25 対峙して退治する
眞子はタカの隣で超然とほほ笑み、鳴り止まない拍手に応えている。
――よほどのことがない限り動じないよ。
あの言葉は本当だった。
どこからどう見ても互いを慈しんでいる二人の姿に、さきほどの変な空気はどこへやら。会場はすっかり祝福ムードだ。
それと対照的なのが私の隣でがたがたと震えている社長。歯が鳴っているのか何なのか、本当に社長の方からガタガタという音がする。
うへぇ。祝福ムードが台無し。
こんな恐ろしい音を発している人とは正直、一切関わりあいたくない。
だけど不思議なくらい、恐怖は感じなかった。
眞子と星崎さんの姿を見たときのタカの姿の方がよほど怖かった。押し殺した表情の中に数多の感情が折り重なって見えたから。
それに比べて社長の怒りのなんと浅いことか。
本当は怒る資格なんてないのに、自分の思い通りにならないことが悔しくて駄々をこねてるだけ。子供と同じ。
こんなの恐るるに足らぬ。
スポットの中で輝くような笑みを見せる二人の元を離れ、壇上からゆっくりとステップを降りた。後から続いた社長にギュッと腕をとられ、裏のドアから会場の外に連れ出される。
半ば引きずられるようにして歩きながら、私はクラッチの中に素早く手を差し入れた。
社長の手は緩まない。
ちょっと! 痛いからそれ以上引っ張らないでよ! 足首が悲鳴を上げるってば!
心の中でぎゃあぎゃあわめきながらも、菩薩顔を目指した。
少し離れた薄暗い空間にたどり着くと、社長は振り返って鬼のような形相で私を睨み付けた。そして口を開く。口の形で、次に飛び出してくる言葉がわかった。
「一体どういうつもりだ!」
最後の「だ!」を言う頃には、怒りに歪んだ顔が真っ赤になっていた。
梅干しみたい。赤くて、しわしわで。往年のイケメンが台無しだ。むわっと香るオードトワレだかオーデコロンだかオーデパルファンだか何だかが鼻をつく。どうせパーティーだからと気合いを入れてめいっぱいふりかけてきたんだろう。
「どういうつもりかと問われましても……息子さんと眞子が結婚し、息子さんは四月から社長に就任するということになったようですね」
「君はこれでうまくやったつもりか! 私は許さんぞ。聡史があの女と結婚すると言うなら、社長の座は譲らん!」
「でも、息子さんは今も眞子を愛しています。それなのに私と結婚させようとなさるのですか? 私がそんな結婚を望むとでも? 私も眞子も社長夫人の地位など望んでいません。自分が心から愛する人と結婚したい。ただそれだけです」
「許さん! 許さんぞ!」
弱い犬ほどよく吠えるというのは本当だな。
「いいえ。お許しいただきます」
私は努めて冷静に社長を見据えた。
小さい頃から目つきが悪いだの威圧感がありすぎるだのと言われ続けて幾十年。
自分を悩ませ続けたこの迫力が、こんなところで役に立とうとは思わなかった。
「専務の新社長就任はすでに取締役会で決議されたことです。社長の一存でくつがえすことはできませんわ」
「できるさ。そもそもあいつを社長に据えると言い出したのは私だ。古株の取締役からは反対もあったが、私が苦心して取りまとめたんだよ。私が退任を先延ばしにすると言えば、他の取締役も皆私の決定に従う」
「たしかに社長がそうおっしゃれば、あるいはそうなるかもしれませんね」
そうだろう、とうなずきかけた社長を遮るように続けた。
「でも、社長はそうなさらない」
「……なぜそう思う?」
私は不敵に微笑んでみせた。
「お孫さんのお顔が見たくはありませんか? 二人の結婚と専務の新社長就任を認めなければ、お孫さんの顔を見れる日は来ません」
社長就任を認めずタカを追い出せば孫は見れなくなるし、タカはもう眞子以外と結婚する気はないだろうから、眞子との結婚を阻めば孫は生まれない。
「ああ、それとも……」
私は顎をすっと持ち上げた。ただでさえ見下ろす位置にあるその社長の顔を、意識的に見下すようにして続ける。
「孫くらい年の離れたお子さんがじきに生まれるから、孫はいらないと?」
社長はかすかに肩を揺らした。
「社長に似たお子さんが生まれるといいですね」
「何が言いたいんだ」
絞り出すような声だ。さっきまでの自信はどこへ行った。
「隔世遺伝、と聞いたことがありますが、あれは俗説でしたかしら?」
またもぎくりと肩を揺らす。
隔世遺伝、だけで言いたいことがわかるなんて、よほど気にされていると見えますな。
「お子さんが生まれた暁には、わたくしから素敵なお帽子をプレゼントいたしますわ」
社長の目が見開かれる。
「社長がいつもかぶっておいでのような、素敵なお帽子を」
だれも知らない社長の秘密。
お帽子と言ってやったのはせめてものお情けだ。完璧な作りでそれとわからないようなカツラをこの人はずっとかぶっている。
舐めるなよ、うちのじいちゃんはずっと小さな町工場でカツラを作ってたんだ。その孫の私が、カツラを見抜けないわけがない。どんなに精巧な作りでも、人工頭皮を使ってつむじまで完璧でも、カツラ屋の孫にはわかる!
別に禿げているのは構わないし、それを隠すのも構わない。そんなことを非難しているのではない。というか、カツラ屋の孫としては禿げている人もそれを隠す人も大歓迎だ。だから、初めて会った時から社長の頭髪事情には気づいてはいたが、私はそれを誰にも言わずに来たのだ。社長の息子であるタカにすらその話をしたことはない。
ただ、この人の生き方が大嫌いだ。
コンプレックスは誰にだってある。私の場合は、高い身長がずっとコンプレックスだった。だからこそ、コンプレックスを抱える人の気持ちがよくわかる。
人はそうやって他人の気持ちを学んでいくものだ。
不完全でいいのだ。皆不完全なのだから。
そもそも、何をもって完全とするかだって、価値観によりけりだ。髪の量も、家柄も。
それなのにこの人は、すべてを自分の物差しで計った挙句、そこからはみ出た人間を否応なしに傷つける。他人の気持ちなんて何のその。
何のための人間だ。
何のための弱さだ。
人の痛みを知るためじゃないのか。
中島みゆきの歌の歌詞みたいになったところで、社長の表情が変わった。
空気がピリリと張り詰める。
「愛人の妊娠のことや……髪のことをネタに、私を脅すつもりか」
「いいえ、まさか。これはお願いです。二人の結婚と新社長の就任を祝福し、ご自分のお子さんを認知してくださいませんか」
私の願いはこれだけだ。
親として、人として当然のことだと、少なくとも私は思う。
「……公表したければするがいい。愛人のことを公表されて傷つくのは私ではないからね。愛人なんて別に珍しいことじゃない。公表されたって痛くもかゆくもないね。むしろ傷つくのは女性の方じゃないのかね? 私に妻子あることを、彼女は当然に知っていたのだから」
このオヤジ、どこまでサイテーなんだろう。
それに、今さらっと髪の毛の話を流したな。
髪の毛のことを公表されたら痛くてかゆいんだろう。
まぁ、公表する気なんてさらさらないけど。
そんなことがしたいわけじゃない。
人の秘密を暴露して楽しむ趣味はない。
「大体、一介の秘書ごときが私を脅迫するなんていい度胸だ。どうなるかわかっているのか」
だから、脅迫じゃなくてお願いだっつーのに。
「私の進退のことをおっしゃっているのなら、これを」
私は中身が見えないように慎重にクラッチを開けて白い封筒を取り出す。昨晩急いで書き上げた辞表だ。
「覚悟はとうにできています」
これ以上苦しむ眞子をタカの傍で見ていたくなかったから、どのみちやめるつもりだったのだ。だけどタカの一言で、闘うことを決めた。闘ってすっきりして辞めるなら、最高の気分だ。
が、封筒は社長には渡さずに自分でふん掴んでおく。
切り札を簡単に渡してなるものか。辞める覚悟はできているが、こっちは生活が懸かっているんだ。簡単に辞表を叩きつけるようなことはしたくない。これは最後の切り札なのだから。
「会社をやめるくらいで済むと思うなよ」
社長の口から飛び出した言葉に、今度は私がぴくりと肩を揺らす番だ。
「どういうことでしょうか」
「確か君にはお姉さんと妹さんがいたね。お姉さんのところには小さな子供もいたはずだ」
「それが何か?」
なんであんたが私の家族構成まで知っているんだ、と言ってやりたいところだが、答えは聞かずともわかっている。タカの婚約者としてふさわしいかどうか調べ上げたってわけだ。ご苦労なこって。痛くもない腹を探られても全然支障はないが、残念なほどつまらない調査結果だったに違いない。しがないサラリーマン家庭で普通に育った普通の女だから。あ、じいちゃんはカツラ屋だけど。
「大事だろう? お姉さんや、幼い甥っ子さん。妹さんに、ご両親」
私は首を傾げて見せた。
「家族ですからもちろん大切ですが、それが何か?」
「守りたくはないか?」
「何からですか? 今のところ皆平和で元気に暮らしておりますが」
すっとぼけると、さすがに社長は苛立った表情を見せた。
「だから、そんな平和などひとひねりだ、と言っているんだ」
まだちょっと甘いな。もういっちょ。焦れる心をひた隠して必死にとぼける。
「おっしゃっている意味がわかりません。この状況と私の家族がどう関係あるのでしょう」
「私の小さな秘密を知っているくらいで調子に乗るなと言っているんだ! 家族に危害を加えられたくなければな」
小さな秘密、ね。
そして危害、と来たか。
これでも十分だろうけど、もう一押ししとくか。
私は蒼白っぽい顔をして唇を震わせた。人の感情に無関心なこの社長は、学芸会で木の役しかもらえないような私のお粗末な演技でもころりと騙される。
「家族に何をなさるおつもりですか! 私の家族には全く関係のないことです! 何もしないで!」
悲壮っぽい叫びを上げると、社長がにやりと唇をねじり上げた。
嫌な笑い方だ。
「それなら君も、うっかり口をすべらせたりせんことだ」
社長は私の方を見ようともせず、ポケットに手を突っ込んで明後日な方向を見つめている。
「策を弄して私を陥れようとでも思ったか。そんな浅知恵で。私の人脈を舐めてもらっては困るよ。その筋の知り合いだってたくさんいるんだ」
最後の一言を言う前にこちらを睨みつけ、フンと鼻を鳴らして社長が凄む。
わお。穏やかじゃないねぇ。
この時ほどデカい背をありがたいと思ったことはなかった。セリフの内容は相当不穏だが、下から見上げられながら凄まれても全然こわくない。
浅知恵ねぇ。言ってくれるじゃないの。
昔から口は災いの元って言ってね。
あんまり魔法使いを舐めなさんなよ。
クラッチの中の秘密兵器が火を噴くぜ。
私は目を眇め、クラッチを開けて手を突っ込んだ。手に触れた硬質なそれは、先ほどから静かに働いてくれている。それを握りしめて取り出そうとしたその時、背後から冷気がどっと流れ込んできて、それに続くように「親父」という氷点下な声が肩を飛び越えて目の前のオヤジに降りかかった。
あら、王子様の登場だわ。