「出逢い-9」
空が真っ暗になったころ、ようやく歩が帰って来た。彼は勝手に部屋に入った勇介を咎めるような目で見て問う。
「なんで?」
勇介は合鍵を見せて、父の部屋から持ってきたのだと説明し、勝手に入ったことを詫びた。歩の背中にはおんぶ紐で括り付けられた渚が気持ち良さそうに眠っている。見るからにか細いこの体で、一日中渚を背負って歩き回っていたのだろうか。たいした根性だと思った。
歩は玄関に突っ立ったままで鼻をひくひくと動かした。
「夕飯、シチューにしたんだ。美味いぞ。早くこっちに来て座れよ」
どちらが部屋の主だかわからないような言い方で、コタツに食事を用意する。歩は渚を布団に寝かしつけてくると、(不審なまなざしのままではあるが)何も言わずに食卓についた。用意されたホワイトシチューに、ごく自然に手を着けたのを見て、勇介は内心ホッとする。
スプーンを口に運ぶ歩をじっと見守る。
「美味い!」
一口食べて、彼の表情が変わった。目をキラキラさせて幸せそうに食事を平らげる歩を見ていると、なんだかこっちまでふわっとした気分になってくる。勇介は、またまた歩マジックにかかってしまったようだった。
二人で食事を終えたころ、渚が起きた。隣の部屋から盛大な泣き声が聞こえると、歩ははじかれたように席を立つ。なかなか戻ってこないので隣の部屋をのぞくと、オムツを替えている姿が目に入った。
(なんか、大変なんだな……)
歩の日常を目の当たりにして、勇介は眉をひそめた。
寝起きの渚をあやしながら歩が戻ってきたので、勇介はようやく本題に入った。
「歩くん、部屋、借りられそうもないんじゃない?」
それを聞いた歩は、あからさまに不機嫌になった。
「まだ、そんなに何軒も聞いたわけじゃないし。きっと明日こそは、何とか……」
「それでもダメだったら?」
歩は「なんとかする!」を繰り返し、やがてムッとした顔で黙り込んだ。
渚を膝に乗せた歩の横顔をじっと見る。目元に疲労の蓄積を示す隈が出来ている。杏子が亡くなってから明日でちょうど十日になる。おそらく歩は気力だけで動いているのだろう。
「あーちゃん、にゅーにゅー」
渚が歩の膝から転がり出ると、彼のシャツをぐいぐいと引っ張った。歩は慌てて立ち上がると、足元に散らかったおもちゃを拾いながら渚について行った。一歳半の幼児は片時も目が離せない。渚は台所で小さな紙パックの牛乳をもらうと、両手を広げて抱っこを要求した。歩は渚を抱き上げながら、ため息混じりに言った。
「渚、ちょっとおかしいってゆうか……。後遺症なんだって」
「え?」
いきなり話題がそれた。歩は腕の中の渚を見つめて言う。
「夜泣きがひどくて……前はこんなことなかったんだけど。昼間は昼間で、俺から片時も離れない。いつも抱っこかおんぶしてやらないと狂ったみたいに泣くんだ。だから、保育所へも預けられなくて……」
事件や事故で怖い思いをした被害者が、精神不安定になることを、PTSD(心的外傷的ストレス障害)という。渚の場合もそうなのだろう。心の病は個人差があるが、いずれにしても愛情を持ったきめ細かなケアが必要なはずだ。渚の場合は交通事故だから、乗り物や周囲の喧騒がトラウマになっている可能性がある。そんな渚を抱えて一日中街なかを住まい探しに奔走するなど、愚の骨頂だ。当然渚は怖がって彼から離れないのだから、体がいくつあっても足りないだろうと思うが、勇介はあえてそのことは言わずにおいた。自分は渚の主治医ではないし、しかるべき診察をしたわけでもない。また、言ったとしても、症状が改善するのにはそれなりの時間が必要なのだ。
それよりも、早急に解決しなければならないことがある。マンションのカギを渡すのは今しかないと思った。
「相談してくれれば良かったのに」
勇介の言葉に、歩は俯いたまま首を左右に振った。頑なな歩の態度に少々イラつく。友人と思っているのはこちらの一方的な思い込みだったのかと、寂しい気持ちがした。それにしても、連絡ぐらいくれればよいものを、歩はいったい、何が気に入らないのだろう。
「この前も言ったろ? 歩くんとボクは縁があるんだって。こういう時こそ頼ってくれていいんだよ」
そう言った自分の声は、きっと怒っているように聞こえてしまったかもしれない。
歩はちらりと目を上げ、また首を横に振った。
「ダメだよ。北詰さんと俺は、今回の件で友達になったけど、俺たちの生活の事とは別問題だよ」
「どうして?」
勇介は出きる限り静かに尋ねた。
歩は言いにくそうにうつむいたまま、小声で答える。
「だって……お母さんが、あなたのお母さんがきっと嫌な思いをするよ。俺たちの事、二度と見たくな いって言ってたし。もし北詰さんがお父さんと同じように、俺たちの面倒をみてるって知ったら、どう思うかな」
勇介の中で、何か激しい感情がつきあげてきた。言葉が出ず、彼は目の前の少年を無言で見詰める。自分より十以上年下の少年が、人の母の事まで気にしていたとは。
まいった……
世の中に、こんなに素直で思いやりのある人間が存在していたなんて。穢れを知らない無垢な心を持った少年。まさに天然記念物モノだ。悪く言えば人が良すぎる。
(よくも今まで無事に……)
そう考えて、脳裏に父の顔が浮かんできた。
(だから、鳴沢姉弟を放っておけなかったということか)
弟の歩がこんな調子なのだから、若い女性である姉の杏子がいかに危うく見えたかは想像に難くない。誰かがついていてやらなければ、騙されたり犯罪に巻き込まれたりするのは必至だろう。そんな危うい雰囲気を、彼からもひしひしと感じる。
勇介は俯く歩の茶髪頭にそっと触れた。歩はビクッとして見つめ返してきた。勇介は出来るだけ優しい表情を作ると、マンションの件を持ちかけた。
「保証人になってくれるんじゃなくて? 部屋を貸してくれるの?」
歩は目を丸くしたが、予想通りに断る素振りを見せた。歩としては母のことが大いに気になっている様子だった。無理もない。あれだけ悪口雑言の数々を浴びせられて、二度と関わるなと釘を刺すような事まで言われたのだから。けれど、歩が母の事を気にするほどに、勇介の中で母への反発心がむくむくと膨らんできた。
(母が嫌がるなら、なおさら丁度いい)
「母にはそのうちボクがキチンと話すよ。それに、今はボクらの事よりキミたちの事が先だ。場所もココから一駅先だから、渚の通う保育園にもまあまあ近いし。どう? 悪い話じゃないでしょ?」
かなり強引に歩を説き伏せて、彼の手のひらにマンションのカギを握らせる事に成功した。
その後も彼は、家賃はいくらにするとか、汚した場合はどうするとか、ごちゃごちゃと入居に当たっての条件を並べ立てていたが、勇介の耳にはそんなことはまったく入ってこなかった。
とにかく大満足だった。
こんなに人に気を使うのも初めてだったから、目を潤ませて「……ありがと」と、感謝の言葉を口にした歩が、鍵を手にニッコリ笑ったときには、何だかホッとしてこっちまで目頭が熱くなってしまったのだった。
……自分は、いったいどうしてしまったのだろう?
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