21 舞踏会のはじまり
ブーン、と真新しいクラッチが震えるのを感じて、携帯を取り出した。
あ、専務からだ。
小窓の表示を確認し、思わず口角が上がった。
時計を見ると、パーティーの開始時刻まであと30分ほど。
会場に着いたタカが私がいないことに気づいてじりじりしてるってとこか。
「久美子さんも会場まで送っていくよ。近いけど、歩くとドレスも乱れちゃうでしょう。どうせ同じ場所に行くんだから一緒に行けばいいよ」
携帯を見つめているとおじさまから声がかかった。
「いえ、作戦を知られるわけにはいきませんから。私はここから歩いて行きます。大丈夫ですよ、なんたって歩きやすい靴ですから」
ドレスの裾をつまんでぴらっと足を強調してみせる。
おじさまに買ってもらった靴がピカリと輝いている。
うわぁ、こういう言い方するとなんか、若い女の子がおねだりして買ってもらったみたいでやだな。いや、私はあんまり若くないけどさ。
「じゃあ着替えや荷物だけ預かって車に入れておくよ。帰りに声をかけてくれたら渡せるし、また後日でもいいし」
何て気が利くんだろう、この人。
「いいんですか」
「うんうん、気にしなくていいよ。人質みたいなもんだ」
さっきから時々わけのわからないことを挟み込んでくるな、おじさま。
私は丁寧にお礼を言い、眩しい親友に手を振って歩き出した。
少し歩いたところで通話ボタンを押す。
途端に、聞きなれた声が耳に飛び込んできた。
『電話出るの遅い。お前、今、どこ』
心の中の笑いをかみ殺しながら、あえてのんびりと言ってやった。
「あら、専務。会場のすぐ近くを歩いています。美容院で髪をセットしてもらっていたので。専務はどちらにいらっしゃるんですか?」
『会場前だよ。あとどれくらいで着く?』
「5分もかからないと思います」
『オッケー。じゃあ、待ってる』
そう言って電話が切れた。切れる直前に電波に紛れ込んだ「そんな髪にセットもくそもあるのか」という最後の呟きは聞こえなかったことにしておいてやる。大きな幸せで胸がいっぱいなので、小さなことでは腹も立たない。
会場のホテルとは大通り一筋違いなので、速足で歩いて角を曲がるとすぐにホテルが視界に入った。入口の前の歩道にタカの姿が見える。
毎年恒例の創業記念パーティーはかなり大々的なもので、去年までは私も前日から詰めて準備に参加していた。だけど今年は「嘉喜さんは色々と準備もおありだろうし、当日少し早めに来てくれたらそれでかまわないよ」との社長のお言葉に甘えて、タカと同じタイミングで会場入りすることになった。
タカの婚約者として恥ずかしくない格好をして来い、と暗に言われたわけだが、わたしはそのご厚意に大いに甘えてちちんぷいぷいしていたのだ。
まぁ、タカの未来の婚約者を変身させていたのだから、社長の意図から大きく外れたことをしていたわけでもないし。いいだろう。
私が抜けた穴の分働いてくれた人には申し訳ないが、この後待っているビッグイベントもといビックリイベントを前にすれば、疲れなんて吹き飛んでしまうこと請け合いだ。
「お待たせしましたっ」
実際は一歩も走ってないが、急いだ感を出すために肩を落として膝に手を当て、少しぜえぜえしてみる。
「あれ、思ってたほど変じゃないな。その髪」
失礼な。
思わず目を眇めたが、すぐに思い直す。
靴とクラッチとピアスと美容師さんの腕がなければ間違いなく変だったんだ。ここは私がむっとするところではない。
「ありがとうございます。メイクも美容師さんにやっていただいたので、いつもよりちょっと華やかです」
ニキビも魔法みたいにコンシーラーで消してくれたので、傍目には鼻の先っちょがほんのちょっとだけ盛り上がっているくらいにしか見えない。
タカの後について歩いて会場内に入っていくと、メインステージの後ろに大きな社旗と社訓の書かれた幕が掲げられているのが見えた。
『誠実 誠実に行動し、和を重んじて公私の別を明らかにせよ。
奉仕 与えられた仕事に誇りと責任を持ち社会的使命を全うせよ。
努力 日々礼節を怠らず、品位を高め、約束を守り、信用の獲得に努めよ』
新入社員の研修で暗唱させられたなぁ、あの社訓。当時の私は「何の役に立つんだよ」と思っていたが、これも今読み返してみるとなかなかに感慨深い。いやぁ、良いこと言ってるよ。頭の中で読み上げながらその幕を見つめて思わず口元が緩む。
「なんかお前気持ち悪いほど上機嫌だな。いいことでもあったのか」
タカが隣から私の表情を覗き込むようにして尋ねてきた。
これからいいことがある予定なんです。
心の中で呟きながら、表情を殺してゆったりと「いーえ? なにも?」と言ってやる。しまった、ちょっと力が入ってしまった。語尾が不自然に持ち上がってしまった。「社訓が目立つところに掲げられていて、いいカンジですねぇ」
専務は眉を吊り上げたが、何も言い返しては来ない。
「招待客のデータは頭に入ってるな?」
「ええ」
これも秘書の仕事ですからね。
人の顔やら役職やらをきちんと記憶して、会場内で背後からささやいてあげる。仕事柄たくさんの人に会う彼らがすべて覚えているのはほぼ不可能なので、代わりに秘書がそれを頭に叩き込んでおくのだ。趣味とか、誕生日とか、そういうのも入れとくと会話が弾むし相手に好印象を与えることができるので大変便利。今日は特に、高垣がホスト役のパーティーなので、招待客の情報は完璧に覚えておかなければならない。
「昨日名簿には目を通しましたけど、お会いしたことのある方がほとんどでしたよ」
私にとって今日のメインイベントは眞子のことなので、パーティー本体は正直二の次だった。それでも給料分は働かなくちゃならないので、招待客の名簿に隅から隅まで目を通し、顔と名前を一致させる作業はきちんとしていた。
眞子の今日の変身のための店探しや予約の作業と並行して普段の仕事とパーティーに向けた仕事をこなさなきゃならなかったせいで睡眠不足がひどく、鼻のてっぺんのニキビと額のシワをこさえることになったのだ。
「篠原さんのお父様も、ご出席で承っているようです」
私が言うと、タカの眉毛がピクリと動いた。
タカの元婚約者のお父さん。
私は最後に会った時の彼の渋い表情を思い出す。
今日のパーティーを最終決戦の場と定めてから、すぐに私は篠原父に連絡を取った。
あの御嬢さんをこれ以上巻き込んだり傷つけたりするのは避けたかったからだ。あの子に何の恨みもないし、いい子だったんだもん。
計画の詳細は話していないが、創業記念パーティーに眞子を連れて行くつもりであることと、そこで眞子とタカの婚約を発表する目論みであることを告げると、篠原父は「そうですか。わざわざ知らせて下さってありがとうございました。」とだけ言った。その眉間には海溝並みの深い皺が寄っていたけど、何を考えているのかは結局読み取れずじまいだった。
もし私の意図がきちんと篠原父に伝わっていれば、御嬢さんが今日会場に現れることはないだろう。
「篠原社長にはきちんとご挨拶しないとな」
「そうですね」
なんたって、元婚約者のお父さんだからね。
気まずい沈黙が流れて、思わず手に持っていたクラッチのふたをパカパカしてしまった。
「それ、ガキっぽいからやめろ」
タカに呆れた声で言われ、クラッチを小脇に抱えて肩をすくめた。
へーい。
何はともあれ、変な沈黙が去ってひとまず安心だ。
「ああ、今日はたしか星崎さんも来るんだよな。久しぶりに会うから楽しみにしてたんだ」
私のちちんぷいぷいなぞ知る由もないタカが目尻を下げた。
うれしそうね、あんた。
無邪気に笑ってられるのも今の内だけだけどね。
堂々とした眞子をみて、こいつはどんな反応をするんだろう。
楽しみでしょうがなくて、うししっという笑い声が漏れそうになるのを必死で押し込めて肩を縮める。
「それにしてもお前、いつも以上にでかいな。肩をそうやってすぼめてもまだデカいぞ。なんだその靴」
ムカぁ。
人が気にしていることをずけずけと言ってくるところは、高校時代から全然変わらない。高校時代に初対面で「へぇ、君身長も態度もデカいねー」と言われた時は本気でひねりつぶそうかと思った。あのときのことを思い出すといまだに拳に力が籠る。今ほど開き直っていなかったうら若き乙女は、あの無神経な一言にひどく傷つけられたのだ。
傷ついたくせにひねりつぶそうと思うあたり、私の気の強さは昔からだということがよくわかるわけだが。
うら若き乙女を傷つけたその男は当時まだ声変わりもしていないヒョロンとしたモヤシで、たしか身長は百六十くらいだった。その後高校時代にタケノコ並みの成長を見せ、今は百七十六くらいになったはずだ。
で、十二センチヒールにより百八十四センチ(サバを読まなければたぶん187センチ)になっている私のぶっちぎり勝利なのである。
むかついたので、わざと間合いを詰めて見下ろしてやった。
「そんな高いヒール履いて、すっ転んでも知らないからな。足だってまだ完治してないくせに」
タカは私を見上げながら言った。
「ああら、いい靴だから。安定感抜群で簡単には転びませんのよ」
ほほほほほ、と高笑い。
気味悪いものを見るような目で見られたが、別に全然オッケーだ。
今日は何を言われてもきっとにこにこしていられる。
「お前、最近性格悪くなったよな」
元からだっつーのよ。最近あんたに対して棘があるのは、そのヘタレっぷりにイラついているからだしね。
タカはまだ私に彼氏ができたのだと信じて疑わないようで、「フラれても知らないからな」と明後日な心配をしてくれる。余計なお世話と言うか、無駄なお世話だ。誰にフラれるっていうんだ。
「そうおっしゃる専務こそ、最近ますます眉間にしわが寄っておられますわねぇ。何かストレスでも?」
タカのストレスの七割くらいは眞子とのこと、一割くらいは篠原さんの婚約破棄の件、残り二割は私の態度ってとこかしら。いや、もしかしたら私が与えてるストレスはもうちょっと大きいかしら。おほほほほほ。
「お前にだけは指摘されたくねえな」
タカは本当にいやそうに眉をひそめた。
「ここでは秘書ですから。秘書に横柄な態度で接している器の小さな男と思われないようにお気をつけくださいね」
私はそう言ってクラッチを握りしめた。
エナメルって手汗かくとすべるんだな。指紋つくし。色が紺だからまた指紋が目立つったら。
節約のために自分で施したネイルがちょっと禿げかかっているのにげんなりしながら、美しい上質のクラッチバッグを見つめてほうとため息をついた。
「そろそろお客様を会場に入れます。準備はよろしいですね?」
会場設営のスタッフから声がかかり、私は奥歯をぐっとかみしめ、両足をふんと地面に押し付けた。
さぁ、戦闘開始だ。