9 社長のお願い
女性としてはかなり高めの百七十二センチという身長にヒール。このデカさで仁王立ちをすると我ながらすごい存在感だ。
「急に元気になったな。まぁ、その方が久美らしくていいよ」
両手を腰にあててスーパーヒーロー並みの存在感を見せつける私をタカは呆れつつも楽しそうに見つめる。
大学時代と変わらないその笑顔を見て、私はうれしくなった。
そうか。私がずっと見たかったのはこれだったんだ。タカの笑顔と、眞子の笑顔。私がしかめっ面をしていたから、タカも眞子も笑わなかった。
人の顔は鏡みたいなものだといったのは誰だったか。笑う人には皆が笑いかけ、しかめっ面の人にはしかめっ面を返すものだ。
嬉しい気持ちでいると、ノックもなく突然専務の部屋のドアが開けられた。
姿を現したのは社長だった。
「社長」
「ああ、嘉喜さん。おはよう。いやぁ、すごい声が聞こえたから。どうしたのかと思って」
私は慌てて頭を下げた。タカと話している内にもう始業時刻は過ぎている。
業務時間内に専務の部屋で仁王立ちをする秘書なんて怪しさしかない。
急いで足を閉じ、腰に当てていた手を下す。
「申し訳ありません。大きな声を上げたのは私です。まさか外にまで聞こえていたとは……以後気を付けます」
さっきまで腰にいた手が所在無げにうろうろと、動き回る。あれ、普通手ってどうなってるっけ。体の横? それとも前? 普段自分が手をどこに置いているかわからなくなってアワアワする。
そんな私に社長はにっっっこりと笑いかけた。
にっこりではない、にっっっこり。
「いやいや、いいんだよ。それよりちょっと話があるんだけど、いいかな」
「あ、はい。私は外した方がよろしいですか?」
「いや、嘉喜さんに話があるんだ」
……へ? 私?
「じゃあ、そういうことだから、ちょっと嘉喜さん借りてくよ」
社長は専務に軽く声を掛けると、私の腕を掴んで連れ出した。
えっちょっ社長…
私を追いかけるように、専務が「おい、親父!」と叫ぶのが聞こえた。
私の脳内とタカの声が完全にシンクロした瞬間だった。わたしの場合は「親父」でなく「オヤジ」だけど。
私はそのまますたすたと歩く社長について廊下を進み、一番奥にある部屋、社長室へと招き入れられた。
「どうぞ、そこに座って」
促されるままソファーに腰を下ろす。タカの部屋でさっき座ってたソファーよりも高級なものらしく、体が沈み込んでついふんぞり返ったような格好になってしまう。
「あのぅ、お話とは?」
慎重に体の角度を元に戻しながら言う。ふんぞり返ったまま座っているわけにはいかないが、憎きこの邪魔オヤジの前で恐縮した態度を取るというのも癪だった。
話とはいったい何なのか。
褒められるようなことをした覚えはないし……さっきの仁王立ちを見咎めてお叱りを受けるのだろうか。まぁ、それは仕方ないけど。
「嘉喜さん、今恋人とかはいるのかな?」
――コイビト?
考えていたことと全く違うことを問いかけられて脳内で変換ができず、頭がフリーズする。
「嘉喜さんは綺麗だしスタイルもよくて素敵な女性だから、やっぱり決まった恋人がいるのかなぁと思って」
あんたの目いったい全体どういう構造してんの、とはさすがに言えない。
還暦を超えているのに未だ衰えない輝きを放つ社長は、若いころから超有名なプレイボーイだった。女優と噂になって週刊誌に取り上げられたこともあるくらいだ。女性を褒めそやして持ち上げるなんて朝飯前なんだろう。
――ああ、嫌な予感。この後にいい話が続くわけはない。
「恋人はいませんが」
私がそう言うと、社長は目を輝かせた。
「本当? じゃあ、息子と結婚しないか」
一瞬何を言われたのか理解できなかった。
じゃあ、って何だ。じゃあ、って。
色んなこと飛ばし過ぎだろう。
恋人いません、じゃあ結婚しませんかって、何だそれ。
っていうか息子って、専務のことか。
つまりタカのことか。
この社長なら隠し子が居ても驚かないけど。
「ええと……突然すぎて何のことだか……。あの、専務は篠原さんとご結婚されるんですよね?」
ここは正直に言っても許されるはず。
私は動揺を隠さずに問うた。
「あれ。息子から聞かなかった? 先方から断られたんだよ。理由はよくわからないが、もう息子と結婚する気は一切ないそうだよ」
「ええと……専務からは何も聞いておりません」
「そう。で? ダメかな?」
むわっとするほどの色気を放たれて、私は思わずソファーの上で後ずさる。オーデコロンだかパフュームだかオードトワレ何だか知らないが――というかこの3つの違いすら知らないが――何か男臭い香りがふんわりと私の鼻先を掠め飛んでいく。
「えっとあの……どうして私なんでしょうか?」
普通に考えて、おかしなチョイスだろう。良家の子女とのお見合いはどこへ消えた。なぜ私。
「君は長く息子の秘書をしていただろう。それに、学生時代からの友人でもある。だから息子のことをよくわかっているだろうと思ってね。安心して任せられると。ほら、私ももう長くないかもしれないし」
病気をしたせいであまり無理ができないとはいえ、別にすぐに死ぬような病気じゃなかったはずだ。なのに、儚げな表情でそう言われるとドキリとしてしまう。やはり手慣れたおっさんは違う。
「でも、私よりも若いお嬢さんもたくさんいらっしゃいます。篠原さんとのお話がなくなってしまったことは残念ですが、他に良縁があるのでは。専務がこれまでにお付き合いされていた方とか」
暗に眞子のことをほのめかしてみた。
一瞬で、社長の目の形が変わった。色ではない。形だ。柔和なへの字だったのが、逆三角形に変わる。あまりの変わりように、軽い恐怖すら覚えるほどだった。
「嘉喜さんはしっかりしたお家で育ったいいお嬢さんだからね。年齢だって息子と同い年なんだから、何も気にすることはないだろう」
続く社長の言葉は、私の意図を読み取ったうえでそれを退けるものだった。
私の家はごくごくありふれたサラリーマン家庭だ。とりたてていい家に育ったわけじゃない。
「しっかりとしたお家で育った」というのは、私を選んだ理由ではなく、眞子ではダメな理由、だ。私が眞子の友人だということを当然に知っていて、私に向かってこんな言葉を吐く。
いったいどんな神経をしているんだ。
往年のプレイボーイで、どこか憎めなくてみんなに愛されるダンディなオジサマ。そんな感じを演出してるこの人が、実は腹のドス黒いタヌキだということを私はよく知っている。なんたって、眞子とタカの結婚に反対し続けた人だ。
秘書としてタカとこの人の会話を聞く機会も多かった私は、この人がタカに言い放った「好きな女がいるのは別にいいが、それなら愛人にしろ! 私だってそうしてきたんだ!」という言葉を、今でも忘れてはいない。
正妻の息子であるタカにそんなことを言い放つなんてどういう神経してるんだと、唖然とした。タカからしてみれば、お前の母親なんか愛していないと言われたようなものだ。
そのときのタカの表情は忘れられない。
「じゃあ俺は何なんだよ」とつぶやき、下唇を噛んだ。
愛の証じゃない子供。
それは眞子とタカの共通点だった。
きっと、だからタカは眞子を手放せず、眞子もタカを手放せなかった。
眞子のお母さんは生まれてきた眞子にめいっぱいの愛情を注いだし、タカだってもちろん愛されずに育ったわけではないだろう。ただ「愛の結晶」という使い古された言葉があてはまるかと言われたら、そうではない。
良くも悪くも普通の家庭に生まれ育った私は、大恋愛の末とは言わないまでも愛し合った夫婦の間に生まれた。
そんな私にはわからない二人の思いがそこにはきっとある。
あまりの怒りに、指先がしびれてきた。
でも、違う。
いまはこれを爆発させる時ではない。
――主役は私。
そう心の中で唱えながら、ゆっくりと深呼吸をした。
その瞬間に、心の奥でパズルのピースがかちりとはまった音がした。
社長以外のものが視界から消え去って、聞こえるのは自分の血液の流れるドクドクという音だけ。
社長を見据え、静かに答えた。
「ええ、わかりました。結婚、します」




