって何だろう、という表情でこちらを見ているのがわかる。
「さっきからなぜか手に視線を感じてたんだけど、左手の薬指をチェックされてたんですね。結婚はしてませんよ」
「そうですか」
ほっとしたような声。
眞子さんの質問の意図はわかりきっている。
「久美子さんを騙そうとしてる中年に見えましたか?」
そう尋ねると、苦笑しながら「見えたというわけでは。そうだったら困るなぁと思って。久美は大切な友人ですから」と言われた。
――それにしても。
「この短時間でバレてしまうなんて、驚いたな」
自分がこの「女の子」にほのかな好意を抱いていることに、眞子さんはすでに気づいてしまったらしい。
「実は少しだけ、私にバレてほしいって思っていらしたんじゃないですか? でも私、あまりお力にはなれないと思います。久美は昔から恋愛関係はすごく秘密主義で、私にすら何も教えてはくれませんから」
うふふ、と笑いながら告げられた言葉に背中がうすら寒くなった。
サト、この子、怖いな。
自分の心の奥底の感情まで読み取られたみたいだ。
「久美子さんが自慢の親友っていうだけあるね」
「久美は私のことを買いかぶりすぎなんです」
買い被りではない気がするけどな。
「むしろ私にとって、久美が自慢の親友です。友達思いで。この髪の毛だって……どうして切ったのか……」
そう言って眞子さんは口をつぐんだ。
バックミラー越しに覗いた「女の子」は、知り合ってからずっと腰ほどまで長い髪の毛にゆるくパーマをかけていた。女性の髪型に詳しいわけではないが、会うたびにいつもオシャレにアレンジされた髪型をしていて、実は密かにそれを楽しみにしていた。だからまるで男性みたいにバッサリと切ったこの髪型を見た時は随分驚いたものだ。
もしかして失恋でもしたのかと思ったけど、眞子さんの様子を見るにどうやら髪を切ったのはサトと眞子さんのことが原因らしい。
「……この子、いつも他人のことばっかりだから。」
眞子さんのつぶやきに、ああ、女性の友情って案外いいもんだなぁとぼんやりと思った。
「いつも」という眞子さんの言葉の意味を理解したのは、高垣コーポレーションのパーティーが無事に(というには随分な荒れ模様だったけど)終わってから半年ほど経った頃だった。
普段通り「テイクがね」と言って久美子さんを連れ出したレストランで久美子さんの妹とその婚約者に出会ったのだ。
せっかくだからと同じテーブルで食事をすることになり、久美子さんがお手洗いに立った隙に、ずっと何かを聞きたそうにしていた妹さんが口を開いた。
「あの……姉とはどういった……?」
「こうして時々お食事をしたり……という感じかな」
そう言ったら妹さんが少し眉根を寄せたので、慌てて付け足した。
「ああ、もちろん僕としては真剣にお付き合いをしているつもりですよ」
たしか八歳ほど離れていると言っていたから妹さんはまだ二十代半ばくらいか。自分とは一回り以上も違うのだと思うと、自然と子供を相手にしているような気分になる。
「とはいえ別に焦るような年齢でもないし、ゆっくりでいいんだけど」
「姉はゆっくりじゃダメですよ。早く幸せにしてあげて欲しいんです」
直球が返ってきて、思わず笑ってしまう。
容姿はあまり似ていないようだけど、こういうところは久美子さんと似ているかも。
妹さんの隣に腰かけた彼女の婚約者――倉持家の跡取り息子――がわずかに身じろぎをした。そしてほんの少しだけ申し訳なさそうな笑みを自分に差し向けてくる。あまりにもハッキリとした妹さんの物言いにドキリとしたらしい。
ああ、いや、いいんだ。と眉毛の動きだけで伝え、それからゆっくりと妹さんに言った。
「彼女は今でも十分に幸せそうだからね。眞子さんのこととか……色々と走り回って、楽しそう」
そんな彼女を見ているのが好きだから、自分のものにしてしまいたいとかそういう感情がそれほど強くは湧いてこなかった。
「姉はいつもいつも……他人のことばっかりだから」
妹さんの口からぽろりと零れたその言葉に思わず背筋が伸びた。
眞子さんと全く同じセリフだったからだ。
「私、音大卒なんです。それも私立。その学費を出してくれたのは姉なんです」
私立の音大。
学費が高いと言う漠然としたイメージだけは持っていた。
「私は二人の姉とはずいぶん歳が離れているので、私が18になるときには父はすでに還暦を迎えていて…それほど金銭的に余裕があるわけではなかったんです。だから私は高校を卒業したら就職しようと思っていました。頭はあんまりよくなかったし。そうしたら姉が、音大に行けって言ってくれたんです。ずっとピアノを続けて来たんだからどうせなら極めたらいいって。学費は面倒を見てあげるからって」
その話は倉持くんにとっても初耳だったらしく、驚いた表情で妹さんを見つめている。
「姉が、就職してからもずっと学生時代に住んでた狭くてぼろいアパートに住み続けてるから不思議だったんです。なんでかなぁって。引っ越さないのって聞いても日当たりが良いからここでいいんだとか言って。そしたら、私のために貯金してくれてたんです。就職して自由に使えるお金が増えて、周りは旅行とかをすごく楽しんでる時間、姉はずっとお金を貯めていてくれたんですよ。私がどんな進路を選んでもいいようにって。『留学したかったらそれも手伝ってあげられるよ』とか言って……」
妹さんの丸い目が、潤んでいる。
「ああ、すごく想像できるような気がする。大したことなさそうな顔でそういうこと、言いそうだよね。久美子さんは」
そう言ったら妹さんは大きく頷いた。
「豪快でいつだって元気で、すごく大ざっぱな人間に見えるけど、あんなに優しい人は滅多にいないって、妹の私でも思います」
そう、滅多にいないよな。
他の人のためにあんなに一生懸命になれる人は。
「いやぁ、あんなところでバッタリ会うとは。びっくりしました」
レストランを出て車に乗り込むなりリラックスした様子でそう言った久美子さんに、僕はゆっくりと切り出した。
「妹さんの学費、出してあげたんだね」
「ああ、もしかしてハルカが話したんですか?」
「うん。久美子さんがお手洗いに行っている間にね」
「そうですか」
この話を出したら、なんでもないことのように笑うのか、それとも自分の過去の善行がバレて照れるのかと、そう思っていた。だが久美子さんはそのどちらでもなく、眉根をひそめて難しそうな表情を見せた。
「……余計なことだったのかもって、時々思いますけど」
あまりにも予想外なその言葉に、僕は驚きを隠せなかった。
「どうして?」
「あの子、小さいころからピアノが大好きで、暇さえあればいっつも弾いてたんです。だからそんなに好きなら音大に進学したらいいのにって思ってたし、そうなったけど。そういう道ってすごく厳しいでしょう? 音大に入ってからあの子、しばらく苦しんでたんですよ。私には言わなかったけど。才能の限界とかそういうことだったんだと思います。だから、私が敢えてそういう苦しい道を選ばせちゃったんだなぁって心苦しくもあり」
「……いいなぁ、姉妹って」
そう呟いてから、ああ、これは眞子さんの話を聞いたときに抱いた感想と同じだ、と思った。
あのとき、女性の友情っていいもんだなぁと思った。
そして今は、姉妹の愛情っていいもんだなぁと思っている。
いや、ちょっと違うな。
女性の友情がいいとか、姉妹の愛情がいいとかじゃない。
眞子さんのために突っ走って、妹さんのために突っ走る、この「女の子」が「いい」んだ。
「眞子さんも妹さんも言ってたよ。いつも他人のことばっかりって」
――だから、そろそろ自分の幸せも考えてみない?
そう続けるつもりだった言葉は彼女にあっさりと遮られた。
「自分の大切な人に幸せでいて欲しいって思うのはみんな同じですよ。私の場合はそのやり方がちょっとマトモじゃないだけで」
たしかにそうかもしれないな。
マトモじゃないこの子を、どうやって手に入れようか。




