「鼓動-8」
勇介、ようやく帰宅。
夜八時をまわり、特に容態の心配な患者も無さそうなので、帰り支度を始める。三日ぶりの帰宅に、心がウキウキした。しかも明日はこの病院に来て以来、初めての休日だ。土曜日だから、歩も学校は休みだし、買い物のついでにどこかで遊ぶのもいいだろう。一応待機医になっているから遠出をしたり酒を飲んだりするわけにはいかないが、近場で活動するくらいは問題ない。
早く帰りたくて病院前からタクシーに乗り込んだ。
(そうだ、洗濯物とサンドイッチのお礼に、歩にケーキでも買っていってやろう)
勇介は運転手に近くのケーキ屋に寄るように頼んだ。
「駅前の店でいいですか?」
「はい、すぐに戻るので待っててください」
運転手は駅のロータリーにあるケーキ屋の前に車を横付けした。
(なんだ、こういう店か……)
そのケーキ屋は全国展開の洋菓子チェーン店だった。初めて入るケーキ屋にちょっとドキドキする。年齢と共に甘いものが苦手になってしまったので、近頃ではケーキとは無縁だった。それに、小さい頃からケーキはいつも母親が高級洋菓子店にオーダーしていたから、ずらりとショーケースに並んでいるケーキを自分ひとりで選んで買うのも初めてのことだった。
「けっこう種類があるんだな。どれにしよう」
悩んでいると、自動ドアの開く音と共に女性の豪快な笑い声が聞こえた。
「あ……」
振り向くと黒崎女医と小児科の女医の二人連れが入ってきた。彼女たちは勇介を見つけて驚いたようだった。
「あら、北詰先生。なんか……場違いな所でお会いしちゃったわね」
黒崎はズケズケと言って、真っ赤なルージュの唇をほころばせた。自分でも似合わないと思っていたので、彼女の言葉は別段気にもならなかったが、女性二人組の次の行動には焦った。
「へー、北詰先生がケーキを買ってあげる相手って誰なのかな~」
そう言って二人は勇介の両隣に張り付いたのだ。仕方が無い。
「よかったらボクが買いますからお好きなのを注文してください」
二人の女性は嬉々としてケーキを選んだ。
(まあ、いっか……)
何を買おうか迷っていたから、彼女たちと同じようなものを選んだ。
「じゃあ、ボクは帰りますので」
店を出て、待たせてあったタクシーに乗ろうとすると、また黒崎に呼び止められた。
「先生、タクシーなんてリッチじゃないですか。乗せてってよ」
「え……」
さっきまで気付かなかったが、香水にまじってきついアルコールのニオイがする。
(冗談じゃない!)
酔っ払いの送迎なんてまっぴらだ。勇介は困ったような顔で脇に佇んでいる連れの女性のほうに黒崎の体を押しやった。
「すみません。これから恋人の部屋に行くので、女連れではマズイんですよね」
得意の営業スマイルを二人の女性に向けた途端、黒崎の目が大きく見開かれた。
(そうそう、ハッキリ言ってやらないとね)
タクシーに乗り込みながら追い払うように言ってやった。
「明日は非番なので、もし救命をお手伝いいただけたらありがたいです。失礼します」
クルリと背を向けると何かが当たった。
足元に落ちたソレはケーキの箱だった。
「あんたって、最低ね! なんでそんな事、言うかな! まるで私がアンタの事どうにかしようとしてるみたいじゃない!」
勇介は冷ややかな目で彼女を見た。
――気に入ったわ。セフレじゃもったいないから、本気であなたを狙おうかな。
(この間の発言、忘れてないからな)
今までにも色々な女性を見てきたが、この手のタイプが一番苦手だった。自信過剰で可愛げが無い。
「ちょっとイツコ、やめなよ」
絡む黒崎を苦笑いしながらもう一人の女医が引きずって行く。
「これから女の所にしけこむのか~!」
遥か彼方で黒崎が喚くのが聞こえ、勇介はため息をついた。タクシーの運転手が、バックミラー越しに目を合わせてニヤリと笑う。勇介は咳払いをすると無表情を作り、「出してくれ」と言った。
「威勢のいい彼女だね」運転手がミラー越しに背後を指差す。
後部の窓を振り返ると、黒崎がなにやらタクシーに向かって怒鳴っているのが見えた。勇介はむっとして運転手に言った。
「いいえ、彼女なんかじゃないです。ただの酔っ払いだ」
ツボにはまってしまったように、いつまでも肩を震わせている運転手をミラー越しに睨みつけ、心の中で悪態をつく。
(品のない女だ。誰が何と言おうと、あの女とは二度と口を利かないぞ。院長の姪だからって、構うもんか!)
不愉快な思いで帰宅した彼を、歩と渚が元気良く出迎えてくれた。
「勇さん、お帰りなさーい」
「さーい」
「今日はいつもより早かったね!」
微笑んだ歩を見た途端に、勇介は機嫌が治ってしまった。今まで黒崎の態度にムカムカしていたのが急にアホらしくなる。
彼らは風呂上りのようだった。石鹸の香りにホッとする。
「ただいま。これお土産ね」
ケーキを差し出すと、歩はキョトンとした顔になった。彼は受け取りながら言った。
「誰か、誕生日?」
「え?」
逆にこちらの方が首をかしげてしまうと、歩はケーキの箱を見ながら言った。
「ケーキは誕生日に食うもんだからって、姉ちゃんはケチして買ってくれなかったんだよな」
勇介は複雑な気分で歩の様子を眺めていた。
どうやら彼は贅沢に関して罪悪感のようなものがあるのかもしれないと気付く。究極の貧乏とか、そこまで酷くはないのだろうが、OLの杏子の稼ぎだけで暮らしていた事を考えると頷ける気がした。
(なんか……新たなギャップを発見してしまった感じだな……)
自分と彼は価値観まで違うのかと思うと、なんだか先が思いやられた。
「あーちゃん!」
渚がケーキの箱に手を伸ばす。勇介は足元の渚を片手で抱き上げた。渚はこちらには目もくれず、ひたすら歩の手の中の白い箱を凝視している。
「誕生日じゃないけど、サンドイッチのお礼ということで、食べてよね」
「ホントに、いいのかな? ……ありがとう」
歩は恐縮して、ぎこちない笑顔を見せた。
(見たかったのは、こんな笑顔じゃない……)
勇介は小さくため息をついた。
歩の用意してくれた夕食を食べながら、明日は休みなので、買い物ついでに遊びに出かけないかと誘ってみた。
「え、明日?」
歩は目を大きく見開いた。何のリアクションなのか、解読できずに悩む……。
「待機に当たってるから、そんなに遠出は出来ないけどさ」
「……外食とか、するの?」
「え?」
歩の質問にますます彼の意図が読めなくて焦る。
「うん、あーちゃんも、たまには楽して外で食べたいでしょう?」
そう言って、歩の目を覗き込むと、彼は曖昧に笑って「おかわりはいかが?」と、まだ半分も食べていない御飯茶碗をひったくってキッチンに駆け込んだ。おかわりを取りに行っただけなのに、歩は食器棚の引き出しをがさごそと漁っている。勇介はそっと彼の背後に回ってみた。
(ああ……そういうことか)
謎は全て解けた。
歩は自分の財布を覗いていた。
「あーちゃん」
両肩をガッチリ捕まえると、歩は「ひゃっ」と言って飛び上がった。
上目遣いで振り返った歩が、なんだかいじらしくなってしまう。
(ケーキ屋で目が合っただけで、何の疑問も抱かずにおごらせちゃうような大人も居るってのに)
勇介は歩の目の高さにかがむと言った。
「ボクと出かけるときは、お金の心配はしなくていいから」
「でも……」
歩は俯いて真っ赤になっている。勇介は小さな子供をあやすように、彼の濡れた頭をポンポンと叩いた。
パシッ!
軽くではあったが、頭に乗せた手を振り払われて、ハッとする。
「俺っ……、もうこれ以上、ひ、人の世話にはならないからっ! 勇さんに迷惑かけられないからっ!」
「あーちゃん、迷惑だなんて、そんな……」
歩はキッと睨み上げて言った。
「だって! 携帯だって勇さんの口座だし、生活費だってくれて、三人分だからって預かったけど、勇さんほとんどこの家に居ねぇから、結局俺と渚で使ってて……。家賃だって受け取ってくれないし。俺は……」
歩は一気に言って、キュッと唇を噛んだ。そんな歩の様子に、何と言えばよいのかわからず沈黙だけが漂う。ここまで頑なに拒絶する、彼の真意が見えない。年上で稼ぎのある者が家庭の経済を支えるのは、当たり前ではないのか? 自分の常識に自信が無くなってしまう。
(家族って、そんなもんじゃないのか?)
歩との間に横たわるほんのわずかな隙間が、急に広がってしまったような気がした。やっぱり、今まで別々の環境にいた他人同士が家族になるというのは、無理があるのかもしれない。
(でも……!)
ココで引き下がっては、何も変わらないとも思うし、先に進めないじゃないか。
勇介はそっと歩の肩に両手を置き、自分の方に向けた。ウソのつけない彼の瞳をじっと覗き込む。歩も真っ直ぐにこちらを見て言った。
「渚はまだ小さいから仕方が無いけど、俺は自分の事は自分で出来るから……だから」
その瞳にチラリとかすめた強い光に、勇介はようやく彼の気持ちを悟った。歩は体全部で『子供扱いするな!』と訴えていた。茶色くした髪も、(こう言っちゃ失礼だが)似合わないシルバーのピアスも、全ては彼自身の周囲に対するアピールなのだと気づく。
(やれやれ……)
十五歳、思春期真っ盛りの少年の気持ちが見えなくなっていた自分は、もうすっかり心も体もすれた大人になってしまっていたようだ。
「わかったよ、じゃあこうしよう。家賃はやっぱりもらう」
「え……?」
歩は茶色の瞳を大きく見開いた。
「毎月五千円」
「ご、五千円って……、子供の小遣いじゃないんだから!」
ふざけるな! と、ますます顔を真っ赤にする歩を制して言った。
「出世払いが条件だ」
「なんだよ出世払いって! 意味不明じゃんか! 月五千円なら、バイトしてすぐにでも払ってやるよ!」
怒鳴る歩の足元に、渚が泣きながらよちよちと歩いてきてペタリと張り付いた。歩はハッとしたように口をつぐんだ。彼はしゃがんで足元の渚をぎゅっと抱き寄せると、その首筋に顔をうずめた。
「渚、ごめんな。びっくりしたか。そっか、よしよし……」
やわらかい栗色の髪を撫でる指先が、切ないくらいに優しい。こうやって、身を寄せ合うようにして、歩は杏子と二人で生きてきたのだ。それを目の当たりにして、勇介は戸惑いを隠せない。
でも……、杏子はいない。
(だから、そのかわりにオレがいるんだろ!)
今はまだ、口に出しては言えない言葉を、勇介は心の中だけで叫ぶ。
自分はまだ言う資格がない。自分はまだ、彼らの信頼を得てはいないのだから。
リビングに戻り、ようやく落ち着いて話ができそうなので、勇介は静かに言った。
「……家族なんだからさ、家賃とかそういうの、本当にボクはどうでもいいんだよ。キミは未成年だし、まだ学生なんだ。これは変えられないことなんだよ。それに学生の本分は勉強でしょう?」
悔しそうに唇を噛む歩に、言い含めるように言葉を続ける。
「……でも、あーちゃんが大人のケジメとして払うって言うなら、本年の四月分からってことで、働き出したときに返してもらうから。それでいいでしょう?」
歩はちょっと不満げな顔をしたが、やっと小さく頷いて言った。
「わかったよ。じゃあ、勇さんも俺に遠慮したり気を使ったりしないって、約束してよね」
彼の言葉の意味がわからず首をかしげる。
「オレが気を使ってる?」
キョトンとしていると、歩は口を尖らせて言った。
「サンドイッチに対してケーキじゃ、割に合わないし」
(ああ……ナルホド)
先ほどの彼の言葉を思い出し納得した。ケーキは、歩の感覚ではどうやら特別な食べ物らしいと思い当たる。
流し台に置かれたケーキの箱をチラチラ見ている歩の顔があまりにも可愛かったので、勇介はクスッと笑って言った。
「ケーキ、嫌いだった? じゃあもう、買うのやめるよ」
ちょっとからかってみたくなる。
「そ、そうじゃなくて!」
歩は慌てて首を左右にブンブン振った。どうやらケーキは好きらしい。
からかい半分の勇介に、歩は顔をそむけると、恥ずかしそうにぼそぼそと小声で言った。
「あのさ、感謝の気持ちとかそういうの、物じゃなくていいから」
「え……?」
彼は腕に抱いた渚の頭を無意識に撫で回しながら赤面した。
「笑顔でね、言葉でね、……ただ伝えてくれればそれでいいから。そういうほうが、俺、嬉しいから」
勇介は歩の言葉に一瞬殴られたような軽い衝撃を受けた。
――笑顔で、言葉で……
たったそれだけが彼の望むことなのだ。けれどそれには様々な意味合いが含まれているのだと気付いた。
ああ……。これが家族というものなのかと、彼の言葉にまたひとつ教えられた。自分の気持ちはハッキリ言葉にする、態度に出す。歩が渚にいつもするように、遠慮せずにスキンシップを図るのもいいだろう。心と体で触れ合ってこそ家族の絆が深まるのだと、歩は教えてくれたのかもしれない。
意識してそんな事を示唆するほど彼は計算高い人間じゃないだけに、そこがまた凄い所だと思った。
歩に向かって笑顔をつくってみる。彼もとびきりの笑顔になって、勇介のほうへ手のひらを向けた。
「なに?」
首をかしげると、歩は「ハイタッチ、知らないの? オヤジだなあ」と小ばかにしたように言う。
(お、オヤジって……)
まだ二十七なのにと、少々フクザツな気分で勇介は歩の手のひらをパシッと叩く。でも、おかげでようやく歩との接し方がわかってきた。
明日は世間の「親父」たちを見習って、家族サービスとやらの真似事でもしてみるか。
【冴木のつぶやき】
ここまで連載を更新してきましたが、読んでくれている方は、はたしておもしろいと感じてくれているのだろうかと、ちょっと気になります。
筆力のなさは実感しているので、せめて物語だけは楽しめるものを作りたい、そんなふうに思う今日この頃です……
それにしても、ケーキ。最近食べてないですね……




