「鼓動-11」
翌日の夕方、タバコを吸いに屋上へ行こうとする勇介を、木村看護師長が呼び止めた。
「北詰先生、ご一緒しても?」
「え、はい。かまいませんが?」
木村もタバコを吸うのだろうかと、ふと思う。どう見ても似合わない気がする。
内心が顔に出てしまったのかもしれない。木村は、
「私はちょっと外の風に当たりたくて」と微笑んだ。
彼女と並んで屋上まであがった。勇介は屋上の金網にもたれて、暮れてゆく春の空を見上げながらタバコに火を点ける。傍らの木村が、空に向かって大きく伸びをしてから言った。
「奇跡ってあるんですね。この仕事やってると人間の生命力に驚かされることがいっぱいです」
勇介も彼女の言葉にしみじみ頷いていた。
赤ん坊は奇跡的に持ち直し、とりあえず危機は脱した。治療が功を奏したのか、母親の強い愛情が勝ったのか定かではないが、医師ではなく北詰勇介個人としては、後者であってくれたほうがいいなと思う。
勇介は、たった今、集中治療室をあとにしてきたときの光景を思い浮かべた。
容態が安定したとき、前回は倒れた母親が、今回は静かに、とても静かに、それでも毅然とした姿でわが子を見守っていた。その背中は凛として、とても印象的だったので、勇介の中に強く残った。
『家族』『親子』そんなフレーズが理解できずに振り回されていたけれども、それを感じることができる機会なんて、周りにいくらでも転がっているのだとようやくわかった。
「北詰先生、今日はもうあがってください」
木村の言葉にそちらを向くと、彼女は意味ありげな表情でこちらを見上げていたが、しまいには堪えきれなくなったようにプッと吹き出した。
「木村さん、何です? いきなり」
笑われるような事をした覚えもなくて、ムッとする勇介に、彼女は言った。
「家族サービスの途中で呼び出してしまったから、申し訳なかったなと」
「え?」
木村は懸命に笑いを堪える顔で言った。
「由香から……娘から聞いたの。ちびっこランドで先生がお子さんとミニSLに乗ってたって」
勇介の顔から一気に血の気が引いた。
あの恥ずかしい光景を病院関係者に見られていたなんて。
木村は、いまだに含み笑いをしながら、
「先生ったらお若いから、お子さんいらっしゃるなんてゼンゼン思いもしなかったわ」
と、勇介の背中をバシバシ叩く。
「あのっ、この事、誰かに話しちゃいました?」
恐る恐る尋ねると、木村は首を横に振った。とりあえずホッとしたが、考えてみれば良い機会かもしれないとも思った。これからずっと、彼らと生きてゆくのだから、隠す必要も恥ずかしがる事もないのかもしれない、と。
勇介は木村に「三人家族です」とだけ話した。すると彼女は意外なことを言った。
「やっぱりね。あの母子に対してあんな風に思いやりを見せられるのは、子育てしたことのある人じゃないとね。私、先生のこと誤解してました。先生のご家族は本当に幸せね」
木村は勇介を残して屋上から居なくなった。
彼女の言葉をぼんやりと脳内で反芻する。
(思いやり……? オレが?)
彼女は間違っている。
これは歩のおかげなのだ。ほかに治療の当ても無く、切羽詰った状態だったから、半信半疑で歩の言ったことを実行したにすぎない。
鳥の横切る気配に、ふと視線を上空に向けた。赤い夕焼け空にオレンジの雲がたなびいて何ともいえず美しい。並んで飛び去る二羽の小鳥を見つけて、無性に歩と渚に会いたくなった。
救命の廊下を歩いていくと、前から宮下がきた。彼は勇介を認めると、ニキビづらに満面の笑みを浮かべた。
「北詰先生、愛ちゃんのバイタル安定してますよ。ほんとうに、よかったですね」
「ああそうだな」
そう言葉を返し、ふと思いついた。会釈をしてすれ違おうとする宮下の顔の前に、勇介はさっと右手のひらを突き出す。
「うぎゃ!」
宮下が妙な悲鳴を発して飛び退る。なかなかの反射神経だ。
「な、な、なんすか。いきなり!」
目の前に突き出された勇介の手のひらを凝視しながら宮下が焦った顔で言う。勇介は得意げに言い放った。
「宮下、ハイタッチだ」
「は?」
宮下の目が点になる。
「おまえ、ハイタッチもしらんのか? 若いくせに」
ふんぞりかえって右手をひらひらさせるが、宮下はその場に固まったままだ。
「仕方の無いやつだ」
勇介は左手で宮下の左手首をつかむと、むりやり自分の右手にパシッとあわせた。
「おつかれ!」
そう言って満足げに微笑むと、勇介は宮下の脇をすり抜けて医局に向かう。
ようやく我にかえった宮下が、すっとんきょうな声を上げる。
「え、なに? ハイタッチって、え? 北詰センセイがハイタッチ?」
勇介は、なんだかとてもすがすがしい気分だった。
遠ざかる勇介の背中に、宮下の呟きが聞こえてきた。
「てゆうか、いまのあれ、なんか違うだろ。てっきり八卦六十四掌でもやられるかと……」
(八×八=六十四って、なんだろう? 変なやつだな)
宮下のアホみたいなつぶやきは途中で聞こえなくなった。




