「鼓動-6」
夜半過ぎ、赤ん坊は峠を越した。
勇介は今日一日熱傷の赤ん坊にかかりきりだった。当直ではなかったが、この患者の容態が安定するまでは帰らないつもりで居た。宮下看護師もつきあって泊り込んでいる。
「北詰先生、よかったですね。この子が助かって」
「ああ……。だがこれから暫く長丁場になる」
「ハイ。わかってます。感染症との闘いですよね」
そう返事をすると、宮下は新しいガーゼを用意した。やけどの傷から細菌が入れば、敗血症になる恐れがある。敗血症になれば体力の落ちた患者はすぐに死に至る。とにかく今は患者の生きる力を信じて、感染症の予防に全力を尽くさなければならない。
「ガーゼは二時間おきに替えてください。体温調節にも気をつけて」
宮下は頷くと言った。
「北詰先生、お疲れでしょう。仮眠とってください。落ち着いているからボクだけで大丈夫です」
勇介はチラリと宮下のニキビ面を見た。彼もかなり消耗している様子だった。昨日は随分飲んで騒いだらしいと別の看護師から聞いている。
(救命はチーム……か)
確かにオペ重視の外科よりも、救命の方が何倍も看護師たちとの連携治療が必要な職場だ。一人でどうこう出来るものではない。
「宮下くんこそ、先に休みなさい」
「あ、じゃあ、愛ちゃんの……この患者さんのお母さんの様子を見てきます」
「え……?」
何のことかわからず怪訝そうな顔の勇介に、宮下が言った。
「お母さんも倒れちゃって、つい先ほど黒崎先生が別室に連れて行ったんですよ」
黒崎医師はまだ残っていたのか……。勇介は宮下に問いかけた。
「黒崎さんって整形だろう? なんで救命に居るんだ?」
「あれ? 北詰先生知らないんですか? 黒崎先生は桂院長の姪御さんなんですよ。開業医のお父さんと二枚看板で、市内にある黒崎クリニックの医師をしてるんです」
(この病院の医師じゃなかったのかよ)
ますます疑問がふくらむ。いくら院長の姪だからって、開業医の彼女が救命に出入りしていていいのだろうか。
疑問が顔に出ていたらしく、宮下が説明してくれた。
「黒崎先生、院長の整形外科のテクを盗むんだって、目下修行中だそうですよ。……というのは彼女の言い分で、本当は人手不足の院長が気の毒になって時々アルバイトと称して手伝いをしてくれているんです」
何だか意外だった。
(ただの、頭でっかちでケバい姉ちゃんだと思っていたのに……)
「看護師たちにも人気があって、とってもいい人ですよ」
そう言うと、宮下は倒れた母親を見に処置室を出て行った。
勇介は患者のベッドの近くに丸椅子を引き寄せて座った。感染症を防ぐ為に透明の抗菌シートが張り巡らされたベッドで、小さい患者が横たわっている。うつ伏せの状態でガーゼにくるまれた赤ん坊は、ますます渚を連想させた。
ミルクを作ろうとして、赤ん坊を抱いたまま作業していた母親が、煮立った湯をこぼしてしまったのだと聞いた。母親自身も手足にやけどを負っていたが、治療を拒んでずっと子供の側を離れなかった。
その母親が、子供が峠を越えた途端に倒れたのだ。張りつめていた緊張の糸が切れたのだろう。
「だから帰れって言ったのに……」
つぶやいた時、処置室のドアが開いて黒崎医師が入って来た。
「北詰先生、お疲れ」
昼間取り乱したところを見られてしまったので、何となくバツが悪かったが、なんとか無表情を作って会釈した。
彼女は患者の方だけを見ながらベッドに近付いてきた。きっちりとアイラインを引いた目で透明シート越しに患者を見て言った。
「皮膚移植が必要だわね。女の子だし、傷痕が残らないように何とかしてあげたいわ」
切なげにつぶやく黒崎を見て、勇介の中で何かが見え始めた。人として、医師として、大切なもの。その感覚は何とも言いがたいが、強いて言えば『目からウロコ』のような状態だった。S大病院ではオペは患者の為というより、自分のスキルを上げる為、また、教授の株を上げる為という意識のほうが強かったように思う。結果的に成功すれば、患者も自分も満足なのだから、それで良いと思っていた。でも、違うのだ。
(患者の立場に立った医療というのは、もっと……もっと別の次元の……)
「北詰先生のこと、ちょっと勘違いしてたかもしれない。申し訳なかったわ」
考えがまとまりかけた時黒崎に声をかけられて、勇介の思考は空中分解した。
「勘違いって、何が?」
集中を乱された不愉快さに、少々ぶっきらぼうになる。黒崎は気にする風もなく言った。
「S大病院のエリート医師、技術だけが売りの冷血漢。プライドがやたら高くて誰も信用できない、孤高の王子様。……そう思っていたけど、あなたちゃんとハートがあるじゃない!」
そう言って彼女はいきなり彼の胸に手のひらを押し付けた。なんだか背筋がゾゾッとして、思わず椅子から立ち上がると、彼女は笑って言った。
「気に入ったわ。セフレじゃもったいないから、本気であなたを狙おうかな」
「ぐえっ!」
再びの爆弾発言に、勇介は一歩も二歩も引いた。
冗談じゃない!
「いや、ボクには心に決めた人が居るし……」
「それって、ウソでしょう? 目を見ればわかるわ。年上の女を舐めない事ね」
――怖っ!
「本当に、困るんですよ」
妖艶な眼差しで上から下まで舐めるように見ている黒崎に、かろうじて意思表示をしたが、彼女は結い上げた黒髪を揺らして「ハハハ」と豪快に笑っただけだった。
(この女にも気を許してはいけない!)
S大病院とはまた違う意味で、緊張感の漂う病院ライフになりそうな予感がする。
勇介はこの場を黒崎に任せて「タバコを吸いに行ってきます」と言って病院の屋上へと避難した。




