「出逢い-8」
寂しいときって、ぬくもりが欲しいのです。
というわけで、勇介が勝手に暴走を始める!
昼食タイムが終わり、渚が寝付くのを見届けた後、勇介は歩のアパートを出てあるところへ向かった。彼らのアパートからそう遠くない場所にある分譲マンション。その最上階に勇介の部屋がある。北詰の家を早く出たいと思っていた彼は、医師免許を取ってすぐに三十年ローンを組んでその物件を買ったのだ。
しかし、買った途端にとても忙しくなってしまった。皮肉なものだ。しかも勤め先が突然S大病院になってしまい、勇介のマンションライフはお預けになってしまった。
就職の件は、父親のせいだった。誰にも頼りたくないと思っていた彼は、マンションから程近い循環器系の病院へ入ることを希望していた。しかし、父がSK製薬営業部長のコネを使って、勇介の就職先を勝手に決めてしまったのだ。結果的には、決めていた病院よりずっと格上の病院だし、心臓外科の第一人者・香川教授の手ほどきが受けられたのだから、今は満足しており、当然、父親にも感謝している。
S大病院での勤務は多忙だった。貪欲に研究や勉強にのめり込んでいたせいでもあったが、自宅に帰れない日々が続き、勇介はとうとうS大病院に隣接する職員宿舎に入るように言われてしまった。
だから、実際にこのマンションで生活した事はほとんど無かった。何だかもったいない話だ。仕事が忙しく、生活は低料金で食堂つきの職員宿舎だから、金を使うことがほとんど無い。S大病院に勤務してから数年で、勇介はあっという間にマンションのローンを完済してしまったのだった。遊ぶヒマも無いほどに仕事漬けの毎日なんて、自慢にもならないと思う。
エレベータに乗り込むと最上階を押した。最上階には彼の部屋しかない。
ドアにキーを差し込んで回す。重い鉄扉を開けると、ムッとする空気が溢れ出す。一年近く締め切りだったせいで、空気が淀んでいるように感じた。
間取りは3LDK+ロフト。当時付き合っている女性が居たというわけではないのだが、人並みに家庭は持ちたいなどと、漠然と考えていたから、迷わずファミリータイプを選択した。だが、今になってみると一人で住むにはいささかもてあます物件だった。
入ってすぐが広いリビングダイニング。しかし誰も住んでいないので生活感は皆無だ。存在する家具といえば、大きな薄型テレビが一台と二人掛けのソファ一客にガラスのローテーブル、以上。キッチンの家電も、大型家電量販店の店員の言うがままに揃えはしたが、まったく使っておらず、どれも新品同様だった。
北側の洋間にセミダブルのベッドが入っており、隣の和室は何も無くがらんとしている。書斎代わりの狭い洋間にデスクとパソコン、そしてわずかな私物が物置場のように放り込まれていた。
職場には持ち家がある事は告げていないし、今はS大病院の職員宿舎に入っているので、そのうちこの部屋は誰かに貸そうと思っていたのだ。
「ココに彼らを住まわせればいい」
自分の考えに、勇介は有頂天になった。だが、すぐに冷静になって考える。ココを使えと勧めたとして、果たして歩は素直に了解するだろうか。病院で、顔を真っ赤にしながら大荷物と渚を抱えて奮闘していた歩を思い起こした。勇介があんなに近くに居るのに、絶対に助けて欲しいと言い出さなかった頑固な歩。
(やはりちょっと、様子を見てみよう)
もしここで彼らが暮らす事を承諾してくれたら……そう思うと、何だかとてもわくわくした。時々のぞきに来て一緒に食事をしたり、時には泊まったりして、家族のように過ごせるかもしれない。
――家族。
今でこそバラバラな北詰家も、幼少の頃は幸せを絵に描いたような家庭だった。
休日はよく父と二人で動物園に行った。三人で行かなかったのは、母が動物嫌いだったからだ。「三人で行きたい」と駄々をこねると、その度に父はおもちゃをたくさん買ってくれた。わがままを聞いてもらえるのが嬉しくて、よく父を困らせたっけ。母は口うるさかったが、笑顔は素敵だった。一人っ子の勇介は、両親の愛情を一身に受けて育ったのだ。何だかとても懐かしい。
それに比べて渚は……。
わずか一歳半にして両親を失うなど、悲劇だ。一歳半では、まったく母のことなど覚えていないだろう。
彼らには、家族が必要なのだ。その家族に自分がなれたなら、どんなに楽しいだろうか。
夢見る少年のようにあれこれと想像しながら、勇介は夕闇に染まるマンションを後にした。
翌日、父の葬儀は盛大に行われた。弔問客もさることながら、警備員の多さに勇介も親戚一同も度肝を抜かれた。というのも、本日発売のゴシップ専門誌に、父のことがでかでかと取り上げられてしまったからだった。
《大手製薬会社幹部の愛欲にまみれた人生》
なんていかがわしいタイトルなのかと、その記事を見たときに眩暈がした。
よくぞ短期間でここまで調べたと、その仕事ぶりには評価をすれども、中身は半分以上がでたらめだった。
勇介は憤りを覚えたが、それ以上に怒り狂った母親をなだめることに精一杯で、抗議することは思いつかなかった。それに、心のどこかで、誰もこんな記事は信じるはずが無いだろうとたかをくくっていた。父は仕事ぶりはいたってマジメだと病院関係者の間では評判だったし、その息子である勇介も一目置かれていたからだ。
しかし、この手のスキャンダルは世間が一番喜ぶパターンである事を、彼は知らなかった。
葬儀自体は滞りなく進行していった。白木の箱に横たわる父は、白装束ではなく、何故か玉虫色のベルサーチのスーツを着せられていた。まるでパーティーにでも行くような死に装束は母の趣味だ。意味が良くわからない。
白い花に囲まれて横たわる父に、魂は無い。でも彼の遺志は出来る限り自分が……。そんな思いを込めて、勇介は歩に頼まれた写真をそっと父のスーツの内ポケットに入れた。
長いお悔やみの行列もようやく途絶え、葬儀は無事終了した。杏子と渚の写真も、父の亡骸と一緒に、荼毘に付された。勇介はひとつ肩の荷が下りてホッとした。火葬の前にあの写真が誰かの目に触れてしまうのではないかと気が気でなかったのだ。
人のうわさも七十五日。葬儀が終わればそのうち皆、日々の忙しさに紛れて、父のことなど忘れ去ってしまうに違いないと、この時安易にそう考えていた。
ところが、翌日のスポーツ新聞に新たな内容で、またもや父のことが載っていたのだ。弔問客に紛れたマスコミ関係者が、葬儀の間にしこたまネタを仕入れたらしかった。
ゴシップ誌ではなく、スポーツ新聞や女性週刊誌で扱われた事により、SK製薬が恐れていた事態が発生した。その日を境に、SK製薬の株価が急落したのだ。
SK製薬が父を社葬扱いにしたことが、かえってアダとなった。不倫旅行中に事故死した幹部に対して社葬を行うなど、常識が無さ過ぎるといった意味合いのコメントが多数寄せられ、SK製薬側は対応に追われたようだった。
北詰の家にもマスコミが押しかけてきて、母は半狂乱になっていた。こんな時に限って、世間は平和でたいした事件もおこらない。
(誰でもいいから、有名人でも三人ほど死んでくれないかな……)
勇介は医者のクセに不謹慎にもそんなことばかり考えている始末だった。
ますます家に居づらくなった彼は、再び歩のアパートを訪ねた。歩は留守だったので、父の部屋にあった合鍵を使ってドアを開けた。彼が何をしに行っているのか見当がついていたから、勝手に上がりこんで歩の帰りを待つことにした。
退去の期限は明日のはずなのに、アパートは先日来たときと全く変わっていなかった。
床のあちこちに渚のオモチャが散らばっていたが、基本的には綺麗に片付いている。歩はかなり几帳面な性格だと見た。本人が留守なのを幸いに、勝手に家の中を見て回る。ふた間のアパートは、両方畳敷きで歩は奥の部屋で寝起きしているようだった。普通一人暮らしなら布団は敷きっぱなしが当たり前だろうが、キチンと畳んで壁の隅に押し付けられている。
ふと見上げると、カーテンレールには真新しい制服が下がっていた。
(どこの学校だろう?)
紺のブレザーに紺のパンツはごくありふれていて見当もつかない。エンジ色のネクタイを手にとってようやく判った。
SEIRIN HIGH SCHOOL
細いシルバーのストライプは、線ではなく学校名がプリントされているのだった。
「ほう……」
成林高校は公立の高校では県内でもトップクラスの進学校だ。勇介は歩に対する認識を改めた。ますます彼に興味が湧いてくる。
居間に戻り、部屋の隅にあるカラーボックスに目を留めた。三段のボックスには一番上に教科書や参考書がズラリと並んでいた。勉強机が見当たらないから、歩はコタツで勉強していたのだろう。二段目は辞書の類で埋め尽くされている。
(趣味のものは一切無いが……?)
今どきの事だから、CDやゲームぐらいあっても良さそうだが、そういった物は皆無だ。ボックスの三段目に勇介の視線が集中した。
料理の本が大量に収納されている。中に何冊か育児関連の本も混ざっていた。
(料理が趣味とか……?)
そう考えて苦笑する。きっとコレは杏子のものだろう。じゃあ彼はいったい何が好きなんだろう? そもそも今どきの中高生が好むものがわからない。
「ジェネレーションギャップ、感じるなぁ」
勇介は少々ヘコみながら、料理本を一冊手に取った。パラパラとめくりながら歩の事を考える。
彼は今頃不動産屋を何軒も回っているに違いない。そしておそらく収穫がないままに疲れ果てて帰ってくるだろう。
当たり前の事だが、未成年に保証人も無しで部屋が借りられるわけがないのだ。いくらかの金を払って保証人になってくれる機関があるらしいが、歩がそんな事を知っているとも思えない。勇介はズボンのポケットに手を入れた。マンションのキーが指先に触れる。本当はもっと早く渡してやればよかったかな、と少々後悔した。だが、彼のことだから、たとえ素直にキーを受け取ったとしても、ギリギリまで自分の力で部屋探しを続行するに違いないと思った。
ならばいっそ最終日まで様子を見ようと思ったのだ。
料理本を見ながらふと思いついた。
「メシでも作っといてやるか」
ジャケットを脱いでシャツの袖を捲り上げると、勇介は台所に立った。