17 い
それから眞子はすっかり覚悟を決めたらしく、只野さんにもあれこれ質問をしながらドレス選びを楽しんでいた。
私はドレス選びを手伝おうったってどうせ何にもわからないので、眞子のことは店員さんに任せてソファーでのんびりくつろいでいた。
シャンパン、おいしい。
「眞子さんは控えめだけど、決しておどおどしているわけじゃないんだね」
試着室に入って行く眞子の背中を見送りながら、私の横に座るおじさまが言った。
そう、そうなんですよ、いいこと言いますね。
ただの卑屈な子だったら、タカは眞子を好きにはならなかっただろう。
控えめなのとおどおどしているのは違う。
眞子は楚々としてつつしみ深いが、無駄におびえた態度は見せない。
――私、強いよ。よほどのことがない限り動じないよ。強くないとやって来られなかったから。
昔彼女がそう言っていたことを思い出した。何かのときにぽろりと零れた言葉。
家庭の事情から嫌な思いをすることも少なくなかったのだろう。眞子は就活の圧迫面接にもすべて平常心で微笑むことができるほど強靭な心の持ち主だった。つまり、ストレス耐性が異様に強い。
その眞子が、すっかり体重を落とし、見たこともない苦しげな顔をして御嬢さんを平手打ちし、雨に打たれた捨て犬のような姿で泣いていたのだ。
その苦しみがいかほどのものか、私の浅い心ではきっと慮ることすらできない。
「くけ子で悩んでた私の幼少期なんて鼻くそみたいなものです」
ぼんやりと言ってから私は自分の口から飛び出した単語に驚いてあわてて、思わず立ち上がってしまった。
そんな私を見ながら、おじさまは楽しそうに笑う。
「すみません。こんな素敵な場所で不釣り合いな単語を発してしまって」
「いや、いいよ。どうせ僕しか聞いてない。言葉のチョイスが面白いね。何となく、伝わってくるよ。その言葉じゃないとうまく伝わらないニュアンスみたいなものってあるよね。上品には言い換えられないというか」
私は恥ずかしさで俯いた。耳まで赤くなっているのが自分でもわかる。
こういうところで、ふいに普段の自分が出てしまう。
せっかく今日は気合入れてきたのに。恥ずかしくてしょうがなかった。
うつむいていると、試着室から眞子が出てきて、只野さんと一緒にソファーの前まで歩いてくる。
「どう?」
眞子は私の目の前でくるりと回って見せた。
うわぁ、きれい。
シンプルなベアトップのデザインで、丈はひざが少し隠れるくらい。胸元はあまり開いていないし、露出度も眞子の性格にぴったりだ。
「きれいな色ですね」
私は只野さんに向かって言う。
青みがかった緑のような、少し淡い色。身頃からスカートにかけて徐々に薄く鮮やかなグラデーションを描いている。
「ええ。日本の着物の色で言うと、上が緑青でスカートの裾あたりが青磁色、という感じでしょうか」
只野さんが説明してくれたけど、私には着物の色なんてわからん。とりあえず、青とか緑とか、そういう名前では済まされない微妙な色合いってことね。
「きれいだねぇ」
おじさんは呑気な声を上げる。
「眞子はどう?」
私が言うと、眞子はにっこりと笑った。目じりが下がって、口角が上がる。それだけのことなのに、なぜだか私はその笑顔から目が離せなかった。
眞子の笑顔って、こんな顔だったんだなぁ。
十五年も友達をやっていると顔の造作を意識してじっくりと見る機会なんてあまりない。そのせいか、その笑顔はとても新鮮な感じがした。
「すごく素敵。気に入った」
「でもまだ時間もあるし、あれこれ着てみたら? せっかくだし」
おじさんがのほほんと言う。
この人、こんな感じだっけ。外資系証券マンばりっばりのシャープでスマートな人だったような。思わず首をかしげたくなるくらい、今日のおじさまはゆるーい雰囲気を身にまとっている。親戚の女の子に服買ってあげるおじさん、みたいな。
そうか、私が知っていたのがほんの一部ってだけか。
おじさまだって、私が秘書モードのときはまさか「鼻くそ」なんて言い出すような奴だとは思っていなかったに違いない。
眞子は少し迷った表情を見せてから、「お待たせすることになってしまいますけど……」と言う。
「ああ、いいのいいの。シャンパンがおいしいし、くけ子さんとここで楽しく語らってるから。くけ子さんはお仕事柄、こういうところで待つのが苦痛にはならないでしょう」
はい、とうなずくと、眞子は「じゃあ……」と言ってまた只野さんと一緒にいくつかドレスを物色し始めた。
「くけ子さんはどうなの?」
呼びかけられ、私はむっつりとした表情で返した。
「その呼び方、やめていただけますか」
別に苛立ってるわけじゃないが、大人になってまでそのあだ名に付き纏われるのはノットウエルカムだ。
「じゃ、久美子さん」
「そう呼ばれるの、初めてです」
嘘じゃない。くけ子、久美、嘉喜さん、嘉喜、というバリエーション以外で呼ばれたことがないのだ。嘉喜、という苗字が珍しいせいもあるのだろうか。
「じゃあ、ちょうどいいね。久美子さんにしよう」
なぜか楽しそうなおじさま。
何がちょうどいいのか一切わからない。
「久美子さんはどうなの?」
「どうなの? っていうのは、どういうことでしょうか」
「久美子さんの話を聞きたいなぁと思って」
「私の話ですか」
なんでそんなもん知りたいんだろう。知ってどうするってわけでもないだろうに。
「たとえば、結婚のご予定とか」
えっ突然そんな話?
「ありませんねぇ」
正直、考えたこともなかった。
「なんでそんなにびっくりしてるの。考えたこともなかったって顔してるけど」
図星だ。
「考えたこと、なかったんです」
「結婚願望がないってこと?」
うーん、この質問ってセクハラにはなんないのかなぁ。
まあ星崎さんだから全然気にならないし、いいんだけどさ。
そう考えるとセクハラって結構曖昧で勝手だよなぁ。言われる相手によっては許せないってことで、キモイ奴に言われたら許せないけどイケメンに同じこと言われても許せるとかあるだろうしなぁ。
「久美子さん、また思考が飛んでるでしょう」
ああ、ばれましたか。
「結婚願望はあります。こう見えて、結構夢みがちなんです。だけど恋愛経験は極端に少ないです」
「そうなんだ。今は? 特定の人はいないの?」
「特定の人どころか、不特定の人も何にもいないですよ」
不特定の人ってなんだ。
「眞子さんのことで頭がいっぱいって感じだもんねぇ」
おじさまはくすりと笑う。
ええ、ええ、その通りです。
最近じゃ四六時中眞子のこと考えてるんでね。
別に眞子とタカがラブラブハッピーだったときから私には何もなかったけどね。
もともと恋愛に向いてない脳みその構造なんじゃないかなって、大学時代の友達に言われたことがある。
「あ、そうだ。まだお礼を言っていませんでしたね。このVIPルーム、星崎さんがいらっしゃらなかったら予約もできない特別なお部屋なんでしょう? 本当にありがとうございます。贅沢な気分を味わわせていただいて」
「いえいいえ。僕も楽しませてもらってるから」
なんだ、このおじさま。
神様か。神様なのか。
思わずおじさまの頭の上に光の輪を探しそうになったところで、眞子が再登場したので、しばしおしゃべりはおあずけになった。
「わー眞子、それも似合う!」
今度は先ほどの色とは打って変わって、紫がかった赤のような、これまた深くてきれいな色のドレスだった。
シンプルなハイネックのマーメイドラインだが、後ろを向くと背中がガバッと開いていて、見ているこっちがドキドキしてしまうほどセクシーだった。
「このドレスなら、ヘアはゆるくアップにして大ぶりのピアスをつけて、その他のアクセサリーを最低限にするといいですね」
只野さんが横から口を添える。イメージがわかるようにその場でさっと髪をまとめ上げ、イメージの合うピアスまで耳に当ててくれた。
ほんとだ。すごい。
情けなく開いた口から感嘆の声が漏れ出した。
ちらりと隣を盗み見ると、おじさまもうれしそうに笑っている。
あら、おじさまのこの柔和な笑顔。もしかして、眞子の姿にぐらっと来ちゃってるんじゃない?
うっひょぉ。
「眞子、きれいですねぇ」
私は肘でおじさまを小突いてみた。
「何で僕は今つっつかれてるのかな」
「いいえ? なんでも」
ぷぷぷと笑いながら私は口をとがらせた。
結局眞子はそのあと5着を試着して、2着目のドレスに決めた。
他の店に行ってみてもいいよって言ったけど、眞子はそれがとても気に入ったらしく「これがいい!」と珍しく主張したのだ。
只野さんが合わせてくれたピアスと、背中が大きく出るドレスのデザインに支障のない特殊なブラも購入する。
星崎のおじさまはブラを買う手前くらいで「車を回してくる」と言って姿を消した。よかった。眞子はブラの話なんておじさまの前でしたくないだろうから。
眞子が最後に自分の服に着替えている間に、私は只野さんにお願いしてさっさとお会計を済ませておくことにした。
私が持っているドレスにちょうど0を一つ足したくらいのお値段。
でも不思議と、ちっとももったいなくない。
シャンパンに雑談、眞子の笑顔。
どれもが最高で、大満足。
札束の入った封筒からすっとお金を抜き出すのも実はちょっとワクワクして楽しかったりして。
「お待たせいたしました。ドレスは出口でお渡ししますね」
只野さんが会計処理を済ませて戻ってきたタイミングで、眞子が試着室から出て来た。
うん、いつもの眞子。
でも十五年の付き合いだからこそ分かるちょっとだけ得意げなその表情に、私の心はほっかほかになった。
「次は靴とバッグをゲットしに、デパートに向かいます! 靴は星崎さんおすすめのお店があるんだ!」
後部座席に乗り込みながらわくわくと眞子に話しかけた。こんなに買い物が楽しかったのなんて、高校の修学旅行のために友達とパンツを買いに行ったとき以来だ。
「おすすめ?」
「そう、ヒールがすごく高くても全然疲れないんだって」
おじさまが嬉しそうに眞子に話しかける。
二人の会話が弾み始めたところで、私は会話から離脱して窓の外を見やった。
なんだか今日は外の景色まで輝いて見えるなぁ。
最近すさんで尖りきっていた心が、まるーくまるーくなっていく。




