22 御嬢さんとの再会
臨戦態勢に入って下っ腹に力を入れたらトイレに行きたくなった。
「ちょっと失礼してお手洗いに行ってきます」
「もうそろそろ始まるから急げよ」
はーい、と軽い返事をして入口付近のトイレに急ぐ。
「嘉喜さん」
用を足し終わって手を洗っていたら、正面の鏡に人が映り込んだ。
その思わぬ人物の姿に、鏡の中の私は目を見開いた。
あわてて水を止めて振り向く。
「篠原さん……」
専務の元婚約者が、そこに静かにたたずんでいた。
――しまった、今日来ちゃったのか。
あの平手の後眞子はきちんと篠原さんに謝罪をして、篠原さんもすんなりとそれを受け容れ、二人の関係は元に戻ったと眞子から聞いてはいた。
しかし、さすがに今日の計画にこの子を巻き込みたくはない。
篠原父には私の意図は伝わらなかったか。
――困ったなぁ。
私が言葉に窮していると、御嬢さんはにっこりとほほ笑んだ。相変わらず柔らかくて、美しい。
「いろいろとご心配をおかけして申し訳ありませんでした。それをどうしてもお伝えしたくて、ここへ来たんです」
「私の方こそ……」
私は深く頭を下げた。言葉が続かない。
「父から話は聞いています。さきほど駐車場で偶然眞子さんにもお会いしました」
なんだ、もう会ったのか。
「ここへは、嘉喜さんに会いに来たんです」
へっ?
私に?
「嘉喜さん。婚約破棄の理由、聡史さんからお聞きになりました?」
私は首を振った。
「いいえ。何も」
本当のことだ。タカは私に何も語ろうとしなかった。
「聡史さんと嘉喜さんと眞子さんは大学時代からのお友達なんですよね?」
「ええ」
「それなら、私と彼のお見合いの頃から、嘉喜さんは板挟みで嫌な思いをされていたんじゃないですか。知らなかったこととはいえ、申し訳ありませんでした」
御嬢さんは優雅に手をお腹の前で軽く組み、ゆっくりと腰を折る。
高そうな白いスーツがまぶしい。
「とんでもない。篠原さん、顔を上げてください」
慌てて彼女の肩に手を当て、上半身を持ち上げた。
長いまつ毛越しに、透き通るような瞳が私を見つめている。
「眞子と専務とは確かに長い付き合いで、大切な友人です。専務とあなたのお見合いやデートのためにスケジュール調整などをしながら、複雑な気持ちにならなかったと言えば嘘になります。だけど私は、あなたのことが本当に好きでした。眞子と専務のことを知っていながらあなたにお伝えしなかった私には大きな非があります。謝るのは私の方です。眞子のしたことも……」
婚約破棄の理由がなんであれ、あれがきっかけだったのは間違いないだろう。
でも、篠原さんは静かに首を横に振った。
「婚約破棄の理由は『彼が未来永劫私のことを愛さないという確信を抱いたから』です」
「え?」
「私は眞子さんを先輩としても人としても心から尊敬しています。眞子さんと聡史さんが恋人同士だったことを、私はずっと知らなかったんです。それが、偶然噂を耳にして……」
「そう、だったんですか」
「聡史さんが私を愛することはない、と思いました。眞子さんがどれだけ素敵な女性かを知っているからこそ、眞子さんには絶対にかなわない、と。だから眞子さんが私の頬に触れる前に、私はすでに婚約破棄を決めていました。だけどそれを眞子さんにうまく伝えられなくて、あんなことになってしまいました」
頬に触れる……ね。
平手打ちをそんな風に表現できるこの子の心の広さは計り知れない。
「眞子さんにお伝えいただけませんか。婚約破棄とあのことは関係ないって」
私は神妙にうなずいた。
「わかりました。確かに伝えます」
「それから私、近々会社を辞めようと思っています」
私は目をしばたいた。
彼女を見つめ返すと、瞳がかすかに潤んでいるのがわかった。
そっか。つらかったのは眞子だけじゃないのか。
一度は婚約していた人の会社で働くこと。
つらくない方がおかしい。
そんな単純なことに、今更になってようやく気づいた。
身近な人の苦しみには敏感なくせに、そうでない人の苦しみには、人はこうも無頓着なのだ。
「最後にひとつだけ……父から今日眞子さんと聡史さんの婚約が発表されると聞きました。それと同時期に私が退社してしまったら、眞子さんにご迷惑がかかるかもしれません。心無い噂や……」
ああ、と私は頷く。
「私が会社にいれば、当事者として噂を否定することもできますが、辞めてしまったらできなくなります。だから、どうか……」
眞子を守れってか。
この子、何でこんなにいい子なんだろう。
私は知ってる。お見合いの政略結婚と見せかけて、この子が本当にタカのことを好きだったこと。だって、同じなんだもん。タカを見る目が、眞子と同じ。
どうかこの子に、すばらしい出会いがありますように。
目頭がどうしようもなく熱くなった。
私は元来泣き虫でもなければおセンチな人間でもない。
だけど、ついつい涙が出てくる。
「私もあなたに、ひとつだけどうしても言いたかったことがあるんです」
私のぼやけた視界の中で、立ち去ろうとしていた彼女が足を止めて振り返った。
「なんですか」
美人の瞳もまた、潤んでいる。
「あなたは、あんなヘタレ男にはもったいないですよ。もっと包容力があって、もっと素敵な男じゃなきゃ」
篠原美優は泣きそうな顔で微笑んだ。
トイレを出ると、すぐ近くの柱に篠原さんによく似た中年のご夫婦が立っていた。ご両親だ。彼女が軽く話をすると、すぐに心得たように私の方へ視線を寄越し、上品に微笑みをくれる。
私は立ち止まって深々と腰を折った。
なぜだか、あの子にはそうしたくなったのだ。
傷ついたはずなのに、あれだけ高潔に振る舞えるものなのか。
私だったらきっと泣いてわめいて大騒ぎだ。
胸の奥がまたしくりと痛くなる。
篠原美優は最後にひとつ会釈して、お母さんと思しき女性と共に会場から去って行った。
お父さんだけは残るようだ。
本当に私に会いに来てくれたのかな。
それがなんだか無性にうれしくて、そして哀しくて、心がまたマーブル色になる。でもどす黒くない、さわやかな青と白のマーブル。ちょうど今日の昼に見た空のようだ。