「出逢い-5」
前回のラストシーン
――歩に異変が起こったのは、病院の駐車場で、車に乗り込もうとする直前だった――
「いやだ! 乗らない!」
歩は突然叫んだかと思うと、渚を抱きかかえたまま一歩、二歩と後ずさりを始めた。いったい何が起こったのかわからない。ポカンとして彼の顔を見詰めていると、茶色い瞳がせわしなくさまよい、暑くもないのに額に汗が浮き始めた。
(なんか……ヤバイ?)
歩の様子が普通では無いことに気付き、勇介は動きを止めた。歩は怯えた小動物のように、渚を胸に抱えたまま近くの桜の木の陰に走り込んだ。
「歩くん……?」
彼を刺激しないように、桜の木に向かって小さな声で呼びかける。息を詰め、にじりよる勇介の耳に、
「……渚は、渡さないよ」
木の陰から、鼻をすする音と共にハッキリした歩の声が届いた。まったく意味がわからない。勇介がそう言うと、歩は悲鳴のような声で叫んだ。
「渚の気に入りそうなオモチャを持って来たり、見舞いに来たりして、そうやって渚を手なずけて。俺がまだ大人じゃないから、渚の事、ちゃんとみれないと思って、渚をどっかに連れて行くつもりだろ!」
彼の言葉にハッとした。
渚と歩、彼ら二人は別物だと考えていた勇介は、改めて歩の立場に立って考えてみる。渚は父の子供であり勇介の弟だ。渚を認知するならば、養育費の名目で金を出して、どこか待遇の良い施設に入れることになるだろう。だが、歩は違う。渚と同じ施設に入れる事は出来ない。彼が成人するまであと数年ある。渚と歩、二人分の費用まで自分一人ではとても負担できないだろう。当然、歩は公の福祉施設に入ることになる。だが、二人は家族なのだ。血縁云々ではなく、家族として渚が生まれたときから寝食を共にしている。それを引き離す事になる。
(じゃあ、どうすれば……?)
勇介はそっと桜の木を回り込んだ。
歩は大きな瞳に涙をいっぱい溜めて、口を真一文字に引き結んでいる。胸に小さな渚を抱えた歩を見て、勇介はようやく全てを理解した。
(本気で……育てるつもりなんだ!)
胸に突然、熱い思いがせり上げてきた。未成年の男子が、姉の子供を当然のように育てるつもりでいることに、驚きと感動を隠せない。
(凄い……)
心からそう思った。自分の考えは間違っていたのかもしれない。身寄りの無い子供は、皆一様に施設に入れるのが大人の義務だと思っていたことが恥ずかしい。子供は勝手に育つと言うけれど、それは間違いで「子供は育てるもの」なのだ。
父の、鳴沢姉弟への対応を振り返ると、最期の言葉の意味がようやく見えてきたように感じた。金の問題ではなく、責任からでもない、まるで家族のように鳴沢姉弟に接していた父。そして、本当の家族になってしまった父。その彼が望むことといえば、自分のしたように、家族として愛情を持って接してやって欲しいということなのかもしれない。
――家族。
思えばもう長い事、そんな感覚は忘れていた。北詰の家はバラバラだった。そのせいか、勇介の中では今さら「家族」なんて言葉は死語だ。
父の事を思い出してしまったせいだろうか。何だか切ない思いが胸を塞ぐ。勇介は警戒心を露わにしている歩をじっと見た。
(オレの気持ちを、素直に理解してくれるのだろうか……)
「少し、話をしようか」
静かに言うと、歩の瞳に落ち着きが戻ってきた。
二、三本先の桜の近くにあるベンチに並んで腰掛けてから、勇介はゆっくり口を開いた。
「渚くんをキミから奪うつもりは全然無いよ。キミは何か勘違いしてないかい?」
いや、勘違いではなかった。最初はそのつもりだったから。歩はチラチラとこちらの表情を伺いながら言った。
「じゃあ、どうして俺たちに構うの? あなたのお母さんが言ってたみたいに、俺たちを恨んでるから? 姉のした事を、俺に償わせようとして付きまとっているの?」
予想外な言葉だった。そんなに嫌なヤツに見えるのだろうか? 歩の言葉に、かなり傷ついた。
――付きまとっている
確かにそう見えなくもないが……。
最初はただ、歩と話がしたかっただけだった。単純な理由だ。歩に自分の姿を重ねていたのかもしれない。でも、今は違う。
死んだ父の代わりとはいかないまでも、一番いい形で援助したいと、そう考え始めていた所に、いきなりのカウンターパンチだった。
(オレの考え方は間違っているのだろうか?)
チラリと歩を見ると、彼は真っ直ぐなまなざしでこちらを見ている。彼の目を見た瞬間、勇介は悟った。
(この子にウソや誤魔化しは通じない)
「他人の死はずいぶんと目にしたんだけど、肉親の死を経験したのは初めてなんだ」
この言葉をきっかけに、勇介は学生の頃から今まで溜め込んでいた胸のうちを、歩の前で一気に吐き出していた。
勇介は、今まであまり他人に自分の胸のうちをさらした事がなかった。裕福な家に生まれ、母が度を越すくらいに教育熱心だったせいで勉強は人の何倍もできた。大人になってからも仕事はソツ無くこなしてきた。ただ一つ、自分に欠落しているもの、それは腹を割って話せる人間が皆無だという事。冷めた家庭に問題があったのかもしれない。父の顔を見るたびに、ヒステリックに怒鳴る母が嫌いだった。どちらが先に浮気をしたかなんて、そんな事はもうどうでもよいレベルだった。感情のままに怒り、喚く姿を醜いと感じた。気持ちのままに、言葉の毒を撒き散らし、息子にまでストレスをぶつけて、挙句の果てに若い男性と……。思春期だったあの頃、耐え難い苦痛だった。あんなふうにはなりたくないと思っていたからだろう。いつしか自分の胸のうちを絶対に人に見せないようにして大人になった。
恵まれた容姿のおかげで女性からはクールでミステリアスなどと好意的な評価をもらっていたが、実際職場の男性陣からは、常に無表情、無愛想と囁かれているのを自覚している。
そんな勇介が、歩の目を見ただけでポロッと自分の胸のうちを漏らしてしまったのは、彼の不思議な雰囲気に呑まれたからかもしれない。悲しみも、孤独も何もかもを一人で背負い、それでも精一杯の虚勢を張る、そんな少年の支えになりたいと、心から思う。
渚に対して海のように深い愛情を注ぐ、真っ直ぐで心優しい彼の姿に、ひとりの人間として惹きつけられ、素直な気持ちになれたのだろう。
「正直、どうしていいかわからない。家族三人、今まで好き勝手にやってきたからね。……家族、なんて、今さら言えないかもしれないけれど」
両親の不仲について、自分がいつも感じていたこと。母の父に対する態度。さらには、死んだ父への思いまでも、おおかた話尽くした頃に、歩がポツリと言った。
「似たもの同士……ですか。俺たち、同じ経験をしたでしょ。俺は姉を、あなたはお父さんを。お互い大切な家族を失った。同じ日に、同じ状況で。だから、似たもの同士……同志かな?」
自分の言いたかった事を、これほど正確に解ってくれた少年を、驚きと賞賛の入り混じった眼差しで勇介は見詰めていた。
(ああ……オレは誰かと、ただこうして話したかったんだ)
歩の顔にもう一度目を向ける。両親を失い、最愛の姉まで失った少年。だからこそ、そんな彼だからこそ分かち合える事があるのだろうか。
面倒をみてやるなんて、傲慢だと思った。今なら素直にわかる。自分にはこの子が必要なのかもしれない。
「縁がある……と思わないか? ボクらは、縁があるんだよ」
「縁……ですか?」
歩が怪訝そうな表情でこちらを見返す。やや唐突だったかと思い直し、勇介は言葉を継ぐ。
「そう。こんな形で始まったけど、ボクはこの縁を大切にしたい。亡くなった二人の思い出を語り合うとか、そんな事だけじゃなくて」
よくわからないといったふうに、歩は眉根を寄せる。
「キミらとボクとの縁。そう、もっと、先へ続くような……。わかるだろう?」
気がつけば、勇介は畳み掛けるように歩に向かって懇願していた。彼らとのつながりを切ってしまいたくなかった。
歩の腕の中に居た渚が、下ろしてくれと言うように身じろぎする。歩は自分と勇介の間に渚を座らせ、足元のバッグから四角い紙パックのジュースを取り出した。ストローを挿し、渚の口元に持っていく。渚は嬉しそうに笑うと、ストローの先をぱくりと咥えた。歩は愛しげに渚の頭を撫でると、静かな声で言った。
「そうですね……。渚、こんなに小さいけど、あなたの弟ですよね。俺から渚を取り上げるつもりは無い。さっき、あなたはそう言った。けど、俺もあなたから渚を奪う権利は無いんです」
勇介の口から思わず安堵の息が漏れた。
どうやら歩は全てお見通しのようだった。完敗だ。何故って、勇介は今、一世一代の告白に対する承諾をもらえたような心境になっていたからだ。こんなにドキドキした事は無かったし、こんなに誰かとのつながりを欲したのも初めてだった。
歩は渚の口の端から垂れるジュースを、ハンカチで拭った。彼の一連の動作の端々に、渚に対する愛情が感じられる。二人を見ていると、不思議と心が穏やかになってゆくようだった。
「時々、渚の顔、見に来てください」
歩の言葉が嬉しかった。
「ありがとう」
父が引き合わせてくれたのだと、勇介は素直に感謝した。




