28 ラスボス夫人と白雪姫
「私からもお話があるんですけど。構いませんかしら?」
そう言った夫人の少し後ろに立っていたのはホワイだった。
正妻が愛人を連れているという修羅場じみた状況にも関わらず、ホワイはトイレで吐いていた時よりもずっと顔色もよくなって幾分ふっくらとして、リラックスした空気を纏っていた。
「なっ」
社長もこれには驚いたらしい。HPの残りカスを総動員して出てきた言葉は「な」という一音。
「お話は伺いましたわ。白雪さんのお腹には、あなたの子供がいるそうね」
そう言って夫人は社長をキッと睨みつける。
タカのお母さんである社長夫人はこういった場にはほとんど姿を現さない人だったから、私は高校時代に授業参観や行事で挨拶をした以外にはほとんど会話をした記憶もないくらいだ。身長は低く、少しぽっちゃりとした穏やかそうな見た目とは裏腹に、その眼光は鋭く光り、淡い色のルージュが引かれた形のよい唇は恐ろしいほど左右対称の美しい弧を描いていた。
「認知なさって」
「なっ」
しばらく黙りこくっててやっと言葉を放ったと思ったら、「な」しか言えないってどういうことだ。さっきまで目をキラキラさせながら私を脅してたくせに。いや、ギラギラの間違いだな。
「『な』ではありませんよ、あなた。当然でしょう。ご自分のなさったことには責任をお持ちになって。一応まだ、一企業の社長をなさっているのでしょう」
社長夫人が的確なツッコミを入れてくれて、私は心の中でべーっと舌を出した。
「なんでお前……」
「文句がおありなら、法廷でどうぞ」
「お前、何て事を言うんだ」
社長はぶるぶると震えている。
私は何が何だかさっぱりわからなくなって、タカを見やる。
タカはこっちを見て一瞬うっすらと笑った。
なるほど、これはタカの策略ってわけね。そうでなければ社長夫人がホワイの味方につくわけがないもんね。
タカも意外と恐ろしいことを考えるらしい。
実の親だし、その社長としての手腕にはタカも尊敬の念を抱いていたはず。だからこそタカに任せてはおけないと思ったのだが、実はこういうとき、身内の方が容赦がないのかもしれない。
「弁護士を呼べ!」
社長が叫んだが、誰も動かない。
当然だ。この場の誰があんたのために動くっていうんだ。
四面楚歌だってことにそろそろ気付くべきだ。
「あなたがいつもお願いしている弁護士の高遠さんなら、すでに白雪さんの依頼を受けて認知請求のために動き出しています。大体、逃れられるとでも思ったのですか。これほど技術が進んで、DNA鑑定をすればすぐにわかるようなこの時代に。それから、高遠弁護士は私の離婚に関する依頼も受けてくださっていますから。弁護士なら他の方をお探しになってね」
なんと。お抱えの弁護士までぶんどったのか。
本当に四面楚歌だな、社長。
「ようやく……ですわ。聡史の結婚までは離婚はすまいと耐えていましたの。やっと離婚できます。眞子さん、いままで本当にごめんなさいね。私の進言などこの人にとっては塵ほどの価値もなかったの。それでも、もっと早くあなたにお会いしてお話していれば……」
「いいえ。とんでもありません」
眞子はゆっくりと首を振った。
「それにしても、息子の長年の想い人がこんなにきれいな人だったなんて、知らなかったわ」
「これは……彼女……久美のおかげで今日だけ変身させてもらったんです」
その声に、社長夫人が私の方を向いてにっこりとほほ笑んだ。
笑顔がタカに似ている。
「嘉喜さん、お久しぶりね。最後にお会いしたときはまだ高校生だったかしら? ふふふ。良いわね。眞子さんと嘉喜さん、本当に仲良しなのね。そういう友情って一生ものよ。大切にね」
「いい友人を持って幸せです」
眞子が言うと、社長夫人はほころぶような笑顔を見せた。
「あら、それは、あなたにそれだけの魅力があるってことなのよ? ね? 嘉喜さん?」
私は大きくうなずいた。よくわかってらっしゃる。その通りです。
社長夫人は眞子に向かって「ね?」と言ってから、社長に向き直った。その瞬間柔和なほほ笑みは消え去って、目の形がすっと鋭利になる。
「そういうわけですから。私はね、聡史にあなたと同じ轍を踏んで欲しくはありませんの。だから、愛する女性と結婚することに大賛成ですわ」
そう言ってから夫人は着物の胸元をぱっぱっと手で払うようなしぐさを見せた。
「お、お前……」
「前から思ってたんですけれどね、お前って呼ぶのやめてくださる? すごく不愉快なのよ。ああ、でも今さら名前を呼ばれても不愉快ですから、御用の時は『松浦さん』とでもお呼びになってね。私の旧姓。よもやお忘れではありませんでしょうね? どうせ近々戻るのだし、差し支えはありませんでしょう?」
社長は言葉を失って金魚みたいにパクパクしている。
「あーっせいせいした。ああ、それから。白雪さんもね、子供は産むけれどあなたとの関係を続けるつもりはないそうですから。みっともなく付きまとったりなさいませんようにね。胎教に悪いからこれ以上白雪さんをここに留め置くわけにもいきませんし、私はここで失礼して白雪さんをご実家までお送りするので。何かあったら弁護士を通じて連絡してくださいね」
ホワイがじっと社長を見つめるその瞳はほんの少しだけ潤んでいるように見えたけど、表情はすっかり母の顔だった。ちょっと強い顔になったから、もしかしてお腹の子は男の子かな。
社長夫人はホワイの背にそっと手を当て、体を労わるようにしながら部屋から出て行った。
しかしまぁ次から次へと、やって来ては言いたい放題言って去っていくんだな。
部屋に残された私とタカと眞子と星崎さんは、真ん中で立ち尽くす社長の動きをじっと待った。
私も願わくば退場したいくらいだ。なんだ、この重苦しい空気は。
「いっっ」
声が喉の奥で絡まってうがいのような音がでる。社長はごくりと喉を鳴らし、気を取り直して怒鳴った。
「い、一体全体これは何だ! どういうことだ! 認めん! 断じて私は認めんぞ! 許さん! どいつもこいつも勝手な真似をしおって!」
下手をすると血管が切れるんじゃないかと思うほど真っ赤な顔をして額に青筋を立てた社長がわめく。怒鳴るでも叫ぶでもなく、わめく。
HP切れだと思ったけど、どうやらわめく元気は残っていたらしい。
理由だとか建前だとかそんなものはどこかに飛んじゃって、ただただこの人は自分の手に負えない状況にヒステリーを起こしているだけだ。
情けない。
タカはふぅっと一つ息を吐いてから左胸の内ポケットに手をつっこんで折りたたまれた書類を取り出し、社長に突きつけた。
「言ったでしょう、許してもらうと。取締役の面々にはすでに事情は伝えてあります。彼らは全員一致で私を新社長と認め、3月末でのあなたの退陣を要求している。私の社長就任を撤回することはできませんよ。それどころか、4月からあなたが就任するはずだった代表権のない会長の椅子はなくそうという話になりましてね。どうせ名目的なものだったし」
「事情ってなんだ! いったい何を吹き込んだ!」
「あなたの無責任な行動について、事実を伝えただけです。愛人なんて当然、隠し子だって珍しくない、浮気は男の甲斐性。そんな時代はもう終わったんですよ。大勢の人間を束ねる立場にある人間にはそれだけ強い倫理観と責任感が要求される時代なんです。
さっき会場の外で怒鳴った声が会場内にも聞こえていたそうですから、取締役の面々もあなたの声を耳にしているでしょうし、逃れる術はなさそうですね。
それに、別に無理矢理やめさせるわけじゃない。もともと退陣はあなたが決めたことだ。体調だってすぐれないんだし、隠居でもして静かに暮らしてください。必要なら資金の援助はしますよ。離婚で金もかかるだろうから」
「お前たち、皆で結託して、私を陥れたのだな!」
大々的にタカと眞子の婚約が発表されてしまった上に篠原さんの提案によって眞子との結婚に反対する理由を失い、子供の認知を迫られて愛人には捨てられ、奥さんからは離婚されそうで、その上会社での地位と権力まで失うことになった。社長はもう破れかぶれだ。
こういう追い詰められた人は何をしでかすかわからん。
これ以上しでかすことが残っているとしたら、の話だけど。
「違いますよ」
そう言ったのは、それまでじっと黙って立っていた星崎さんだった。
「篠原社長は娘さんのため。
篠原社長の御嬢さんは眞子さんのため。
嘉喜さんは眞子さんと聡史くんと白雪さんのため。
聡史くんは眞子さんと白雪さんのため。
夫人は聡史くんと白雪さんのため。
私は嘉喜さんと聡史くんと眞子さんと夫人のため。
それぞれが、誰かのために動いた結果です」
え? 星崎さん、いま、夫人のためって言った? 星崎さん、社長夫人と知り合いなの? え? ってかもしかしてこの流れ、もしかしてもしかして、タカのお母さん、離婚してこの人と…うわぁ、そっかそっか。なるほど、それでおじさま、私が協力をお願いした時に愛人云々の話をしたら『聞き捨てならない』って言ったのか。つまり、今日の協力は夫人への愛のなせる業と、そういう事なのか。納得。
「社長」
タカが、敢えてそう呼ぶ。
「あなたを陥れたいなんて、誰も思っていなかった。ただ、誰もが誰かのために動いたらこうなったんですよ。それが何を意味するかわかりますか」
絶対にわかっていない社長は、ただ黙ってタカを見つめていた。怯えているように見えるのは、気のせいか。
「あなたは自ら穴を掘り続け、そこに自ら飛び込んだんですよ」
そう、打ち上げ花火をダイナマイトに変えちゃったのはあなた自身ですよ、社長。というか、私が打ち上げる予定だった花火には結局点火もしていないのだ。みんなが手に手に花火をもって現れるから、私の花火は結局出番なしだった。
社長は遂に言葉をすっかり失って、しゅんとうなだれた。最初からそうしていれば、こんなことにはならなかったものを。
ノックの音がして小部屋のドアが開いた。
「失礼します。そろそろ余興が終わりますので会場の方へお戻りいただけますか」
社長秘書の早乙女さんがやって来て遠慮がちに覗き込む。ハウリングで社長に仕返しをかましていた秘書だ。
「残りのプログラムって何でしたっけ」
タカが早乙女さんに尋ねると、早乙女秘書はにやりと笑った。
「最後に社訓の唱和と、閉宴の言葉があります」
「そうですか。わかりました。じゃあ、閉宴の言葉は私が適当にやります。社訓の唱和は、社長が音頭をとってください」
そう言ったタカはすっかりビジネスパーソンの顔に戻っていた。




