23 騎士とお姫様
「腹壊したのか」
トイレに行くと言って帰ってこなかった私をちょっと心配していたらしく、専務は会場でうろうろと落ち着かない動きを見せていた。
「ええ。お腹ピーピーです」
御嬢さんに会ったことは言うべきではないだろうと思ってテキトーに流したら、予想外なことにタカは私の腹事情を心配してくれたらしい。
「薬持ってるぞ。いるか。水なしで飲めるやつ」
ポケットから小さな箱を取り出しながらタカが小声で言う。
ただでさえ便秘なのにそんなの飲んだら後から死ぬほど後悔しそうなので、丁重にお断りした。
それにしても、何で下痢止め薬なんか持ち歩いてるんだろう。テレビCMでおなじみのその薬のパッケージをちらりと見てから、私は専務をしげしげと観察する。パーティーなんて慣れているはずなのに、なぜか落ち着かない様子でそわそわと軽く足踏みをしている姿は、まるで運動会前の小学生みたいだ。そういえばさっきから何度も携帯をチェックしてるし。いったい誰に連絡を取ってるんだろう。
緊張するとお腹が痛くなるような性質ではないはずの専務が下痢止め薬を持ち歩くなんて、今日はよほど特別なことが待っているのだろうか。
あ、そうか。一応専務の新社長就任が発表されるのか。それで緊張してるのね。なるほど、納得。
「それではこれより、高垣コーポレーションの創業記念パーティーを始めさせていただきます」
スポットライトを浴びた綺麗な女の人がお決まりの言葉を告げてパーティーが開宴し、ラスボス退治のバトルフィールドに登場人物が出そろった。
目だけを素早く動かし、騎士の姿を確認する。
その陰に隠れるように、お姫様のドレスがちらりとのぞく。
すすっと会場の反対側に視線をやると、そこには憎きラスボス、タヌキおやじが控えている。
そして私の隣には王子様になる予定の男。よしよし。腹下してる場合じゃないよ、タカ。
開宴するとすぐに壇上には来賓の方々、すなわち偉いおっさん達が次々上がり、祝辞を述べ、それが一通り終わると、創業からの沿革をドラマチックにまとめた社史VTRがちんたらと流れる。
この来賓の祝辞やら社史VTRなんて、いつもなら死ぬほど退屈なやつだ。立ったまま眠れるレベルにつまらない。
でも、今年は一味違っている。
私はぎゅっとこぶしを握りしめ、来賓の話にちゃんと耳を傾けていた。
「誠実、奉仕、努力という社訓はすばらしく……」
「この幕にも掲げられている社訓は、人としての姿勢を問うもので……」
「長い歴史を築いて来られましたもの、この社訓の精神が……」
来賓の祝辞にはひたすら社訓の話が盛り込まれている。
極めつけは『高垣コーポレーションの創業者の信念である社訓は現在もなお脈々と受け継がれ……』という社史VTRのナレーションだ。『脈々と……』のところで、社長の広報用キラキラスマイル写真が挿入されていて吹き出しそうになる。
「みんな社訓の話を盛り込んでくるんだな。社訓の幕があるからかな」
右側にいるタカの呟きに、私は顔の左半分だけで笑った。きっと今の自分は獲物を見つけたグリズリーより凶悪な顔をしているに違いない。
幕があるからスピーチが社訓に触れているわけではない。
スピーチが社訓に触れることを見越して幕を掲げているわけでもない。
社史のVTRで社訓がゴリ押されていたのも、そこで社長の写真が挿入されていたのも、偶然ではない。
『誠実 誠実に行動し、和を重んじて公私の別を明らかにせよ。
奉仕 与えられた仕事に誇りと責任を持ち社会的使命を全うせよ。
努力 日々礼節を怠らず、品位を高め、約束を守り、信用の獲得に努めよ』
どこぞのタヌキおやじに聞かせてやりたいことが満載じゃないか。
ホワイの話を聞いた後社長室に呼び出されたとき、あまりにもイライラして「専務と結婚できるの嬉しいですぅ」な演技にほころびが出そうだったので、何とかして無心になろうと思い、社長の顔の向こうに見えた社訓の額縁をぼんやりと見つめていたのだ。
毎日社長室に掲げられたこの社訓を見ているのに、公私混同しまくって秘書に手を出し、不誠実かつ無責任な行動を取るような人間になれるものなのかと唖然とした。
そこで、ぜひ最終決戦の場でもう一度社訓を頭に叩き込んでいただこうと思ったのが半分。
残りの半分は、新人研修での暗唱地獄の報復だ。声が枯れるまで社訓を叫ばされたのだ。入社から十年経ってもあの恨みは晴れてはいない。私情をこんなところに持ち込むなと言われるかもしれないが、この復讐劇、もとより私情しか絡んでいない。今更恐れるものは何もない。
社訓の幕がこの会場に飾られている理由は簡単。総務にいる同期に、ごく軽―く提案してみたのだ。「今度のパーティー、社訓の幕を飾ったら? せっかくの創業記念パーティーなんだし」と。
社史VTRのナレーションの一文と社長のキラキラスマイル写真は、VTR作りに協力する体で勝手に盛り込んでおいた。
そして来賓の挨拶にやたらと社訓が盛り込まれているのは、秘書ネットワークの賜物だ。こういうパーティーでの来賓あいさつなんて、来賓本人が考えることはほとんどない。骨子を決める程度で、実際の文章はほかの人が書く。秘書だったり、総務の人間だったり、書く人は様々だろうけど。
普段からパーティーなどで秘書同士の交流を深めておいたおかげで、今日の来賓の秘書とは皆、会えば雑談をする程度の仲だった。だから、彼女たちにも「社訓を盛り込んだらうちの社長が喜ぶよ」とそっとささやいておいたのだ。
これで、今日のゲストの頭には高垣コーポレーションの社訓がばっちり刷り込まれたはずだ。下準備はこれでオーケー。
司会者が「続きまして、高垣社長より一言いただきます」とか何とか言って、社長が壇上でつらつらとしゃべっていたが、私は順調な滑り出しについ緩んでしまう顔を引き締めるのに必死で、話なんか何一つ聞いちゃいなかった。
「……それでは皆様ご唱和を。乾杯!」
ああ、社長、乾杯の音頭を取っていたんですか。「カンパイ」という声に正気を取り戻し、隣の専務に向かって軽くグラスを上げてからぐいと傾ける。祝宴の始まりだ。
あーっシャンパンおいしー。
そういえば今日、ドレスショップでもちょっとだけ飲んだなぁ。
あれが今日の朝だなんて信じられない。
一日が長いこと長いこと。
ドレス姿の眞子、きれいだったなぁ。
自然と目が眞子の姿を探して会場をさまよう。
「あ、星崎さんだ」
専務の声に私は思い切り振り返った。
その隣には、美しき眞子が背中を向けて立っている。ドレスに縁どられたその白い背中に私は一瞬くらりとする。
大丈夫か、私。そのうち心の中のおっさんに人格を支配されそうでこわいわ。
「星崎さんのところにご挨拶に行かれますか?」
折を見て私から星崎さんの名前を上げようと思っていたのに、まさか専務が自分で星崎さんの名前を出してくれるとは。
「うん」
星崎さんはこちらに気付いているらしく、敢えて眞子の背中に手を添えて反対側を向かせ、自分もそちらを向いている。さすがだわ、おじさま。
「星崎さん」
至近距離まで近づいてから専務が声を掛けると、眞子の耳元で何かを囁いてから、星崎さんだけがゆっくりと振り向いた。眞子は反対側にいる人と談笑している。
「聡史くん、それから、嘉喜さん。お久しぶり」
私は余裕たっぷりの笑みを返す。
「お久しぶりです、星崎さん」
実はさっきぶりですけどね。
型通りの挨拶を交わしたところで、星崎さんが眞子の腰に手を回して抱き寄せるようにしながらこちらを向けた。
「こちらは鴨志田眞子さんです。今日の僕のパートナー」
「あら、眞子」
「あら、久美」
二人とも少し目を見開くようにして口に手を当て、「あら偶然」とでも言いたげな、白々しくて優雅な挨拶を交わす。
「あれ、嘉喜さんは眞子さんとお知り合い?」
おじさまが無邪気に驚いた様子を見せる。
星崎さん、あんたも役者だねぇ。
「ええ。大学時代からの長い付き合いです」
答えながら吹き出しそうになる。
ちろりと隣の男に目をやると、顔に「驚愕」と書いてあった。あちこちにしわが寄りすぎて逆に表情が読めない。
「聡史くん?」
呼びかけられた専務は目玉が零れ落ちそうなほどに目を見開き、口をぽかんと開けて眞子の顔を見つめている。
おじさまの呼びかけにも何一つ答えない。何か意志があってそうしているわけではなく、話し方を忘れてしまったように見える。
私はそっと専務の肩をつっついた。
「専務? どうされました?」
専務は何も言わずにくるりと踵を返して反対方向に歩き出した。ブリキのきしむ音でも聞こえてきそうなほど、動きが不自然に硬い。
――ちょいちょいちょいちょい、ほかになんかあるだろう。
このひどすぎる反応に対する眞子の感情の揺れが心配になってちらりと視線を送ったが、眞子は愉快そうに、そしてほんのちょっと困ったように笑っていた。あの表情なら、大丈夫だ。
眞子は星崎さんに任せて、一応上司を追いかける。
「ちょ、専務」
ブリキの背中に声をかけると、ギギギーっと音がしそうなほどの時間をかけて首がこちらを向いた。
「久美、知ってたのか」
低い声が震えている。表情はすっかりいつも通りなのに、目だけが血走っている。
ア。これは相当ヤバいやつだ。
あんまり感情を表に出さないタカの目が血走るのは、良くないことが起こる前触れだ。大噴火か、大沈没か。どちらにしても無事では済まないので、つい逃げ出したくなった。
いや、ここで逃げてはダメだ。これは王子様の尻に火をつけるための準備運動にすぎない。
ごくりと生唾を飲み、平然を装って答えたけど、明らかに声が上ずった。
「な、何をですか?」
「星崎さんと、眞子のこと」
「星崎さんがパーティーにいらっしゃることはもちろん名簿で確認しておりますし、眞子も今日どなたかに誘われてパーティーに参加するということは聞いていました」
やばい、私の声まで震えている。肝心なところで度胸不足なのを何とかしないと。
「なんであの2人が知り合いなんだ」
「さあ。世間は狭いですからねぇ」
「眞子はこういう場が好きじゃないと思ってた」
「そうですね。でも、とてもきれいでしたね」
あんたは顔の筋肉に力入れるのに忙しくて一瞬しか見てないかもしれないけど。
「眞子はあんなに背中の開いたドレスなんか着るようなタイプじゃいのに。あれは星崎さんの趣味かな」
いいえ、断じて。
あれを買い与えたのは私で、あれを気に入ったのは眞子自身です。おじさまも褒めてはいたけど、基本的に眞子が何を着てもにこにこ嬉しそうにしていたのでね。
専務は顔を取り繕うと苦労しているのか、一秒と置かずに表情が次々に変化するので、モンタージュを組んでる途中の映像を見ているようで怖い。
「……どうでしょうね。星崎様の趣味は存じ上げませんから」
「久美。今は秘書モードをやめろ。真剣に教えてくれ。お前、何か知ってるんだろ。知らないはずはないよな。眞子のことだ」
「なぜそんなことをお聞きになるんですか」
「秘書モードやめろって。友達として聞いてるんだ」
そんなに簡単にモード切替できないやい。一応仕事中なのに。
それに、それが人にものを頼む態度か、と問いたくなる。
「二人がお付き合いをしているとか」
そこまで言ったところで、タカは手に持っていたグラスを床に落として粉々にしてしまった。ああ、高いシャンパンなのにもったいない。
「……そういったことは聞いていませんね」
ほら、最後まで聞かないから。
タカは私をぐっと睨みつけてくる。
「からかうのはやめろ」
「からかっていません。専務が勝手に勘違いなさっただけでしょう」
「専務呼ばわりはやめろ」
専務呼ばわりって。役職名でしょうが。
「そんなにご心配なら直接お尋ねになったらいかがですか」
「そんなみっともないことできないだろう」
いや、すでにみっともないことしてるから。星崎さんの呼びかけをガン無視してブリキ並に颯爽とその前を立ち去って、その上グラス粉々にして。
ボーイさんが持ってきてくれた雑巾で専務の足元にこぼれたシャンパンをふき取り、割れたグラスを一か所に集める。そしてクラッチからハンカチを取り出して、専務の靴に散った水滴をふき取ってやる。
その間も専務は呆然と立ち尽くしているだけ。
私は靴先をきゅきゅっと拭きながらこっそりため息をついた。
こんなのジャブだよ、タカ。
この後右ストレートが飛んでくるんだから。
まぁ、飛ばすの、私だけどな!
ほら、私とあんたの婚約発表がもうすぐはじまりますよ!