30 騎士と魔法使い
「サト」
ふっと背後に現れた気配が私の頭上を越えてタカに話しかけ、タカが眞子の肩を抱いたまま振り返った。
「星崎さん。お姿が見えないのでお帰りになったのかと思いました」
「眞子さんの荷物を取りに駐車場に行っていたんだ」
そう言っておじさまはスススッとタカに近づき、大判の紙袋を差し出した。眞子が今朝着てた服なんかが入っているやつだ。
「今日はお恥ずかしいところを……ありがとうございました」
タカがそれを受け取りながら言う。
「こちらこそ。眞子さん、今日一日このおじさんに付き合ってくれてありがとう」
「とんでもありません。星崎さんには本当にお世話になりました」
「お礼は嘉喜さんにね。僕はただのアッシーですから。ところで、眞子さんはもうサトに託していいね?」
「はい」
タカが輝くような笑顔を見せた。
「じゃあ、僕は久美子さんを連れて帰るから」
当たり前のようにさらりと放たれた言葉に驚いて、モゴモゴしてしまった。
「え? あの、いや、でも、私まだ仕事が」
準備を免除してもらった分、片づけには最後まで残るつもりでいた。
「その足で? 無理だよ」
「え? あし?」
星崎さんは私の足元を見下ろしながら鼻でふっと息を吐いた。
「久美子さんを連れて帰ってもいいよね、サト」
私が戸惑っている間に、おじさまがタカに問う。
「はい。久美、片づけは俺が代わりにやっとくから」
「私も手伝うから。久美、本当にありがとう」
私はおじさまとタカと眞子を順番に見つめた。
それから、ふくらはぎの辺りを駆け上ってきたダルさと骨の軋むような感覚に気付く。
どうやら足が痛かったらしい。
社長にムカつきすぎて頭に血が昇っていたせいか、自分でも全然気づいていなかった。
「どうして星崎さんが私の足のことを」
「どうしてでしょう。もしかすると本人以上に気にかけてるからかもね」
「久美、本当にいいから、遠慮せず帰って」
おじさまの驚異の観察眼に慄きつつ、タカと眞子の好意に甘えることにした。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「あ、ちょっと待って久美。あの辞表どうした?」
タカに問われ、社長には渡すことなくクラッチにしまった辞表をピラリと出すと、タカがそれをさっと奪い取ってびりびりに破いた。別に破かなくても提出する気なんてとっくに失せてたんだけどね。この歳で仕事失うのはできればカンベンだし、社長がカッスカスになった今、もう会社を辞める理由はないし。
「じゃあ帰ってゆっくり休めよ、久美」
「久美、本当にありがとう。また連絡するから」
「そんで親父」
オフィスの片隅に置いてある観葉植物並みの存在感に成り下がっていた社長に、タカが声をかけた。
「早乙女さんに頼んで表に車回してもらったから。今日はとりあえず帰ったら。俺も片付けが終わったら帰るし」
のろのろと社長が立ち上がる。
タカと眞子は社長を前に歩かせる形でロビーを後にした。
背中を見送るのはいつだって誇らしくて、そしてちょっとだけ寂しいものだ。
隣にいるおじさまがゆったりと言った。
「やれやれ、だ」
「ええ。本当に」
ふぅ、と深く深く息を吐いた。
「久美子さんが今朝履いてた靴を持ってきたから、今履き替えるといいよ。少しは歩くのが楽になるでしょう」
おじさまに促されるままにソファに腰を下ろし、履きなれた靴に足を入れる。自分の足の形を覚えているその靴は確かに足にぴったりと沿ったが、なぜだか少し違和感を覚えた。
――やだ。一日で足がゼータクになっちゃったのかな。
「どうして足が痛いってお気づきになったんですか」
とんとん、とふくらはぎを軽くたたきながら尋ねると、あっさりと答えが返ってきた。
「膝が震えてたから」
「えっ」
膝が震えるなんて、何か怖がってるみたいじゃないか。社長を前にして怯んだように見えていたのなら心外だ、
「それ、武者震いですからね!」
私が言うと、星崎さんはまっすぐに私の目を見つめた。笑うでも否定するでもなく、ただまっすぐにじっと。
見透かすような視線に居心地が悪くなって、ぼそりと白状する。
「う……うそです……武者震いではありません」
本当言うと、とんでもなく怖かったのだ。シャンパンが逆流するかと思うほど。社長が、というよりも、大それたことをしてしまっている自分が。
おじさまは笑い、穏やかに言った。
「やっぱりあの靴のヒールが高すぎたかな。ごめんね、無理やり押し付けちゃったから」
「いいえ。ヒールのせいではありません。しばらく松葉づえの生活をしていたので筋力も落ちていますし、今日は朝からたくさん歩きましたから」
買っていただいた靴を丁寧に箱にしまってからゆっくりと立ち上がる。
幾分ましになったような気もするが、やはりまだ足はズキリと痛んだ。
まぁ仕方ない。明日は何の予定もないし、一日家でのんびりしていれば週明けの業務に支障はないだろう。
「さあ、つかまって」
おじさまが目の前に立って肩を差し出し、ぽんぽんと手でそこをたたく。
いやいやいやいや。
私は声を出さずに後ずさって顔の前で激しく両手を振った。
そんなこっぱずかしいこと、ノーサンキューだ。
ところがおじさまは私の反応を意に介することもなく、「ちょっと失礼」と有無を言わさず腕を腰に回す。そしてその腕がぐっと体を持ち上げるようにして、足にかかる体重の負担を減らしてくれる。
あら、おじさま意外と力持ち。
そしてその体勢が予想以上に楽だったので、つべこべ言わずに体重を預けることにした。「星崎さんにしてもらったことメモ」がまた長くなってしまった。
「ご迷惑ばかりおかけしてすみません」
ふう、と息を吐きながら言うと、おじさまは眉根を寄せて「うーん、でもこれだと歩きづらいね」とか何か思案顔でつぶやいたかと思ったら、次の瞬間に体がふわりと浮いた。
「あ、え、ちょ……」
まともに声を上げることすらできない。社長の「な」並みに情けない状況だ。
これはもしや例の、お姫様だっことか言うやつでは。
こんなことをされたのは人生で初めてだ。
「あの、星崎さん、自分で歩けますから!」
なんせデカいのだ、そんじょそこらの男性より重いはずだ。それにこの歳でお姫さま抱っこというのが死ぬほど恥ずかしくて、照れくさい。
「ほぉしじゃきさん!」
声が裏返ってしまい、慣れてないのがモロバレだ。しまった。平然としていればよかった。
しかし、暴れれば余計に重くなるだろうと思うとそうするわけにもいかず、きれいなドレスを着た短髪のデカい三十路女は目玉をひん剥いたまま、全身の毛穴からどっさり汗をかくことしかできない。
私を抱えているのに別に背中がぐいと後ろに反ることもなく、事も無げに歩いてみせるこの素敵なおじさまはつまるところ、只者ではないのだ。
「あの、歩けます」
あまりにもあっさりとスルーされたので、聞こえなかったのかと思ってもう一度声をかけてみた。
「知ってるよ。久美子さんはひとりで歩けるし、ひとりで走れる人だ」
星崎さんがゆっくりと歩きながら言う。
何を言っているんだ。さすがにこの足では走れないぞ。
地面についていない足が所在無げにぶらんぶらんと揺れて、否が応でも自分の体勢を意識させられる。
「久美子さんには、手を引いて歩いてくれる人は必要ないんでしょう?」
「ああ。それはよく言われます」
私はこくりと頭を前に傾けた。
社会人になってからちょろっと付き合った人にも、「君はひとりで生きていける人だ」とフラれてしまったくらいだし。
「だけど、足が痛くても走っちゃう。だから君には、ブレーキが必要なんだ」
私は抱っこされたまましげしげと星崎さんの表情を盗み見た――つもりが、星崎さんの穏やかな目が私の顔を捉えていたのでばっちり目が合ってしまい、ゆでダコに。
なんだ、この状況は。
「あそこでサトが行かなかったら、篠原さんが来なかったら、夫人の助太刀が無かったら、君は一人で戦うつもりだったんだろう? クラッチの中のICレコーダーを武器に社長を脅すつもりだった?」
「えっ……まぁ……」
「社長の秘密を公表する気もないのに?」
「あ、ええ、まぁ。だって……」
「公表したら白雪さんのことや社長の秘密が知られてしまうから、公表する気なんてさらさら無くて、最初から社長の脅迫の言葉を待っていたんでしょう。録音して、それを武器に社長に要求を呑ませようと」
何で計画がバレバレなのだ。
妙案だと思ったのに。
私は何も答えなかったけど、私の表情を見ておじさまは自分の推察が当たっていたことを確信したらしい。本当に小さく、歯の隙間から空気を逃がすようにため息をついた。
「よかったよ。そうならなくて」
「ええ、まぁ。でも、覚悟はできていましたから」
「覚悟、ね」
意味深な沈黙の後に低い声が言う。
「君はこういう戦いには不向きだよ」
私はおじさまの顔を見上げた。
「なぜですか?」
「僕なら、相手の弱みを握ったらそれを最大限に活用する。それで誰かが傷つくとしても、だ。駆け引きには時に非情さが必要なんだ。でも君はそれが欠けてる。もし計画通りになっていたら、君は一生それを背負って生きていくことになってただろう。社長の人生を変えてしまったという事実をね。だから、そうならなくて本当によかったよ」
逞しい腕で担ぎ上げられたまま私はぼんやりとその言葉を反芻していた。
「星崎さんは、非情になれるんですか?」
私の何気ない質問に、おじさまはやけに真剣な目で答えた。
「なれるよ。大切な人を守るためならね」
冷たく笑うおじさまなんて想像できないけど、そういう瞬間もあるのだろうか。
社長を追い詰めたときのタカのように、容赦のない姿を見せる瞬間が。
あ、そうそう、タカのお母さんを守るときとか。
「あの、星崎さんは、社長夫人のことがお好きなんですよね?」
「……は? 社長夫人って誰のこと?」
「タカのお母さんです」
星崎さんは少し背を反らし、ゆっくりと息を吸った。
あら、この角度からだと鼻の穴がよく見えますよ。ちょっと膨らんでる。
あれ、もしかして怒ってる?
「従姉だよ」
「え?」
「従姉なんだ」
「あ、タカのお母さんですか? そ、それは……あ、いやでも、法律上結婚はできますね」
「そういう意味じゃないよ。従姉だから社長の言葉に腹が立っただけで、夫人に対して特別な感情を抱いたことは一瞬たりともない」
「あ、そうなんですか」
「そうなんですよ。しかし、今の流れでそうなるとはね。思った以上だよ」
「何がですか」
「何でもない。はい、車に着いたよ。乗って」
そう言っておじさまはそっと地面に立たせてくれる。
あいかわらず、つやつやの車。
足をかばいながら助手席に乗り込んだ。
「疲れたでしょう。朝からずっとだもんね」
おじさまが夜道を運転しながら低く穏やかな声で問いかけてくる。
その穏やかな声に、意識がふわふわとゆらぐ。
「サイコーに幸せな一日だったからまだ夢を見てるみたいな気分で、あんまり疲れてるって感じじゃないです」
夜道を照らすオレンジの光をぼんやりと見つめながらゆっくりとそう答えると、おじさまはもう何も言わなかった。
ガラスに映り込んだ自分の顔が今朝よりきれいに見えるのは、きっと気のせいじゃないな。
幸せってヤツは、偉大なのだ。