2 平手の女
事の起こりは三日前。週の終わり、華の金曜日。都内のビジネス街の一等地に立つ巨大なビルの一階、エントランスホールに乾いた音が響き渡った。
頬を押さえて立ち尽くす女。
その前で泣き出す女。
いわゆる修羅場である。
「うわぁやっちゃったよ……」という声にならないつぶやきが辺りを取り囲んだ。
終業直後のその時刻、エントランスには人があふれていた。
私は無言でその輪の中に切り込んでいって、親友の肩を抱くようにしてそこから引っ張り出した。
今立ち尽くしている方の女の頬を平手で叩いた揚句に泣きだした女。それが私の親友だ。
引っ張り出してすぐにトイレの個室に詰め込み、好奇の視線から彼女を引き離す。
それからエントランスに戻ると、まだ辺りは騒然としていた。叩かれた女は呆然と立ち尽くしたままだ。
声をかけようと足を踏み出したところに、スーッと音がしてエレベーターが降りてきた。開いた扉から出てきたその姿を見て、思わず舌打ちをした。
――なにこのタイミング。王子様かよ。
「美優! 大丈夫か!」
息を切らして足早に女に駆け寄る男。
感動チックなその光景が私にもたらしたのは、絶望だった。
――ああ、これは、もう、だめだ。
最高にドラマチックすぎる。
最低ともいえる。
じくじくと痛む心を叱咤して、私もすぐに女に歩み寄った。
「篠原さん、大丈夫ですか? 冷やすものをすぐにご用意します」
そう言って男に向き直った。
男は眉根を寄せ、やけに深刻な顔をしていた。
別にその表情は間違っちゃいない。だが、息が切れているのはおかしい。息切れするわけがないだろう。エレベーターで最上階からここまで下りてきただけじゃないか。なに、正義のヒーローみたいにいっちょまえぶってるんだ。正義のヒーローなら、救えたはずのものを、救えなかった男のくせに。
「専務。篠原さんを専務の部屋にお連れしてください。すぐに冷やすものと救急箱を手配して向かいますから」
男は神妙な顔でうなずくと、女の手を優しく取った。
「美優、行こう」
なんだこの、メロドラマな雰囲気は。
男と女の姿がエレベーターの中に吸い込まれるように消えると、エントランスホールがにわかにささやき声に包まれた。
――いまの、すごいね。
――うわー修羅場……
――あの噂本当だったんだ。三角関係の……
――相手の女殴るとかみじめ……
何一つ事情を知らない人間たちの無責任なささやきを無視し、親友を押し込んだトイレへと急ぐ。
「眞子。眞子」
一番奥の個室をノックすると、中からしゃくりあげるような声だけが返って来た。
「野暮用を済ませたらすぐにここに戻ってくるからね。今は出ない方がいいよ。一緒に出よう。少し待ってて? ね?」
語りかけると、ドアの向こうから鼻をすする音が聞こえ、そのあとにくぐもった声で「うん」と聞こえた。
その声にほっとしてトイレを出てエレベーターに乗る。さっき颯爽と現れた王子様の馬車替わりの、あのエレベーターに。
こんな時は大声を上げながら階段でも駆け上がりたいところだが、あいにくタイトスカートとヒールの組み合わせがそれを許してくれないのだ。それに一応、社内での評判というものも多少はね、気になるし。雄叫びを上げながら猛然と階段を攻める姿を見られても何の影響も無いと豪語できるほどの地位は、まだ築けていない。
途中自分のデスクに寄ってカバンを置き、備付の救急箱と保冷剤を持って最上階のオフィスへと急いだ。
木目調の硬質なドアを殴りつけたくなるのをどうにかこうにか抑えて触れるようなノックをすると、中から男女の言い争う声が聞こえてきた。
「やめて! 眞子さんには何もしないで」
「でも、美優を殴ったんだ。そのままというわけにはいかない」
「平気、これくらい、大したことないもの。眞子さんの気持ちだってわかる。だからお願い。何もしないで」
うおー。
メロドラマ。
ノックが聞こえないほど白熱しているらしかったので、もう一度大きな音でノックして「失礼します」と声を掛けると、中の声がやんだ。
「どうぞ」
不機嫌な声が返ってくる。
「専務。お待たせして申し訳ありません。救急箱をお持ちしました」
硬質な床から室内の柔らかいじゅたんの上に足を踏み出し、棒読みで言った。
棒読みは意図したわけじゃない。色々と感情にフタをしたらそうなったのだ。
「あ……嘉喜さん」
女がしっとりとした目で私を見つめる。
「あの……眞子さんは……」
その気遣いに、思わずため息が出そうになった。
――そう、この子、いい子なんだよね。
私はやんわりとした笑みを返しながら思った。
いい子なのだ。
優しくて、心配りができる。
公衆の面前で自分の頬を張った相手のことを心配するくらいに、優しい。
「大丈夫ですよ」
私はそう言いながら、彼女の腫れた頬にそっと保冷剤を当てる。
全然、全っ然、大丈夫じゃないだろうけど。私の親友はきっと今頃ぼろ雑巾だ。でもここで大丈夫って言わなかったら、親友がみじめじゃないか。
「そうですか……」
そう言った嫋やかな女性の名は篠原美優。
入社2年目で若く楚々として美しく、上品で優しい女の子。そして薬指に輝くダイアモンドは、この専務から彼女に贈られたもの。つまり専務の婚約者サマだ。今はその小さな顔に赤い手形が残っている。
「美優は本当にお人よしだな。相手の心配か。顔に痕が残ったらどうするんだ」
専務が苛立ちを多分に含んだ声で言ったその声を聴きながら、私は奥歯をぐっと噛みしめた。
専務の方は絶対に見ない。見ないったら、見ない。今みたら、きっと罵詈雑言を浴びせかけてしまう。浴びせかけても別にいい気もしたけど、この女の子の前でそれをするのはたぶん卑怯だ。
「大丈夫。これくらいで痕なんか残らない。腫れもすぐに引くと思う。眞子さん、本気では叩いてないもの」
そう言って保冷剤を押さえたまま専務の方を見つめる顔に浮かんだ笑みは、顔の片側に大きな保冷剤を当てていてもなお、美しかった。
――ああ、眞子、どうしよう。
この子、本当にいい子だわ。
眞子が前に言ってた通り。
かなわない。
美しい笑みにぼけっと見とれる専務をちらりと見てから、すぐに手元に視線を戻した。
「小さなひっかき傷があるので、そこだけ消毒させてくださいね」
コットンに消毒液を含ませ、保冷剤を少し寄せて傷に当てる。
「きゃ」
小さな声を上げて篠原美優は肩をすくめた。
『きゃ』って。かわいいなぁ。私だったらイテッとかウゲッとか言っちゃうとこだ。しかもこの子からは、それをわざとやってるという感じがまるでしない。
「ごめんなさい。痛かったですか?」
「いいえ。平気です。ごめんなさい。少しだけしみたので」
「あとは、冷やしてできるだけ腫れを押さえてください。たぶんそんなにひどくはならないと思いますが。数日痣が残るかもしれません」
別に医者じゃないから知らないけどね。痣くらい残ったっていいんじゃないの。もらってくれる人がいるんだし。それに、痣が残ってもたぶんあなたは可愛いよ。若いしね。
そういう言葉を全部救急箱に閉じ込めてふたをする。厳重にね。うっかり中身がこぼれてしまわないように。
「専務、後はお願いしてもよろしいですか?」
そちらを見ずに声を掛けると、男は「ああ、任せろ」と言った。
そりゃあそうだ、あんたの婚約者だもんな。
任されてくれなきゃ困る。
私にはこれからやることがあるんだ。
あんたにだってそれくらいはわかるだろうが。
ていうか、こんなことはお前がしろよ。
保冷剤くらいお前のその横にある無駄にデカい冷蔵庫にも入ってるんじゃないのか。
大体なんだ。さっきの会話は。
お前、眞子に何しようとしてたんだ。
この子が止めなきゃ眞子をどうするつもりだったんだ。
私がここに来るってわかってて、よくそんな話できるな。
すべての言葉を飲み込んで心の中で悪態をつきながら一礼して部屋を辞し、救急箱を元に戻してデスクのカバンを取った。
携帯を確認するが、着信はない。
親友はまだ、浮上していない。