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髪を切るとき  作者: 奏多悠香
本編
14/36

13 白雪

 しかし、骨をやるっていうのはとにかく厄介だ。

 トイレで用を足しながら、そう思った。

 いちいち動作が緩慢になるのでイライラが募るのだ。

 よっこらしょっと。

 壁にもたれかかるようにして手をついた私は、ふと耳を澄ました。

 隣の個室から不穏な声が聞こえたように思ったのだ。

 うん、わかってます。

 トイレで耳を澄ませるなんて、ありえないですよね。

 私も隣の個室の人が耳を澄ましてるなんて思ったら嫌ですよ。

 でも、その声はひどく苦しげで、普通じゃなかったんだもん。

 私はゆっくりと個室を出た。

 隣の個室は閉まったまま。

 どうせゆっくりしか移動できないので、別にわざとではなく時間をかけて入り口付近の手洗い場に行き、手を洗う。

 松葉づえに体重をかけつつ手を洗うって言うのもなかなか大変なんだ。

 手を洗い終わってハンカチでふいていると、個室から人が出て来る気配がして、私は振り返った。


「あ、嘉喜さん。お疲れ様です」


 青白い顔をして口元を押さえたその子は、秘書課の3年後輩の白雪里奈だった。社長の第二秘書を務めている彼女は、小柄で華奢で、切れ長の瞳が印象的な美人だ。


「ああ、ホワイ」


 ホワイっていっても、「なぜ?」っていう意味の、あのWHYではない。白雪という苗字から、スノウホワイトになり、ホワイトになり、ホワイになった。秘書課での彼女のあだ名だ。

 さっき隣の個室で苦しそうに吐いていたのはこの子だったのか。

 ハンカチを折りたたんでポケットにしまいながら、私はふと手を止めた。

 なぜか、嫌な感じがした。


「……ねぇホワイ。体調悪いの?」

「えっ。いいえ、大丈夫です」


 その口調から、明らかに何かを隠している。


「もしかして、もしかしたりする?」


 私はお腹に手をやってゆっくりと撫でる動作をする。年頃の女性が吐いているとつい想像してしまう、妊娠。だが、ホワイは独身だ。

 私のその動作に、ホワイは目を見開いた。


「あのっ」


 そう言ってから、また苦しげに顔をゆがめて口元を押さえ、それから手洗い場に向かって吐き始めた。

 私は松葉づえを壁に立てかけ、片足立ちをしてホワイの背中をさする。

 手から伝わる小刻みな振動に、これは絶対にただ事ではないと悟った。

 ホワイはあっけらかんとした性格なのだ。こんなに青白い顔をして涙を押し殺している弱弱しいホワイなんて、ホワイじゃない。


「誰にも言わないから、話してみない? 楽になると思う。今日の夜、空いてる?」


 背中に向かってそう問いかけると、こくりこくりという振動が、また手を伝って返ってきた。

 食べ物屋に入るとホワイの悪阻がひどくなりそうだったので、タカにテキトーに嘘をつき、私とホワイはタカの車で私の家に移動した。

 ここなら誰かに話を聞かれる心配もないし、私は足を伸ばしたままでいられるので、すこぶる楽だ。

 狭い部屋で、ベッドに並んで腰掛ける。


「……社長の、子供なんです」


 小一時間、話そうか話すまいかと悩み続けたホワイがついに口を開き、出てきた言葉に私は思わず叫びそうになった。


 あーーーーーーーーーーーーっ?

 あわてて口を押さえる。せまいアパートの一室でそんな叫び声を上げるわけにはいかない。


「ホワイ……それって……」


 ホワイの目からは堰を切ったように涙があふれ出した。


「不倫、してたんです」


 おい、社長。隠し子がいそうって思ったことあったけど、まじだったんかい。いい歳こいて息子より若い子に手出すなんて、何してんだ。しかも、秘書。息子も働く社内で不倫。何だかもう、モラルって何それおいしいのな感じになってるんだな、あの人は。


「社長には言ったの?妊娠したこと」

「言いました。中絶費用は出すけど認知はしないって」


 そう言って嗚咽を漏らすホワイ。

 ちょい待て。


「認知しないって、どういうこと」

「『私の子供かどうかなんてわからないだろう』と」


 泣き出したホワイの背中をさすりながら、熱した鉄を水に差しこんだときのような、シュワンという音が自分から漏れるのがわかった。

 ああ…あの社長はどこまで最低なんだろうか。


「それで、どうするつもりなの?」

「産む……つもりです」

「そっか」


 私は子供を産んだ経験がないのでわからないが、たぶん生半可な覚悟ではないはずだ。


「ご家族は? 知ってるの?」

「家族は……最近ちょっとゴタゴタしていて、まだ話せなくて……」

「差し支えなければでいいんだけど、ホワイってご家族と一緒に住んでるっけ?」

「はい。家族構成面白いんですよ」


 そう言ってホワイはちょっと笑う。痛々しく腫れた瞼が目を押しつぶしていて、見ているこちらもつい目を細めてしまう。


「私の曾祖母と、祖母と、母と、弟と、弟のお嫁さんと私の六人で暮らしてるんです。こうなったのは最近ですけど」


 そ、それは何かすごい構図だな。曾祖母ってひぃおばあちゃんでしょ。生きてるのがすごくないか。ホワイがいま30歳で…たぶんひぃおばあさん、百歳近いよね。


「妊娠のこと、話せそうな人はいる? お母さんとか。 産むんだったらさ、どうせご家族にはいずれ話さないといけないでしょう? 体調のこともあるし、早めに話した方がいいと思う」

「母は今骨折したばかりで……」


 おう、骨やっちゃった同盟が結べそうだね。


「……弟なら、たぶん話せます」

「うん、話した方がいいよ。ちゃんと。ホワイ最近痩せたなぁとは思ってたんだ。痩せてる場合じゃないでしょう? 体力もしっかりつけないといけないんだし」

「はい」

「会社では、私ができるかぎりフォローするから。っていってもこんな足だからちょっと、できること限られてきちゃうんだけど」

「いいえ。ありがとうございます。軽蔑されたらって思ったら誰にも話せなくて。でも体調はどんどん悪くなっていくし、社長には『早く堕ろせ』って言われるし、本当にどうしたらいいかわからなくて……」


 社長、本当に最低なんですけど。

 そんな人いるんですか。


「軽蔑なんかしないよ。ホワイ。自分を責めなくていいからね。あの…確かに、不倫はよくないとは思うけど、あなたは大蛇の毒牙にかかったウサギみたいなもんなの。ちゃんと警戒せずにヘビに寄って行ったウサギを迂闊だと思うことはあっても誰も軽蔑なんかできないよ。それより、社長の秘書続けるの辛くない? 大丈夫なの? そんなの毎日言われたら、体にもよくないんじゃない?」


 ホワイはふるふると首を振った。


「もともと私は第二秘書ですし、デスクワーク中心で。外回りの同伴とかは基本的に第一秘書の早乙女さんがやってくださるので、四六時中顔を合わせてるわけじゃないんです。だから、大丈夫です。仕事もまともにできないなんて思われたくないですし」

「そっか」


 こういうときっていつも思うけど、言葉なんて所詮、無力なものだ。

 自分では想像できない苦しみの中にいる人にかける言葉なんて、見つからない。

 だから私は代わりに、ひたすら背中をさすった。

 摩擦で背中が温かくなるくらいに。

 そうしてホワイの服が私のせいですっかり皺くちゃになったころ、ホワイはぽつんと言った。


「別れようって、言われたんです」

「え?」

「子供を堕ろさないなら別れるって」


 うっっひょ。もう、だめだこりゃ。社長、最低だわ。

 プレイおやじなんて、生ぬるいわ。

 そんな可愛いもんじゃない。

 あの人、人の皮をかぶった悪魔だわ。

 タカ、ごめん。あんたのお父さんだけど、ちょっと、無理だ。

 どうしても、あの人だけは、本当に、本当に、本っ当に大っ嫌いだ。

 それは、私のなかにくすぶっていた小さな炎がキャンプファイヤー並みに燃え上がった瞬間だった。




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