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髪を切るとき  作者: 奏多悠香
本編
20/36

19 い

 車に乗るなり、おじさまが言った。


「お昼ごはんは僕チョイスのお店でいいかな。近くにいい店があるんだ」


 あれ、もうそんな時間ですか。

 私は時計に目をやる。

 十二時。待ち合わせたのが九時。結構経ったんだなぁ。でも、いい感じ。

 次の工程は十四時からの予約になっているから、ゆっくり食事ができそうだ。


「あ、星崎さん。私スーツだし、そんなに高級店は……」


 ドレスコードのあるようなレストランに上下セット1万円のパンツスーツで入るわけにはいかない。あわてて言うと、ゆるい声が返ってきた。


「大丈夫ですよー」


 星崎さんがそう言うなら、本当に大丈夫なんだろう。


「はーい」


 負けじと気の抜けた返事をしておいた。


「眞子、お腹空いてる?」

「うん。ぺこぺこ。こんなにお腹すいたの久しぶりかも」


 最近あんまり食べてなかったもんね。

 知ってるんだから。

 私にはバレてないつもりだろうけど、わかってたんだから。

 お昼ごはんに野菜ジュースだけの日が続いてたこと。

 そしてきっとそれはお昼だけじゃないってこと。

 私の目は、誤魔化せないんだから。


「何度も着替えて疲れてるでしょう。ちょっとゆっくりしようね」

「ありがとう」


 そう言いながら、私はまたしても眠ってしまったらしい。

 眞子の疲れをケアっている場合ではない。人様の車でこんなに爆睡するなんて、どうかしてる。

 星崎さんの選んでくれたレストランは隠れ家風のビストロで、店に入るとすぐに奥の個室に案内された。


「個室の方がゆっくりできるからね」


 さっき靴屋で電話していたのはここだったのか、とその手際の良さに感動すら覚えた。仕事ができる人ってこういうところでも気が利くのかな。それとも、それとこれとは別の能力なんだろうか。

 なんにせよ、こういうのをスマートな人っていうに違いない。

 秘書として、その段取りの良さや気遣いは見習わなくてはならないとぼんやりと思いつつ、いやこの人を見習うのは無理かもしれないと思った。レベルが違いすぎる。きっとおじさまは若いころからずっと当たり前のようにセレブな生活をして、その中で自然にこういうことを学んできたのだ。一朝一夕で身につくようなものじゃない。

 いやぁしかし……

 個室を見渡しながら思った。

 今日一日で、信じられないほどのセレブ体験。

 個室でご飯なんて、居酒屋でしか経験したことなかった。 

 オーク材のテーブルに、白いライナー。その上に並べられた食器。

 決して派手な意匠ではないのに、重厚感と歴史を感じさせるそれらは、きっとどれも高級品なのだろう。

 思った以上にお腹が空いていたらしく、おしゃべりしながら運ばれてくる料理に舌鼓を打っているうちに随分と時間が経っていた。


「そろそろ出ようか」


 おじさまの号令で席を立ち、「お会計は私が」と言うと、おじさまは首を振った。


「もう終わってるから、いらない」


 終わってるってどういうことだ。

 そっかさっきトイレに行くとか言って出て行ったときか。

 本当に、どこまでもスマートなんだなぁ。


「僕も食べたのに、久美子さんに払わせるわけないでしょう」


 ちょ、あなた、ギブアンドテイクって覚えてますか。

 あとでテイクされるのが恐ろしいほどギブするのやめてください。


「出していただく理由がありません」

「これがぼくのテイクなんだよ」

「いや、それ、星崎さんにとってギブですよ」


 意味わからんわ。あなたがお金出したんでしょう。何がテイクなんだか。損しかしてないでしょうに。


「ううん。僕にとってのテイク。君にとってのギブ」


 おじさまの思考回路はさっぱりわからん。

 でも押し問答をしていると眞子が間で申し訳なさそうな顔をしたのでそれ以上食い下がるのはやめにした。

 とりあえず心の中にメモっておく。

「星崎さんにしてもらったことメモ」はすでにすごい長さになっている。家の近所のスーパーの冷凍食品半額デーでしこたま買い込んだときのレシートでさえ、こんなに長くはならない。

 後で必ず、何か返さなきゃ。

 そう思ったところでおじさまが眞子に言った一言で、ちょっとだけわかった気がした。


「楽しい食事の時間をありがとう」


 なるほど、楽しい時間がテイクってことですか。

 どんだけ心広いんだ、このおじさま。

 それに、随分と眞子のことを気に入ったらしい。

 眞子と過ごす時間、プライスレス! ってとこか。

 ふむふむとうなずいていると、おじさまは私の顔を見て苦笑した。

 なんてこった、失礼な。


「わかりやすいと思うんだけどね、なかなか伝わらないもんだね」


 おじさんの言葉になぜか眞子も苦笑する。


「自分のことになるとね、おそろしく鈍いもんですから」


 眞子の返事もまたわからん。

 何か二人で通じ合ってるぞ。

 まぁ、眞子が楽しそうだからいっか。

 おいしいものがぎっしり詰まった胃を携えて向かったのは、エステ。

 美容複合サロンなので、エステをしてからネイルとメイクとヘアを全部同じ建物の中でやってくれる。

 まずは眞子の全身をもみほぐして体の疲れを癒してもらって、それから全身の毛をむしってもらう手はずになっている。背中とか、普段出さない場所の産毛までむしるらしい。予約した時に一応説明を受けたけど、なにやら溶けたワックスみたいなものを背中に塗り付けてベリッと剥がすらしい。痛そうなので絶対自分はやりたくない。

 背中の産毛くらい生えててもそんなに目立たないと思うんだけどね。完璧を目指すならそこまで、というわけで。

 私はドレスからはみ出ちゃうところだけ一人で剃ってきたので、この時間は眞子を待っている間にすることもなく、完璧に手持無沙汰で暇だった。

 背中の毛を剃るのはパーティー前のお決まりの作業だけど、背中に手が届かないときほど「結婚したい」と思うことはない。でも背中の毛を剃ってくれる人が欲しいから結婚するというのも何だかなぁ。色気の欠片もないな。


「しばらく時間かかるみたいだし、お茶でもする?」


 向かいのビルの1階にあるカフェを見て星崎さんが言う。


「そうですね。あ、お茶代、私が出します。それでいいなら、ご一緒させてください」

「じゃあ、奢ってもらっちゃおうかな」


 おじさまは目じりに細かい皺を寄せて楽しそうに笑った。


 おじさまって言っても、四十前の星崎さんと三十三の私。実はそんなに年齢離れてないのね。おじさま呼ばわりしてごめんなさいね、と。

 それにこのおじさま、やたらと見た目が若いので最初は同い年くらいかと思ったくらいだ。


「良い物を食べてると老けないんですかねぇ」


 脳内の言葉がこぼれ出てしまったが、おじさまは笑って対応してくれる。

 この人本当に心が広いから、ついうっかり砕けた調子になってしまうのだ。

 気を付けないと。


「それは褒め言葉と受け取っていいのかな。でも残念、僕は良い物食べてないんだけどね」


 さっきのビストロはなんだ。あれで良い物じゃないとでもいうのか。


「ああいう店にはお付き合いで行くことはあっても、普段からあれを食べてるわけじゃないからね。僕、普段はコンビニのおにぎりとかサンドイッチばっかり食べてるよ」


 この人さっきから時々私の脳内の声に応えてくれるんですけど、何者なんでしょう。私がサトラレなのか。

 それにしてもコンビニって。

 この人激しく似合わないんだけど。


「星崎さんでもコンビニなんか行かれるんですか」

「もちろん。結構コンビニ歴長いから詳しいよ。どこのチキンがおいしいとか、おでんの具が一番豊富なのはどこかとか、いろいろ」

「意外です」

「そう言われると思った」


 おじさまは軽くため息をつく。

 お茶代を私が出すと言ったせいか、おじさまが頼んだのはメニューの中で一番安い「本日のコーヒー」だった。別にダークモカチップクリームシロップ豆乳ラテのLLサイズを頼んでくれてもよかったのに。


「僕の生活のイメージって、どんな感じなの」


 私の正面に座ってコーヒーを前におじさまが問いかけてくる。

 うーん。

 しばらく沈黙して頭の中にイメージを固めてから、つらつらと話し出した。


「コンシェルジェがいるような億ションの最上階のペントハウスに住んでて、そこから毎晩夜景を見下ろしながらシャンパンを飲んでる感じです。生活感のない大きなキッチンがあって、年代物のワインが並んだワインセラーもある。お風呂にはもちろんジャグジーがついてて、その風呂からも夜景が見えるような間取りになってるんです。料理は全くしないけど、週一くらいでお手伝いさんが来て、作り置きしてくれる料理が少し冷蔵庫に入ってる。シェフを家に呼んで料理を作ってもらうこともある。洗濯物はすべてクリーニング。それも、まとめてコンシェルジュに預けたらできあがったものを部屋まで運んでくれるシステムになってて。あ、あとロフトがあります。なんならメゾネットタイプのお部屋かも。あとは、寝室にキングサイズのベッドがどーんと置いてあって、やたらとすごい数のクッションが載ってるんです。家具の色は暗めで統一してあって、サイドテーブルの天板は絶対にガラスです。そこに夜景の光が映るんですよ。夜になると。最上階だと誰かからのぞかれることもないからカーテンなんかついてなくて。映り込んだ夜景の光がとんでもなくきれいで。それから寝室に面したウォークインクローゼットがあります。服と靴がぎっしり入ってるような。寝室にはもちろんシャンデリアがついてるんですけど、シャンデリアって言ってもあのキンキラキンキラしてるやつじゃなくてもっと重厚感のあるアイアンワークのやつで、それに寝室の隣には趣味の小部屋があってですね……」

「趣味っていうのは?」


 おじさまが楽しげに問う。


「なんでしょうね……」


 お金持ちの趣味の王道ってなんだろう。チェスとか?


「当たってます? 生活の感じ」

「いいえ、全く。四十も過ぎてそんな生活してたら恥ずかしいでしょう」

「え、何でですか」

「今の聞いてると、僕自分で何もできない人だよ。料理も、洗濯も」


 だって、ほかの人にやってもらえるなら、何もできなくてもいいじゃない。一生それなら困る日なんて来ないんだから。


「基本的に自分のことは自分でやってるよ。洗濯も掃除も。料理をする時間はあまりないから専らコンビニに頼ってるけど。そもそもペントハウスにも住んでないしね」

「えっそうなんですか。何かイメージが違います」

「今度来てみる? 普通の1DKのマンション。七階建ての三階。コンシェルジュなんていないよ。単身者向けの普通のマンション」

「えっ1DKですか?」

「うん。だって、一人暮らしだし、平日はほとんどずっと仕事だから家にいる時間あんまりないんだよ。それなのにそんな億ションに住んでどうするの」

「いやあ、何ていうか、その……」


 やば、顔が熱くなる。


「何、何でそこで照れるの」

「その、女性とかはやっぱりそういうの喜ぶんじゃないですか」


 おじさまは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。

 そして、身を乗り出してくる。


「僕、そんなにチャラついたおじさんに見えてるの?」

「え。いや、別に見境なくチャラついてると思ってるわけでは。ただ、女性にはかなりモテそうですし、エスコートも慣れてらっしゃる感じがして……それに、女性服のお店でVIP待遇を受けられるくらいですから、普段からよく女性にプレゼントとかされるんでしょう? パーティーでも、お連れの女性がいつも違ったので」

「はあ。そういうことか」


 おじさまはすっと身を引いて椅子の背もたれに体重を乗せ、上品にコーヒーに口をつけながら鋭い視線を寄越した。


「今日行ったお店は、どこも僕の母と兄嫁のお気に入りの店なんだ。母も兄嫁も派手好きなんでね。僕は学生の頃から荷物持ちに駆り出されてたし、今でもよく足に使われるから、店員さんとは顔なじみなんです。普段からあんなところで女性に服を買ったりしないよ。それから、パーティーに同伴している女性は、みんなアルバイト」

「えっアルバイト?」

「そう。パーティー同伴のアルバイトっていうのがあるんですよ」

「何のためにそんな……」


 何か思わずちょっとやらしいバイトを想像してしまったぞ。


「僕はパーティーには顔つなぎのために参加してるんだけど、一人で行ってたら特定の人がいないと思われたのか方々からしょっちゅう見合いの話を持ちかけられて参ったんだ。そんなわけで、女性には困ってないということをアピールしようと思ってね。でも、友人にパーティーの同伴なんてお願いして周囲に仲を誤解されたら後々厄介なことになるかもしれないでしょう。だから、アルバイトの人にお願いしてるんだよ。彼女たちの服は自前。きれいに着飾るのが好きな人たちだし、物怖じもしないからとても助かってる。彼女たちとしても、人脈づくりのチャンスだからね。ギブアンドテイク」

「はあ」

「興味なさそうな返事だね」

「いえ、そんなことはないんですけど。ちょっと驚いて」

「そう。でも信じてくれた?」

「そうですね。そんな壮大な嘘をつく意味が全然わからないので本当だとは思いますが……星崎さんのイメージがすっかり変わってしまって、どう対応したら良いのかわかりません」

「これまで通りでいいよ。別に」


 えーっと、つまり、このおじさまは思ったほどチャラくはないということで……

 あれ、この人いいんじゃない。結婚相手として。

 眞子とタカがうまくいくことを願ってるのはモチロンだけど、あのヘタレがどうしようもなかったら、眞子とこのおじさまのペアも悪くない。

 さっきからおじさま、眞子と話すときやたらと嬉しそうだし。

 あ、でも金持ちのぼんぼんってとこはタカと同じなんだよね。

 また眞子が結婚できないとかいう結末はやめてほしいしなぁ。

 よし、ここはいっちょ……


「あの、もし差し支えなければお答えいただきたいんですが」

「うん」

「星崎さんも、タカの……高垣のおうちのように、やっぱり結婚相手については厳しいチェックが入ったりするのでしょうか」

「え。それを聞いてどうするの」

「今後の参考にですね」


 もし眞子と星崎さんがペアになるとして、眞子が幸せになれる可能性があるのかと。


「いい歳だしね。大学卒業後から好きなことさせてもらってるから。今更とやかく言われたりはしないだろうね。兄夫婦に男の子が3人いて跡継ぎにも困ってないし。最初から、あまりできた息子じゃなかったから諦めているというのもある」


 ほっほう。これは、いいかもしれない。

 もしかすると、タカよりいいんじゃないの?

 眞子、この人結構眞子のこと気に入ってるよ。

 眞子はそういうのに疎いから気付いてないだろうけど、身近にいい人がいるよー、眞子ぉ。


「言っておくけど、僕、眞子さんに対して特別な感情は絶対に抱かないからね」

「えっ」

「やっぱりそう思ってたか」


 ――ちがうの?

 だって、やけに楽しそうなのだ。今日ずっと。こんなに楽しそうなところは見たことがなかった。仕事のときはクールな感じなのに。


「眞子さんはすごく素敵だけど、サトはね、生まれたときから知ってる大事な弟みたいな存在なの」


 タカの呼び方が「聡史くん」じゃなくなってる。

 サトって。


「その相手の女性を僕が好きになるわけないでしょう」

「そうだったんですか。残念」

「その反応が僕にとっては残念だよ」


 おじさまが何を言ってるかわかんないけど、とりあえずコーヒー、おいしいな。いつか専務の部屋で飲んだのとは大違いだ。

 ミルクの渦をみても、もうちっとも嫌な気持ちにはならなかった。




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