27 薬屋の角笛
「おや、お会いしたいと思っていた人が全員おそろいのようですね」
タカのピンクのオーラをふわりと掻き分けてその場に不釣り合いなのびやかな声が響き、一同がそちらを向く。
白髪の混じる柔らかそうな髪の毛をすっと後ろに流し、ふちのない眼鏡をかけた穏やかそうな壮年の男性。
篠原美優のお父さんだ。
驚きの登場人物に私は思わずほんの少し身構えてしまう。
敵か、味方か。
「篠原社長」
オヤジが何事もなかったかのような笑顔を取り繕って声をかけた。
なんだその笑顔。どっから出てきた! さっきまでの醜悪な顔はどこへいった!
「こんばんは、高垣社長。その節はどうもご迷惑をおかけしました」
そう言って篠原さんは高垣社長に深々と頭を下げた。
そうか、一応御嬢さんの方から婚約破棄ってことになってるのか。
篠原父は顔を上げ、眞子の方を向く。
私は無意識に眞子をかばうように一歩踏み出した。
「あなたが鴨志田眞子さんですね」
篠原父がすっと手を差し出し、眞子はためらいながらもしっかりとその手を握った。
「はい」
「篠原美優の父です。いつも娘がお世話になっております。お噂はかねがね伺っておりましたが、思っていた以上の女性でした」
両手で眞子の手を包み込むようにした篠原父はぎゅっとその手に力を込めた。
篠原父のその言葉があまりにも好意的なことに私は驚いてしまう。
そして眞子も、驚いた表情を隠さなかった。
篠原父の目に宿る光はあたたかく、眞子に対する敵意のようなものは微塵も感じられない。
「光栄です」
驚いた顔のまま眞子が返した。
「わたしからお話ししたいことがあります。少しよろしいですか。パーティーの方は余興が始まって盛り上がっているし、少しくらい抜けても問題ないでしょう。ここでお話しするようなことではないので、別に部屋を用意させました。皆さん来ていただけますか?」
一応疑問形だが、篠原父の言葉には有無を言わせない響きがあった。
何かずいぶんと面倒なことになったなぁ。
タカの登場に、さらに眞子と星崎さん、さらには篠原父まで。
当事者はまぁ仕方ないとしても、星崎さんを必要以上に巻き込んでしまって申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
本当なら眞子をタカに引き渡した時点で星崎さんの役目は終わりだったはずなのに。ああ、どうしてこうもうまくいかないもんかなぁ。
ホール近くの会議室のような小部屋に向かって歩きながら星崎さんの方を見ていたら目が合ったら、「気にするな」と口パクで言われた。
巻き込んで申し訳ないと思っていることが伝わっていたらしい。
おじさまはどうしてこんなに私の気持ちに気づいてくれるのだろう。
そんなにわかりやすいのか、私。
「まず嘉喜さん。連絡をどうもありがとう」
私はすっと頭を下げる。
「それから高垣社長。聡史君と娘の婚約が決まった後、あなたは娘のことを『すばらしい御嬢さんだ』としきりに褒めてくれた。その言葉が今となっては『篠原の娘だからすばらしい』と聞こえます」
その静かな非難に高垣社長は反論しようと口を開きかけたが、篠原父は手を上げてそれを遮った。
眞子に体を向け、しっかりと正面から眞子の瞳を捉えて語りだす。
「娘が大学三年の頃です。大学を卒業したら私の会社に就職していずれは跡を継ぎたいと言い出したとき、正直言って娘には無理だと思いました。あの子はもともと優しすぎるし、卒業後すぐに私の会社に入れば社長の娘として周囲に甘やかされる。よしんば跡継ぎにあの子を据えることができても、それは実権を伴わないものになるだろうと。
だから、もし本気で継ぐ気なら篠原であることを隠してよその会社で修行をして来いと娘に告げました。娘は他の友人たちと同じように就職活動をし、高垣コーポレーションへの就職を決めました。そこで私は聡史くんに連絡をとって娘の指導係にはどうか優秀な人をつけてほしいとお願いしたんです。それと同時に、娘の素性については決して明かさないで欲しいと。
娘の指導係に聡史君が選んだのは鴨志田さんだった。鴨志田さんは娘を甘やかすことなくしっかりと指導してくれた。そのおかげで娘はこの2年半の間に、驚くほど成長しました。そして会社から帰ってくるといつも『眞子さん』の話をしていました。いつしか『修行を終えて篠原に戻る時には、眞子さんにも一緒に来てほしい』という夢を抱くほどに」
それは初耳だったらしく、眞子は驚いたように口元に手をやった。
「そんな折、うちに聡史くんとのお見合いの話が舞い込みました。親バカだと思われるかもしれませんが、あの子は気立てのいい子だし、妻が仕込んだので料理もうまい。『眞子さん』のおかげで仕事もしっかりと板についてきた、私の自慢の娘だ。幸せになってほしい。
だから、申し訳ないとは思ったが聡史君の過去の女性遍歴を調べさせていただきました。よくあるでしょう、後々になって元の恋人から嫌がらせをされるようなことが。それは避けたかったのでね」
そう言って篠原父はいったん眞子から視線を外す。
「報告を聞いて驚きました。まさか聡史くんがずっとお付き合いをしていた相手の女性が娘の敬愛する『眞子さん』だったとは。娘に話すべきかとても迷ったが、結局話さないことにしました。すでに二人は別れた後だったし、知れば娘が傷つくだろうと思ったから」
篠原父と目が合う。先刻トイレで会った時の美優と、恐ろしいほど同じ目をしていた。
「だが私は気が気じゃなかった。『眞子さん』が娘と聡史くんの婚約を知ったらどうなるのだろうと。そんな矢先、娘から電話がありました。『眞子さんと聡史さんのことを知っていたのか』、とそれはもう、すごい剣幕で」
眞子が何か言いたげに口を開くが、篠原父は眞子に向かって軽くうなずくだけで話を続けた。
「その電話を受けて私は最初、美優と聡史くんのことがついに眞子さんの知るところとなり、娘が嫌な思いをしたのだろうかと思った。だが実際は違った。あなたは娘と聡史くんのことをとうに知っていたのでしょう」
眞子がこくりとうなずく。
次期社長の座が約束された若き専務の縁談はどこからともなく会社に漏れ、噂は瞬く間に広まった。私が眞子にその話をしたことはなかったが、見合いの数日後には眞子の知るところとなっていた。
「長く付き合った男性が自分の部下と婚約したと聞いても、あなたは娘には何も告げず、聡史くんとの婚約に浮かれる娘に『おめでとう』とまで言ってくれたそうですね。
あの金曜日、娘は偶然に眞子さんと聡史くんの噂を耳にした。そしてすぐに私のところに電話がかかってきて、お二人のことを知っていたのかと聞かれたんです。知っていたと答えたら、なぜ教えてくれなかったのかと娘は私を責めた。大好きな先輩である眞子さんとその大切な人を引き裂くようなことをして、それに気づかず能天気に惚気まで垂れていた自分が愚かで滑稽で恥ずかしいと。そして結婚をとりやめたいと。
眞子さんには決して敵わない、あんなに素晴らしい人とずっとお付き合いをしていた聡史くんが自分を好きになるはずなどないから、とね」
私は目をつむった。
それぞれの気持ちがパズルのピースのように組みあがっていく。
「私はあの子の父親だから、娘の頬を張ったことを許すと簡単には言えない。だけど、あなたの気持ちはよくわかります。苦しみを隠して押し殺しておめでとう、とまで告げた相手から『ごめんなさい。』と言われたら、やりきれない気持ちになったでしょう。
週明けの朝、娘はあなたに合わせる顔がないから会社に行きたくないと言った。でも、帰ってきたときにはとてもすがすがしい顔をしていた。理由を尋ねたら、『眞子さんが思った通りすばらしい人で、あの人になら渡せるからだ』と言っていました。
頬の傷を心配して真摯な謝罪を繰り返し、自分に対して罪悪感を抱く必要など全くない、幸せになってほしい、自分の存在が邪魔なら、すぐにとはいかないまでも次の職を見つけ、会社をやめると言ったと。あなたの立場で、あなたの若さでそれほどのことが言えるとは。娘があなたを慕うのがよくわかる」
篠原父の話に鳥肌が立った。
何てかっこいいんだ。
眞子も、御嬢さんも。
「とんでもありません。私の軽薄な行動で娘さんを物理的にも精神的にも傷つけてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
眞子が深々と腰を折る。
「前置きがすっかり長くなってしまったが、本題はここからなんですよ。つい先日娘から『一生のお願い』と言って頭を下げられたことがありましてね」
先ほどまでとは口調が変わり、少し軽く、そして明るくなる。
「娘は幼いころからいつもお姉ちゃんが欲しいと言っていた。就職してからは、お姉ちゃんができたようでうれしいと毎日のように『眞子さん』の話をしていた。だから鴨志田さん、あなたさえよければ、娘の姉になってくれませんか。篠原眞子に」
一同が固まる。
どういうことだ。
何でそうなった。
話が飛びすぎて全くわからなくなったぞ。
あの子、お姉ちゃんが欲しかったのか。
だからって、この歳で本当にお姉ちゃん作っちゃうのか。
常識人だと思ったのは間違いで、あの御嬢さんも相当なモンスターなのか。
あのおもちゃ欲しいから買って、とはワケが違う。
どういうことだ。
養子縁組でもするのか。
……養子?
あっ。
私は一つの可能性に行き当たって、あまりの衝撃に口を開けたまま閉じられなくなった。
「『篠原眞子』として篠原家からお嫁に行くのなら、高垣社長のおっしゃる問題はクリアされるのでしょう。篠原家の娘であることが重要だったようだから。
逆の立場だったら絶対に眞子さんはそうしてくれるはずだと娘は言っていました。だから、姉と慕う眞子さんのために願いを聞いてほしいと」
眞子がタカと結婚できなかった唯一の理由をなくすために、恋敵だったはずの眞子を自分の姉にする。それも、自分の父親に頭を下げて。
「これが、娘のプライドです」
高垣社長はもはや言葉を失って、ただただ立ち尽くしている。
「今日聡史君と眞子さんの婚約が発表されると嘉喜さんから聞いて、何かあったら援護射撃をするようにと娘に頼まれていたんだが、援護射撃どころか角笛を吹き鳴らしてしまった。すみませんね」
そう言うと、篠原父は眞子の肩にそっと手を置いた。
「最後の話は本気です。滅多にわがままを言わない娘のたっての願いということもあるし、今日あなたの姿を見て、娘の言うことがよくわかった。あなたが望むなら、私たちにはいつでもあなたを迎える用意があります。それから仕事のことですが。私も経営者として、あの娘をここまで引き上げてくれたあなたの指導力には感服しています。転職をしたくなったら一番最初にご連絡ください。嘉喜さんも、いつでも歓迎いたしますよ」
そう言って一礼して踵を返すと、「ああそれから、高垣社長。さっきの会場の外での会話ですが。後半部分はあなたの声が会場内にまで響いていましたよ」と言い残して颯爽と部屋を出て行った。
篠原美優。そして、そのお父さん。
すごい人たちだ。
私はぎゅっと眞子に抱きついた。
HPをほとんど失って蒼白な顔をしている社長なんてこの際どうだっていい。
私はどうしようもないくらい、この小さな親友が誇らしかった。
「さてと。私からもお話があるんですけど。構いませんかしら?」
篠原父がたった今出て行ったドアが薄く開いて、そこからしなりと現れたのは美しく着物を着こなした高垣社長夫人、つまりタカのお母さんだった。
彼女の背後に立っている人物に、私は驚きすぎて気を失いそうになった。