24 婚約発表
専務がグラスを割ったせいで一瞬水を打ったように静まり返って時が止まった周囲は、音の原因がわかるとすぐに流れるように視線を戻して談笑を始めた。
時が止まったままなのは専務だけだ。
まばたきすら忘れたようにじっと壁を見つめている。
靴先の水滴を拭き終わって顔を上げ、専務の視線の先を追うと、そこには大きなドアがあるだけ。
一体何を見ているのだろう。
そう思って立ち上がり、専務と同じ目線になってみて初めて分かった。
ため息がこぼれる。
「そんなに焦がれるくらいなら、早く捕まえておけばいいのに」
専務は、木のドアを囲むステンレスの枠に小さく映りこんだ星崎さんと眞子の姿をじっと見つめていたのだ。磨き上げられたステンレスは鏡よりも少し柔らかく、ふんわりと二人の姿を映し出している。
「……なぁ久美、眞子は星崎さんと結婚した方が幸せだと思うか?」
その言葉にまた、ため息がこぼれた。
このヘタレは、どこまでも眞子のことだけを想っている。
「どうでしょうね。何が正解かなんて最後までわからないと思いますよ」
人生は何が起こるかわからない。どの道を進むのが正しいかなんて、誰にもわからないのだ。だからこそ、後悔しないために自分が望んで選んだ道を歩かなくてはならない。
ステージの脇から送られてきた「そろそろ準備を」という視線を受け止めて軽くうなずき返し、専務の背をそっと押した。
「専務。そろそろ就任発表のお時間です。ステージの袖に向かいましょう」
青白い顔をしたままで専務は頷いて見せる。
大丈夫なのか。これから壇上に上がるっていうのに。
ゆっくりと会場の照明が暗くなり、司会者にスポットライトが当たった。
「ここで社長の高垣より、皆さまに重大な発表があります」
そうしてスポットライトが切り替わった先には、壇上に立つ社長の姿があった。つやつやの黒髪に光が当たってきらきらと輝いている。
「えー、実は……」
キーン、という耳に痛いハウリングと共に社長の声が流れ、私は奥歯を噛みしめる。
社長、前に出すぎ。足元の線から前に出たらハウリングを起こすって誰も説明しなかったのだろうか。
社長は慌ててマイクの電源を入れたり切ったりしている。
その社長から視線を外し、後ろに控える社長秘書の早乙女さんを見やると、ニヤリとひねた笑みが返ってきた。
ああ、なるほど。あれはわざとだな。いろんな意味で、確信犯。
ホワイの妊娠は、同じ社長秘書の早乙女さんにはさすがに隠しておけなくなり、少し前にホワイ自身の口から事実が伝えられていた。事実を知った早乙女さんは社長の暴挙にぶち切れつつ、ホワイの体調を心配してなるべく負担をかけないように仕事を割り振ってくれていた。
そんな彼女はどうやら大切なパーティーの場で社長のマイクをハウらせることで溜飲を下げることにしたらしい。
地味な方法だけど、私はこういうの、嫌いじゃない。
誰も傷つかない方法で溜飲を下げるのが本当は一番いいのだ。いや、ハウリングのせいで列席者の鼓膜は多少ダメージを食らうかもしれないが。
そういう方法がいいとわかっていながら、私は今日どデカイ花火を打ち上げようとしてる。
それが正しいと思っているわけではない。
ただ、まともな闘いを挑んでも無駄な相手だということを、この十数年身を以て実感させられてきたのだ。
ここから先は、出たとこ勝負だ。
相手の対応によって戦い方を変えることになるだろう。
小さな打ち上げ花火で終われるか、それとも爆弾になるか。それはタヌキおやじよ、あんたが決めることだ。
にしても、そろそろハウリング止めてくれないかな、奥歯が痛くてしょうがないんですけど。
そう思ったのとほぼ同時に、耳をふさいだ早乙女秘書がすっと社長に近づいてもう少し後ろに下がるようにと身振りで告げる。出鼻をくじかれる形になった社長はひどく不機嫌そうだった。
「実は4月から、息子が私の後を継いで新社長に就任することが決まりました」
気を取り直して告げられたその言葉に、列席者から拍手が上がる。本当ならもう少し盛り上がるべき発表なのだろうが、ハウリングのせいで空気がゆるんでしまっている。
専務はそんな空気をよそにスポットの光の中につと歩み入って社長の隣で頭を下げた。私は少し離れたところからその姿を見守って、何度も何度も深呼吸をした。
光の中、専務がゆっくりと口を開く。
さきほど食らわせたジャブの影響が気にかかったが、スピーカーから聞こえたタカの声はいつも通り落ち着いていた。
眞子のこととなると呆れるほどヘタレだが、仕事では抜群の指導力とセンスを持っている。つくづく不思議な男だ。
低い声で紡がれる短い言葉の中に、端的に会社に対する思いとこれからの展望が綴られている。就任発表のスピーチなのでさすがに内容の大部分は専務自身が考えたものだが、私は推敲を頼まれて加筆修正をしていた。もちろん、社訓をゴリゴリと盛り込んだことは言うまでもない。
スピーチは情熱と若々しさにあふれ、なかなか感動的だった、ようだ。
私は途中からこの後のことが気になって心臓が早鐘を打ちはじめ、自分の鼓動の音にかき消されて専務の声が聞こえなくなっていたが、専務が話を終えるやいなや周囲から割れんばかりの拍手が沸き起こったところを見ると、大成功だったのだろう。
専務はお辞儀をしてから一歩下がり、光の輪から抜け出した。
専務を始め、多くのスタッフが手順として聞かされているのはここまでだ。
ここから先は、私と社長だけが知るサプライズイベント。
さらにその先は、私だけが知る社長もビックリのイベントが待っている。
専務が下がったあとマイクの前に立った社長は、ゆっくりと深呼吸をするような仕草をしてから一気に言った。
「ここで、私からもう一つ重大な発表がございます。社長就任に伴って、息子は人生のパートナーを得ることになりました。今日この場で、息子高垣聡史の婚約を発表させていただきます」
社長の背後の暗闇の中にいる専務は一瞬呆然と口を開けた。
そりゃそうだ。自分の婚約を自分が知らないって、冗談みたいだよね。
でも冗談じゃないんだなぁ。あなたのお父さんにかかればね、そんなことまで現実になっちゃうんです。
私はずっと、「好きだからこそ別れる」なんて偽善だと思っていた。
好きなら突っ走れ、奪え、単純な私はいつだってそう思いながら、ドラマや映画のヒロイン達を心の中で叱咤してきた。
でも、タカと眞子は違う。彼らの想いは偽善なんかじゃない。
いつも相手のために最善の道を探し、「好きだからこそ別れる」を地で行く、正直で誠実で他人本位な人間だ。
ただ、それがときには物事をややこしくするんだって、そろそろ気付いてほしい。思いやりは大切だけど、それを全部すっ飛ばした決断が必要なときだってあるのだ。
だから、タカ。今からあんたのほっぺたに右ストレートをぶち込むからさ。どうか、どうか立ち向かってほしい。
祈るような気持ちで社長の次の言葉を待った。
「嘉喜久美子さん。前へ」
私の名前が呼ばれた瞬間、タカが素早く振り返って私の顔を見つめた。右ストレートを正面から食らったタカの顔は、どうしようもないほどに崩れてしまっている。
私はその視線を真正面から受け止め、それから素早く視線だけを一瞬眞子の方に動かした。タカの瞳が困惑に揺れる。
「行け」
言葉ではなく見据えた目でそれを告げ、もう一度すっと動かした私の視線を追ってタカの首が大きく回る。
そして今一度こちらを向いたタカの顔は、その一瞬ですっかり元通りになっていた。
私は社長に促されるまま、壇上の光の輪の中にしずしずと進み出た。歩きながらタカの横を通りがかったとき、「そういうことかよ」と呆れたような声が聞こえ、私は口元だけでにやりと笑って見せた。
ゆっくりと社長の隣に立つ。
会場からは再びの割れんばかりの拍手。
私は視界に眞子の美しい顔を捉えて、にっこりとほほ笑んで見せた。
眞子も微笑みを返してくれる。
タカにも眞子にもちゃんと伝わったようだ。これから私が何をしようとしているか。
タカがステージの階段を軽い足さばきで降りて、人混みの中を眞子の方へと向かう。
突然のことに、ざわざわと動揺した声があたりを包み込んだ。
社長の目にそれが見えていないはずはないが、社長は余裕の表情で笑っていた。
発表したもん勝ちとでも思っているのか。婚約を、結婚を、人の気持ちを何だと思っているんだ。
どうやら社長は、ステージを降りて人混みを掻き分ける専務が私との婚約を拒否するために逃亡を図ったと思っているらしい。ここで専務が逃げ出せば社長の思うつぼだ。創立記念パーティーで大々的に発表したことを後で覆すのは至難の業だから。
だけどそんな社長の予想に反し、専務は眞子の元に駆け寄るとその手を取って振り向き、ステージに戻ってくる。
それを見た社長の表情が凍りついた。
社長はやっぱり、眞子がこの会場に来ていることにすら気付いていなかったらしい。
私はすいと手を伸ばして社長の前のマイクスタンドからマイクをもぎ取った。
あんたはそこで化石のように固まって、見てらっしゃい。
わずかな目の動きと「そういうことかよ」という言葉ひとつでわかりあえるタカとの友情も、微笑みを交わすだけで十分に意図を通ずることのできる眞子との友情も、きっとタヌキおやじには理解できないだろう。
だから、理解してくれる必要なんてないのだ。
ただ黙って見ていればいい。
私はすーっと息を吸い込んだ。そしてぐんと背筋を伸ばす。スポットライトを浴びるのなんて小学生の時に学芸会で舞台に立って以来だ。背が高くて細長いって理由だけで、木の役をもらった。あの時より今の方が、ちょっとだけかっこいいかな。そうだといいな。
「ご紹介に預かりました、専務秘書の嘉喜久美子と申します。専務とは学生時代からの長い付き合いでして。ですから今日ここで、この素晴らしいニュースを発表させていただく役目を預かりまして、大変に光栄です」
ざわざわと、さざ波が起こる。
あの人はプレゼンターってこと?
専務が手を引いてる人が婚約者ってことなの?
あら、壇上のあの人が婚約者なのかと思った…高垣社長の言い方だとそんな風に聞こえたけど。
そういう声がどこからともなく上がっては消える。
その間を縫うようにしてタカと眞子がステージにたどり着き、タカが眞子を支えるようにして階段を上がってきた。その二人を出迎えるように私は手を伸ばし、スポットライトの輪から抜け出て二人をその輪の中に導き入れた。
「高垣専務の婚約者をご紹介いたしましょう。
わが社の社員でもあり、
私の親友でもあり、
高垣専務の15年来の恋人でもある、
鴨志田眞子さんです」
一瞬会場はしんと静まり返った。
しかし、眞子とタカが寄り添うようにして二人で深く腰を折ると、すぐにどこからともなく拍手が起こり、会場内をあたたかな祝福の声が包み込む。
それは確かに「どこからともなく」だったのだけれど、私だけは知っている。パチンとよく響く最初の一拍を打ち鳴らしてくれたのが、あの騎士だということを。
――ああ、幸せ。この後向き合わなくちゃならない現実さえなければ、もっと幸せなんだけどなあ。
視界の隅っこに入り込んでくるその人の姿をなるべく思考の外に追いやりながら、私は手がちぎれるくらい拍手をした。十五年分の拍手だ。これでもまだまだ足りないくらいだ。




