26 お姫さまのプライド
「久美は俺の友達で、大事な秘書だ。未来の奥さんの親友でもある。脅迫するのはやめてもらえないか」
タカの眼光はいつになく鋭かった。
今までも社長と専務として意見が対立する場面やしょうもない親子喧嘩の場に居合わせたことはあったけど、タカがこんなに張りつめた空気を纏っていたことはなかった。
別に守ってくれなくてもちゃんと自分の力でちちんぷいぷいできるんだけどねぇ。まぁ、ここはありがたく守られておくか。
私は右手に持っていたクラッチをそっと両手で抱え直した。
揺らさないように気をつけないと。
「結婚も社長就任も俺の問題で、久美の問題じゃない。文句があるなら俺に言ってくれ」
あらぁタカ、かっこいいじゃん。そんなことも言えるの。
「お前たち、グルか」
タカの登場により一層不機嫌になった社長が唾をまき散らしながら言った。もうすでに元イケメンの面影はすっかり消え去っている。
大体グルって何だ、グルって。悪事みたいに言うな。あんたのせいで絡まった糸をまっすぐに戻そうとしているだけで、悪いことなんか何一つしていない。
「いや。さっきまで何も知らなかったよ。だけど、俺の願いも久美の願いも同じだ」
ふうと息を吐きながらタカは続けた。
「言ってくれれば、こんなハチャメチャな方法でなく、もっとまともな戦い方ができたのに」
「だってタカが何も教えてくれないから」
「それもそうだな。すまん。巻き込みたくなかっただけなんだ。なのにお前が自分から突っ込んでくるから、結局巻き込むどころの騒ぎじゃなくなったな」
タカがにやりと笑う。ヘタレの割に上出来なその笑顔は、ものすごく輝いてみえた。王子様スマイルってやつですか。プリンスチャーミングも真っ青だね。
「ふん。これしきのことで私を追い込んだつもりか。あの女との結婚は認めんぞ! どこの馬の骨ともわからん女との結婚など言語道断だ!」
タカよりも低いところにある社長の頭が怒りに揺れる。
「いや、認めてもらう。それに社長への就任も撤回させる気はない」
タカの声は冷め切っていて、そしてきっぱりと力強かった。
「美優との婚約がダメになった時点で気づいたんだ。それでも久美に言わせれば遅すぎだけどな。眞子以外と結婚する気は毛頭ない。だから、認めてもらうよ。それに、もう婚約者だ。侮辱するのはやめてくれ」
毛頭、という言葉に状況も忘れてつい笑いそうになってしまった私はやはり、シリアスの似合わない能天気な人間なのだろうか。
「勝手は許さんぞ! 高垣の血を穢すつもりか!」
社長が叫びをあげた。
勝手なことを言っているのはどっちだ!
穢すって何だ!
私は耐え切れなくなって拳をぎゅっと握った。
「幼い頃、祖父に繰り返し言われた言葉があります」
唐突に切り出すと、社長は睨み付けてくる。ついこないだまで美人だなんだと私のことを褒めそやしておいて、ちょっと楯突いたらこれだ。浅すぎて底が丸見えだ。頭皮もな。
「本人の力ではどうにもならないことを理由に人を見下すような人間にだけはなるな、と」
カツラ屋だったじいちゃんの元には、禿げで悩むお客さんが大勢やって来た。だからこそじいちゃんはいつも言っていた。
『当人の力でどうにもならんような事で人をバカにしたり見下したりするような人間は大馬鹿野郎だ。そんな人間に言われたことをいちいち気にする必要なんかありゃせん。だから久美子、身長のことをバカにされても、堂々としとけ』
その、じいちゃんの声が聞こえたような気がした。
「生まれは変えられません。だけど眞子と眞子のお母さんは、自らの努力で人生を切り開いてきた。普通の人の何倍も努力して。それはむしろ、尊敬に値することだとは思いませんか」
怒りなんかどこかに吹き飛ばして、ただただ目の前のオヤジの心に響くことを願って懇願した。でも、響かない。社長の顔は憎たらしげに歪められたままで、私の声が耳に届いているのかさえ疑わしいほどだ。
ダメだこりゃ。
わかっちゃいたけど。
そこに眞子と星崎さんがゆったりと姿を現した。
「聡史くん、婚約者をお連れしたよ」
星崎さんが柔らかい笑みを貼りつけたまま言う。
さすが星崎さん。にこやかな空気をまといつつ、ちゃんと眞子を守るポジションにいる。眞子より半歩前だ。傍から見るだけなら、社長と対峙しているのは星崎さんに見えるくらいだ。
そして眞子もさすがだ。さっき放たれた社長のひどい言葉は聞こえてしまったはずだけど、眞子はいつもと変わらない表情で凜と立っていて、そのことが私の気持ちを強くする。
社長は眞子に視線を投げかけた後、目をすっと細めた。
嫌な顔だ。
社長がうっすらと口を開きかけた瞬間、そこから出てくる言葉は決して穏やかなものではないと確信して、その口をふさぎたくなった。
だけど手が届かない。
間に合わなかった社長の口は、その言葉を吐いて捨てた。
「なるほど。君が手切れ金を受け取らなかった理由がわかったよ。まだ息子に付きまとうつもりだったとはね」
その一言に私は頭の先からつま先まで一気に電流が走ったような衝撃を受けた。
――手切れ金?
何だそれ。
それに、付きまとうってなんだ。
眞子は一度身を引いたんだぞ。
それを無理やり結婚させようとしたのは…わたし。
あれ、わたし?
何か実はわたし結構大それたことしちゃった?
ぐるぐる考えていると、社長がもう一度口を開いた。
「あの金があれば、君のお母さんはもっといい病院で最高の治療を受けることができたんじゃないのかね。君は結局、お母さんの命よりもそっちを…自分の幸せを選んだってことか」
今しがた体を駆け抜けた電流が足元から戻ってきて脳天を直撃した。怒りで目の前が真っ赤になる。
殺意が芽生えるってこういう瞬間を言うのだろう。もともと感情の大爆発を起こしやすい私だが、殺意が芽生えたことはいまだかつてなかった。
眞子がどれほどお母さんのことを慕っていたか。どれほど心を尽くして看病したか。たった一人の家族であるお母さんの最期をどんな気持ちで看取ったか。近くで見ていても想像することしかできないその壮絶な苦しみを、こんな形で愚弄されることがあってはならない。憤懣やるかたなくて、握りしめた拳の爪が手の平に突き刺さる。その痛みがなければ感情の波に飲み込まれて我を忘れそうだった。
「親父!」
タカが食いしばった歯の隙間からようやくと言ったようにくぐもった声を吐きだす。私の殺意もこの男の放つ黒い瘴気の前には霞むほどだ。
手が震えてるよ、タカ。
私と同じように体の中で感情の大爆発が起こっているようで、「親父」と言ったきり言葉を紡ぐことすらできずにいる。どうやら手切れ金のことはタカも知らなかったらしい。
それにしてもあっぱれな親友だ。
手切れ金を受け取りもせず、タカにも何一つ言わず、そして今この場でこんな酷いことを言われても、眉ひとつ動かさずに社長を見つめ返すことが出来るなんて。
「私があのお金を受け取らなかった理由はただ一つです」
眞子の澄んだ声が窒息しそうな沈黙を破る。穏やかな声。
ああ、太平洋みたい。
そうだ。私が眞子に初めて会ったとき、太平洋みたいだって思ったんだ。
――動じない。
眞子がそう言ったとき、その通りだって思った。
私の心は日本海並みに荒波だけど、眞子の心は太平洋。
「私は、自分の意志で聡史さんとお別れすることを決めたからです」
タカから空気の抜けたような奇妙な音がして、煙がゆらりと立ち上っているのが見えた。
どうしてこの男は本当に、眞子のこととなるとこんなにヘタレなのか。
私は思わずタカの靴先を蹴った。
しっかりしろよ、という思いを込めてガンを飛ばす。
さっき婚約発表したばかりだろう。自信を持て、自信を。
ああ、足首痛い。タカの靴硬すぎ。
「お金を受け取ってしまったら、別れる理由がお金にすりかわってしまう。だから受け取りませんでした。あの時あのまま交際を続けていたら聡史さんにとって不利益になると判断したから、私は自分の意志でお別れすることにしました。それが、十五年前から今までずっと息子さんを愛し続けている私のプライドです」
澄んだ茶色い瞳の中に社長の顔を真正面から映しこんで、眞子は穏やかに続けた。
かっこいい。
別に強い口調だったわけじゃない。どこまでも穏やかで、静かな言葉。
だけど高垣社長は明らかに眞子の言葉に圧倒されている。
――プライド。
眞子はそういう言葉を簡単に口にする子じゃない。私はそれをよく知ってるから、この言葉の重みがずしりと胸に響いた。
ほらね、聞いた? タカ。
ってオイこら、誇らしげな顔してピンクのオーラ放ってる場合じゃないでしょうが!




