10 結婚に向けて
――結婚、します。
私がそう言うと、社長は嬉しそうににっっっこりと笑った。恒例のきわめて胡散臭い笑顔。
なんでだろう。笑顔なのに。私の感情の問題なのかなぁ。
そしてそのにっっっこり顔のまま社長の口が柔らかに動く。
「嘉喜さんならそう言ってくれるんじゃないかと思ったんだよ。絶対に苦労はさせない。私が約束しよう。実はここだけの話、聡史はもうすぐ高垣コーポレーションの社長になるんだ。早ければ来年度に」
ほう、シャチョー。それは、それは。
社長の撫でるような声に心が一気に零下まで冷え込んだ。
それと同時に、私は察した。
なぜ私だったのか。
御嬢さんとの縁談がダメになった今、他のお見合い相手を探すという手もあったはずなのだ。なのになぜ、私か。
この人は、タカの社長就任が迫って焦っているのだ。
タカの就任がそう遠くない未来だということも、そしてその就任前には身を固めておいてほしいという社長の思惑も、タカから直接聞いたわけではないものの、何となくわかってはいた。つまり、今から新しいお相手を探して縁談を持ち込み、見合いやら顔合わせやらをしている時間はないのだ。
でも私は庶民。三十路を超え、そろそろ焦っている頃だろうと。そこへきて次期社長との結婚を打診されたら、断るはずもなかろうと。家族同士の顔合わせなんて庶民相手ならどうとでもなろうと。
つまり私が相手なら、タカの社長就任に間に合わせることができると、そう思われたってわけだ。
今にももみ手をはじめそうな社長をじっと見つめて、私は言葉を続けた。
「ただ、ひとつだけお願いがあります」
なけなしの女優魂を遺憾なく発揮して、少し翳りのある表情を作ってみた。
「……何だい?」
社長の目が一瞬だけ眇められた。
なんだなんだ、金くれって言われるとでも思ったか。お生憎様、そんなお願いではないんだなぁ。
「……このことを、専務……いえ、聡史さんには……内緒にしておいていただきたいんです」
さ・と・し・さ・ん…プフッ
「何だって?」
社長は驚きを隠さない。少し眉間に皺をよせ、目を見開いた。メイクもしてないのにすごい目ヂカラだ。
まぁ、そうですよね。タカの結婚なのに、タカに秘密って色々おかしいよね。
「もちろん、ずっとってことじゃないんです。ただ……」
そう言って私は口元に手をやる。つい笑って口元が震えてしまうのを隠すためだ。たぶん傍から見れば悩ましげな仕草に見えているだろう。
「これまで聡史さんとはずっといいお友達だったので。その……急に結婚ってことになると色々と関係が変わってしまうんじゃないかと不安で。心の準備をきちんとしたいんです。それに、せっかく結婚するのなら、きちんとと……その、好きだと思いたいんです。秘書ですから一緒にいる時間は長いですが、これからきちんと心の準備をして、きちんと聡史さんと向き合ってみたいのです。聡史さんにお話をするのは、その後では……いけませんか?」
精一杯の上目づかいで社長を見つめる。いつだったか、若かりしき頃に彼氏にやってみたら「え、俺、睨まれてる?」と言われた、別の意味で破壊力抜群の上目使い。可愛くないことは百も承知だけど、社長はさっき私のこと「綺麗」とか何とか言ってた気がするし、もしかしたら目が腐ってるのかもしれないから。
社長はナント、いたく感動したらしかった。
やっぱり目は腐ってるらしい。
「そうか! そんなに前向きに考えてくれるとは。たしかに、きちんと気持ちもある結婚ができれば、それに越したことはない。わかった。息子に話すのは少し待とう。心の準備ができたら、教えてほしい」
私は目に涙を浮かべてうなずいた。
「……っありがとうございます!」
ちょっと言葉がはねたのも、目に涙が浮かんだのも、笑いをこらえすぎて息が苦しかったからだ。
「一か月……くらいでいいかな? それくらいを目途に、息子に話すことにしよう」
私は神妙にうなずいて見せた。
一か月か。ちょっと短いけど、まぁしゃあないな。そこで何とかケリをつけるしかない。
そう思いながら目の前の社長を見つめ、思った。
このプレイボーイ、いや、もうボーイって齢じゃないな。このプレイおやじは、きっと本気で人を好きになったことがないんだ。気持ちなんてどうにでもなると思ってる。だから私の荒唐無稽な言い訳を信じたんだ。
私がタカと結婚なんてするわけないでしょうが。眞子もタカも私の大切な友達なのに、その2人をいっぺんに失うような真似、するわけない。
――聡史はじきに高垣コーポレーションの社長になるんだ。
そんな言葉で私が心を躍らせると思っているところが、最初から間違ってる。高垣コーポレーションの社長夫人の座になんて興味ない。それは眞子だって同じ。でも、この人の思考回路は違っている。タカに寄ってくる人は皆そこに惹かれると思っている。
何て小さな考えの持ち主なんだろう。
タカはあなたの息子でしょう、とそう言ってやりたくなる。
自分の息子にそれだけの価値があるんだって、どうして思わないんだろう。私も眞子も、タカがあなたの息子だから好きなわけじゃない。タカがタカだから好きなのに。タカがタカだから、友達になったのに。
そんなことにも気づけない、こんな人は敵ではない。
急に目の前の社長が小さく見えて私は安堵した。
今までずっと、敵は最強だと思ってた。でも、違う。絶対に切り崩す方法がある。
打倒、恋を知らないプレイおやじ。
目標が定まった私はゴキゲンで社長室を後にした。
……にしても、プレイおやじって何か音がキモイな。