「出逢い-7」
団欒に水を差す訪問者が・・・
来客を告げるチャイムが鳴り、歩が席を立った。ぼそぼそとしゃべる、男性の声がする。
切れ切れに聞こえる話から察するに、来客は杏子の上司でSK製薬の人間のようだった。
襖の陰からそっとのぞく。背広姿の中年男性と事務服姿の女性職員が、玄関先に立っている。男性が歩に向かって型どおりのお悔やみを言うのを聞きながら、勇介は窓際に置かれた繻子の箱を振り返る。
「しらじらしいな……」
思わず漏れた自分の言葉が、宙に浮いて漂った。
玄関を気にしていると、渚が手をぐいと引っ張った。ハッとして目の前の渚に視線を戻したとき、聞こえてきた会話に驚いた。
「これで、杏子さんの退職扱いの手続きは終了です。……それでは最後に、このアパートの退去についてですが」
無機質な男性の声が言った。
「え? 退去?」
歩の声も驚きのあまりうわずっている。再び男性の声が聞こえてきた。
「はい、ご存知かと思いますが、このアパートはSK製薬の社宅として借り上げている物件なので、杏子さんが退職扱いになりました事で、一週間以内に明け渡していただく規則になっています」
勇介は耳を疑った。いくら社内規定だからって、退去はないだろう。杏子の場合は通常の退職とは訳が違う。父が業務上の事故として処理されているならば、杏子だって同じではないのか? 労災扱いとか、細かい流れはどうなっているのか、確認してやらなければいけないかもしれない。
このまま放っておけば、またしてもずるい大人のやり方で、歩は訳がわからないままに路頭に迷うことになってしまう。
勇介が立ち上がったときにはすでに遅かった。玄関ドアが開閉する音が聞こえ、家の中が静かになった。襖を大きく開け放つと、歩が玄関の床に座り込んでいた。小刻みに震える華奢な肩先を見て、遠慮しつつも声を掛けてみる。
「歩くん、大丈夫?」
歩は肩を落としたままギクシャクした動作で動き出した。
「姉ちゃんの私物、持って来てくれたってさ」
歩は背を向けたまま足元のダンボールをがさごそとあさっている。勇介は次になんと声を掛けてよいのかわからなかった。
保護者代わりである姉の杏子と、後見人だった父、両方をいっぺんに亡くしただけでなく、住まいまでも奪われてしまうなんて。こんな事があっていいのだろうか。
その上、一歳半の渚を抱えて、彼はいったいどうするつもりなのだろう?
玄関でしゃがみこんでダンボールをあさっている歩の頼りなげな背中を見つめていると、ふいに彼が振り向いた。
目が合い、ドキリとする。
きっと今の自分は、酷く同情を滲ませた目で彼を見ていたのだろうなと、慌てて目を伏せた。
軽い足音をさせて、歩が居間に戻ってきた。
「あのさ、お願いがあるんですけど」
歩の手には一枚の写真が握られている。
「あーちゃん!」
渚が立ち上がると歩の足にまとわりついた。
足元の渚を抱き上げながら、歩は勇介に写真を手渡して言った。
「コレ……北詰さんと一緒に火葬してくれないかな。ダメなら、別にいいんだけど……」
勇介は写真に目を落とした。それは、生まれて間もない渚を抱いて微笑む杏子の写真で、優しげな目元と、華奢な首筋が歩とそっくりだった。
「本当は俺……あなたとお母さんにお礼が言いたくて、病院で待ってたんだ」
勇介は歩の顔を穴が開くほどに見つめていた。歩は目線を腕の中の渚に向けて言った。
「姉は幸せだったと思います。好きな人と家族になって、好きな人の子供を産んで。俺だって、北詰さん……お父さんに、感謝してます。一時でも、親父が戻ってきたみたいな、幸せな気持ちになれたし……」
歩はうつむいて、目線を勇介の手の中の写真に移す。
「不倫……っていうんですよね。姉ちゃんがした事は、本当はいけない事だったんでしょう? あなたやあなたのお母さんから北詰さんを奪った……。恨まれても仕方ないと思います」
「恨むなんて……そんな……」
今までそんな事はこれっぽっちも考えた事はなかったので、勇介は即座に否定したが、歩はかぶりを振りながら目にうっすらと涙を浮かべた。
「だから、俺……昨日病院であなたとおばさんに、あ、ありがとうって言って……もし、恨んでいるなら、一言謝りたくて……」
こんな状況になっても、まだ人の事を気にかけている歩は、どこまで純粋で真っ直ぐなんだろう。それがかえって痛々しい。
勇介は、恐る恐る右手を伸ばした。その先に、頼りなげな肩がある。泣くのを必死にこらえている歩の薄い肩先。
どうすればいいのだろう?
姉を返せ! と泣き叫んでくれたほうが、まだ扱いに困らなかったろうに。静かに、心の中だけではらはらと涙をこぼす歩は、力を入れたら、壊れてしまいそうなガラス細工のようで……
勇介は、伸ばした指先をぎゅっと握って手を引っ込めた。そして、慎重に言葉を選ぶ。
「正直言って、母はどう思っているのかボクにはわからない。だけど、少なくともボクはキミたちを恨んでなんかいないよ。むしろ、お礼を言いたいぐらいだ。杏子さんと出逢ってからの父は、生き生きしていた。短い間だったけど、父も間違いなく幸せだったと思うし……」
その言葉は、実際にそうだったらよかったな、という勇介の希望だった。なんせ、彼は丸一年近く父親と顔を合わせていなかったのだから。けれども歩は勇介の言葉に、いちいちうんうんと何度も頷きながら言った。
「昨日は……ごめんなさい。あなたを疑って、ひどい事を言った……」
病院の桜の木の下、大声で怒鳴った事だと合点がいった。
「いいよ、そんな事は」
気にするな、というように勇介はかぶりを振り、ほんの少しためらった挙句、歩の肩に両手を乗せた。歩はビクッと肩を震わせたが拒まなかったので、勇介は心の中でホッとしつつ、そのまま渚ごと二人を抱きしめた。
腕の中で、とうとう歩が声を殺して泣き出した気配を感じる。
(二人を、何とかしなくては……)
この時から彼の中で、一つの決心が固まって形を取り始めた。