15 ちちん
――ああ、嘘でしょう。なにこれ。
鏡を覗き込みながら盛大なため息をついた。
顔の真ん中に、でっかいニキビ。
この歳になってこんなものができるとは。
ニキビって思春期の代名詞だと思っていたのに。
肌もぼろっぼろ。
だけど、そんなことを言ってもどうにもならないので、コンシーラーやらファンデーションをフルに使ってできるかぎり華やかなメイクを施した。
夜までにはきっと崩れてしまうけど、眞子の変身の間にでも時間を見つけて直せば大丈夫だろう。
私は鏡の中の自分ににっこりとほほ笑んだ。
短い髪。
鼻の頭に大きなニキビ。
目の下には消えないクマ。
口元のほくろ。
額にできた一本の長くてくっきりした皺。眠くて重くなる瞼を無理やりこじ開けようとして額に力を入れていたら、いつの間にか皺ができて取れなくなっていた。
それでも今日の私は、悪くない。
心の中でタカに悪態をつき、何もできずに眞子のことで胸を痛めていたあの頃よりは、ずっと、いい。
短髪には到底合わない淡いサーモンピンクのふんわりとしたドレスをガーメントバッグごと大判の紙袋に入れ、パンツスーツに身を包んだ。
今日は眞子の変身の日。
私は裏方だけど、恥ずかしい格好をして行ってお店の人に足元を見られたくないし、眞子に恥をかかせたくない。迷った結果、秘書モードで行くことにした。一応中のシャツだけはドレスシャツにしておく。
玄関前に立てかけた姿見で最後のチェックをして、にこりと微笑んでから家を飛び出した。
胸が躍る。
「おはようございます」
駅前に着くと、待ち合わせ時刻の十五分も前なのにすでにおじさまの車があった。
私はタクシーで回るからいいと言ったのだけど、「タクシーを使うのはもったいないよ。その分のお金をドレスに回したら」と言って星崎のおじさまが車を出してくれることになったのだ。いろいろな場所を回らないといけないし荷物も多くなるから、正直とても助かった。
「お待たせしてしまって申し訳ありません」
「かまわないよ。僕が早く着きすぎてしまったんだ。荷物はトランクに入れる?今開けるからちょっと待って」
そう言ってトランクを開けると、車を降りて荷物を載せるのを手伝ってくれる。
うーん、さすが。そつがない。
「今日は君のお友達が主役だから、助手席は彼女でいいのかな?」
私は大きくうなずいた。
これから眞子を迎えに行く。
実は、今日のことを眞子にどこまで話すかとても迷った。
パーティーに来ればタカと会うことになるし、社長とも顔を合わせなくてはならない。その上今日はいろんなことがいっぺんに起こる予定なのだ。計画どおりに運べば、眞子とタカの婚約が発表されることになる。というか、私がするんだけど。スポットを浴びるのが苦手な眞子は死ぬほど嫌がるかもしれないし……
と、いろいろと思い悩んだけど、私は結局何も話さなかった。
眞子の誕生日が明後日で平日だから休日の今日お祝いをしようとだけ言って、車を出してくれる人がいることを伝えてある。
「あ、ここです」
眞子に伝えてあった待ち合わせ場所。
すーっと、音も立てずに車が止まった。
高級車って止まり方までお上品ね。
眞子はすでに待ち合わせ場所に立っていたけど、こんな高級車が自分を迎えに来たとは思わなかったらしく、明後日な方向を向いたまま。
私は車から降りて眞子の背中に声をかけた。
「眞子!」
眞子が振り返る。
いつも通りの眞子の姿。
童話の中のお姫様みたいに、目のくらむような美人ってわけじゃない。
でも清潔感がある。
そして、微笑むと小動物みたいで思わず抱きしめたくなるのだ。
「誕生日に向けてちょっと肌整えといて」と言って渡してあったパックや化粧品をどうやらちゃんと使ったらしく、肌はいつもより艶やかに見えた。
星崎さんも運転席から降りてくれる。
「こちら、今日一緒に来てくださる星崎さん。こちらが、眞子です」
眞子は高級車に目を白黒させながら「よろしくお願いします」と言って深くお辞儀をした。
「こちらこそよろしく。どうぞ乗ってください」
おじさまが助手席のドアを開けて早くもエスコート開始。
いやはや、さすがです。
眞子は一瞬躊躇を見せたが、私がさっさと後部座席に乗り込んだので観念したらしく、ぺこりとおじさまに頭をさげて助手席に腰をおろした。
おじさまは満足げにうなずいてから静かにドアを閉め、運転席に回り込む。
「それでは行きますか」
シートベルトを優雅にひっぱりながらおじさまがつぶやいた。
向かうは都内の高級ブティック。
出発進行っ!
私は後部座席で一人うはうはと調査結果の脳内おさらいをする。高級なドレスの店なんて知っているはずもないので、先週から暇さえあれば雑誌やインターネットを駆使してドレスショップやブティックを調べていたのだ。そのせいで睡眠時間が大幅に削られて肌がひどいことになったわけだが、とにもかくにもその作業は楽しくてたまらなかった。
星崎のおじさまは当然高級なお店にはとても詳しく、
「そこはちょっと客を見てるっていうか、一見さんお断りっていう空気が漂ってるからよくない」とか、
「年齢層が少し若い」とか、
「そこは派手だからきっとお友達には合わない」とか、
「靴はここ一択。高いヒールでも足が疲れないらしいから。僕は履いたことないから知らないけど」と次々に具体的なアドバイスをくれて、店選びの段階からとてもお世話になってしまった。
食事の時にプライベートな携帯の連絡先を交換して以来、そんなこんなでほぼ毎日のようにメールや電話でのやりとりを続けてきたおかげで、今日の手順はばっちりお互いの頭の中に叩き込まれている。眞子の気に入るドレスが見つからなければドレス屋を梯子することになっているのだ。
パーティーでのエスコートだけのつもりがこんなにお世話になってしまって、現段階ではとてもじゃないがギブアンドテイクなんて言っていられない。
星崎さんは自分も楽しいからいいと言ったが、私はこれが終わったら何かきちんとお礼をしようと心に決めていた。
ちなみにお礼の内容はまだ考えてない。考えようと思っても脳みそが眞子のことに引きずられてしまって頭が働かないのだ。いまは眞子のことだけ。
「眞子さんとお呼びしていいかな」
「ええ。私は何とお呼びすれば?」
「星崎、でもいいし。下の名前でも。名前はシュウヘイ、といいます。秀でると書いてシュウ、に平和のヘイ」
あ、そんな名前だっけね。普段下の名前を意識することはないので忘れていた。
後部座席で軽くうなずいていると、バックミラーごしにそれを見ていたらしいおじさまが笑った。
「ひどいなぁ、嘉喜さん。初耳みたいな顔しちゃって」
「あ、すみません」
「じゃあ、星崎さんとお呼びしていいですか」
眞子はくすくすと笑いながら言った。そうだよね。眞子は初対面の年上の男性をファーストネームで呼べるようなタイプじゃないよね。
「ええ、もちろんいいですよ?」
少し拗ねたような顔のままおじさまが答える。
「星崎さんと久美はどういったお知り合いなんですか?」
「ああ、嘉喜さんは久美って呼ばれてるんだね。久美子、だから久美?」
「……そうです」
私はぶすっとして答えた。
「あれ、なんで不機嫌そうなの」
またバックミラー越しに表情を覗かれていたらしい。
「わたし、この名前嫌いなんです」
理由を知っている眞子があはははは、と声を上げて笑い出した。つられて私も笑ってしまう。眞子の笑い声は本当に楽しそうで、私は少しホッとする。
「なんで嫌いなの? いい名前じゃない」
「私の苗字と合わせてみてください」
「嘉喜久美子?」
「かきくみこ、ですよ? かきくけこ、に似すぎでしょう」
「ああ、たしかに」
「だから私のあだ名は小学生の頃からずーっと『くけ子』だったんです」
そう言った途端星崎さんは爆笑した。
「そのあだ名つけたやつセンスあるなぁ」
「ずっとですよ。コミュニティーが変わっても、ずーっと。誰でも思いつくんですよ。それなのに、何でうちの親は名前を付けるときに気付かなかったのか、と」
あまりにも定着しすぎたあだ名のせいで、私のことを本当に『くけ子』という名前だと思っている人もいた。「どんな漢字なの?」と聞かれて訂正するのも面倒になった私は「ひらがなです」と答えることにしていた。
そう言ったら、またおじさまは楽しそうに笑った。
そんなに笑ってもらえるなら、まぁいっか。
「ああ、それで、僕と『くけ子』さんがどういう知り合いか、っていう話だったね、眞子さんが聞いたのは。うーん……盟友、かな」
おじさまの言葉に私がびっくりしてしまう。
めいゆう?
なに、それ。一瞬漢字が思い浮かばなかった。
「盟友、ですか」
眞子も驚いたようだった。
すごく仲のよさそうなカテゴリの割に、私からおじさまの話を聞いたことがなかったからだろう。
「ごく最近同盟を結んだんです。だから、盟友。もともとはビジネス上のお付き合いだったんだけどね」
「そうなんですか。知らなかった」
眞子が助手席から私をそっと振り返る。私は曖昧に微笑んだ。
「同盟の内容はお聞きしてもいいんですか?」
眞子が問う。
だよね、そこ、やっぱりつっこむよね。
どうするんだ、おじさま。
「秘密、かな。すぐにわかるよ。僕が今日アッシーをしてるのもそのせいです」
アッシーって。
死語ですぜ、おじさま。
眞子は「なんだろう。じゃあ、楽しみにしてます」と言ってふふふと笑った。
うん、眞子にはやっぱり、笑顔でしょう。